【三国志】荀彧・周瑜・魯粛、3人の天才が戦えば、誰が一番強いのか?
2024年10月22日(火)5時50分 JBpress
約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
荀彧、周瑜、魯粛。残る3名の天才の戦い方、勝ち方の特徴とは…
前回の記事では6人の天才軍師のうち、郭嘉、司馬懿、諸葛亮の3名の戦い方、勝ち方を分析しました。では、残りの3名である荀彧、周瑜、魯粛の戦い方はどのようなものだったのでしょうか。
この記事では残り3名の天才の戦い方を分析し、全6名の天才軍師たちが全員でバトルしたらどうなるかを(後編:次の記事)考察します。その考察から、三国志時代の戦い方、勝ち方の力学を浮かび上がらせることが狙いです。
荀彧・郭嘉・司馬懿・周瑜・魯粛・諸葛亮。それぞれたった一人でも天才的な手腕で国を動かすほどの力量を持っていた人物たち。彼らはその勝ち方や戦略眼に、どんな特長を持っていたのでしょうか。
曹操の右腕だった王佐の才、荀彧の戦い方&勝ち方
荀彧は191年(荀彧が29歳)に曹操と出会います。最初の危機は、194年の陳宮の反乱であり、その時は猛将呂布などを抱き込んだ陳宮の策で、3つの城を除くほぼすべての兗州拠点が曹操陣営から離れました。
この時、荀彧は軍事を取り仕切る夏侯惇を呼び寄せて反乱分子を排除し、軍師の程昱を派遣して荀彧がいる鄄城以外の2つの城を防衛させることに成功します。この3城を堅守したために、曹操が遠征から帰還したのちに形勢を逆転できました。
この防衛戦の過程で、荀彧は非常に多くの人を説得しており、絶望的に見える状況で、必要な人物たちの結束を固めることに成功しています。そして、その基盤には「ものごとの帰結を洞察する」力が働いていることが推察できます。
3つの城を守り、曹操の帰還を待つためには「けっきょくは、大将である曹操が戻ればわれわれは逆転する。なぜなら、呂布は将の器としては曹操の比較にならないからだ」という論理を持ち、それをキーパーソンに信じ込ませることが必要になります。
眼の前の状況(苦境)からは見えない、大局的な流れが荀彧には見えている。だからこそ、荀彧は、自分自身の大局的な流れを読む力、帰結を想定する力を元にしたビジョン(今後の予想)を重要なキーパーソンと共有して、結束力を固めることができたのです。
「大局的な流れを読み、物事の帰結を想定して策を組む」。この力は、荀彧の幕僚として、軍師としての活躍を支えた能力だったといえるでしょう。献帝を曹操陣営に迎えたことも、荀彧の「大局的な流れを読む」、洞察が成功に導いたことです。
袁紹と曹操が衝突した大戦争でも、二人の大将の力量を比較して、最終的には曹操が勝利することを、曹操自身に信じ込ませました。荀彧は、大局的な視点と物事の帰結を利用して周囲を団結させ、曹操陣営の勝利を生み出していたのです。
孫呉を支えた名臣、周瑜という人物の勝ち方
周瑜は、孫権の兄の孫策の時代から呉に仕え、孫策の死後はその弟である孫権を立てて呉を盛り立てました。赤壁の戦い(208年)での活躍はみなさんのご存じの通りですが、その後は北上して蜀を占領し、北方の馬超と同盟をすることで、曹操との対決を計画していました。
周瑜は、天下三分の計ではなく、天下二分の計を持っていたといえるかもしれません。
周瑜は赤壁の戦いの決断の際に、「曹操軍は強いが陸戦が主体であり、呉の水軍と水上で戦うなら必ず相手が敗れる」として、孫権に決戦を迫りました。これを見る限り、周瑜は「こちらの強みと相手の弱みをぶつける」ことで勝機をつかむことが得意なことがわかります。
