「朔平門外の変」実行犯の薩摩藩士・田中新兵衛の自殺の理由と「黒幕」の存在

2023年11月15日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)

◉朔平門外の変160年—姉小路公知暗殺の歴史的意義①
◉朔平門外の変160年—姉小路公知暗殺の歴史的意義②
◉朔平門外の変160年—姉小路公知暗殺の歴史的意義③


事変の実行犯は田中新兵衛なのか

 文久3年(1863)5月20日に勃発した朔平門外の変において、姉小路公知を暗殺した実行犯として捕縛されたのは、薩摩藩陪臣の田中新兵衛であった。事変時に遺棄された刀が、田中のものであることを否定する史料は皆無であり、長州・土佐両藩士には田中を知るものが多く、皆が田中のものと証言している事実は重い。

 また、姉小路を護衛した従者中条右京は、狼籍者の一人が手疵を負ったと証言した。本件について、薩摩藩側の史料でも、田中が丁度その時期に手疵を負っており、姉小路の家来にも剣の達人がいて、狼籍者の内1人に手疵を負わせており、このことは田中が実行犯である証拠ではないかと意見する者もいると記している。当時の在京薩摩藩士である高崎正風も、一応関与を否定はしているものの、田中が「乱心」との前提で含みを残した発言をしている。

 事件後に田中に会った某藩士は、田中が刀を帯びていないことを詰ると、田中は刀師に託して直していると回答したが、田中が言うところの受託の刀師はいなかったと証言している。さらに、薩摩藩士某は、田中は祇園新地の某妓楼に逗留している時、賊によって刀を盗まれており、姉小路を斬ったのもその賊に間違いなく、特にその刀を遺棄して証拠とし、罪を田中に転嫁した。田中は刀を盗まれたことを恥じ、藩風を重んじて自殺したと証言した。しかし、祇園新地に該当する妓楼は存在しないとしており、田中説を補強する。

 姉小路家臣の跡見重威が中条を伴って町奉行所で検死を行ったところ、中条はまさに姉小路を襲った賊であり、まったく疑ふ余地はなしと証言した。当時も、この事実が状況証拠とされ、「実ニ田中ハ本人ナルヘシト申事ニテ候」(『忠義公史料』)と、薩摩藩史料においてもその関与に言及している。田中が実行犯であると断定しても、問題なかろう。

 なお、田中の自殺の事由であるが、今後藩に甚大な迷惑をかけることを恐れ、自殺によって自らその口を封じたもので、薩摩藩の関与はなかったと考えたい。


田中以外の刺客は誰か

 朔平門外の変における刺客は3人おり、事件当初から、田中以外の2名の犯人推理が公家間で行われていた。『中山忠能日記』(文久3年5月22日条)によると、幕府奸吏、侍従滋野井公寿・大夫西四辻公業同志、会津藩士、大坂与力同心関係者を列挙している。

 幕府奸吏説について、当初、町奉行所における田中自殺という事実から、即時攘夷派廷臣は幕府も