北上して曹操と対決する計画も、「赤壁で敗北したばかりの曹操軍は、蜀に手を伸ばす余裕がない」「犬猿の仲の馬超は、曹操と手を組むことはあり得ない」という目論見で、同じく曹操の苦手と、こちらの得意を掛け合わせています。
一方で劉備軍団については、劉備と関羽、張飛を引き離して、呉の勢力内に飲み込んでしまう案を一時持っており、その意味で周瑜は自前主義、同盟よりもむしろ併呑してしまうことを好んだといえるでしょう。
いぶし銀のようなイノベーター、魯粛という人物の勝ち方
魯粛はもともと軍人ではなく、周瑜に財貨を与えたことで呉の陣営に入ることになった人物です。ただし、魯粛は富貴な家に生まれながらも、青年期から私財で軍事訓練の真似事をしており、財産家の富では、すでに何事かを成せない新時代が来ると読んでいました。
周瑜を通じて孫権に会った時も、「漢王朝はすでに衰微しており、新しい時代の皇帝を狙うべき」だと進言して、周囲の重臣をあわてさせています。魯粛は、時代の転換点を鋭く見抜き、頭を切り替えて新時代に対処する人物だったようです。
赤壁の戦いにおいて「劉備陣営を利用すべき」と考えたのも魯粛であり、その後、曹操に対する防波堤として劉備陣営に土地を貸しておくことを進言したのも魯粛です。他の者が思いつかない思い切った発想を持てる人物だったのでしょう。
その後の推移をみると、蜀が建国されたことで曹操の魏はその対応をすることになり、諸葛亮の北伐なども、呉以外の問題を魏に与えた点で、魯粛の読みは正しかったことになります。
蜀の滅亡が263年であり、呉の滅亡が279年と、蜀のあとになっていることも、魯粛の戦略眼の高さを証明しています。
魯粛は現実主義者として時代の転換点を読んでおり、発想は大胆でイノベーション的でした。ただし、このような飛躍的な発想をする人物は、往々にして支持を簡単に得られないことも多いでしょう。魯粛の才能を見いだせた人物だけが活用できるようなタイプです。
全体として、時代の転換点、情勢の転換点を巧みに活用することが、魯粛の得意な勝ち方だったと推察することができるでしょう。
では、荀彧、周瑜、魯粛が戦えば、誰が一番強いのか?
3名の戦うスタイルはそれぞれ違います。もしスタート時点の基盤がほぼ同じ規模ならば、荀彧は自分と志が同じ人物や勢力と、早期にネットワークを創り上げ、その勢力で「正当性」や「時代の方向性」を組み立てていったのではないでしょうか。
時代の進むべき方向性、というものを構築することで、「この勢力に付き従うことが正しい」と多くの人々に思わせ、その勢力を急速に拡大していくことを実現したと思われます。
周瑜については、自前主義の観点から、自分が主役もしくは対等の立場になることができる相手との同盟から始まり、相手を取り込む形で自分の地位を固めながら前に進んだと推測できます。そのため、ニッチながら強いという勢力を作り、それが拡大できる機会をうかがいながら内容を充実させていくイメージです。
ただ、荀彧からすれば、周瑜の打ち立てた勢力に「正当性」があれば、彼らと同盟関係になることをいとわなかった可能性はあります。逆に、周瑜側から荀彧陣営と同盟を結ぶ、配下になることは、おそらく性格上ありえないと推測されます。
一番難しいのは魯粛で、そのイノベーター的な視点ゆえに、平時には同盟関係を結んだり、自らの勢力を拡大することがあまりできないと推察します。魯粛は、情勢や時代の転換点に立っていることで光る人物であり、時代の転換点に乗じようというリーダーの右腕になるような活躍をすると思われます。
総じて、全体戦略では荀彧が有利、局地的な戦闘なら周瑜が有利。ただし両者が激突する前に、荀彧は局地的な戦闘で、周瑜を凌駕できる優秀な人材を先に発見している可能性があります。魯粛は自らが最大限に活きる転換点を探して動き回る、という展開になるのではと推測できるでしょう。
筆者:鈴木 博毅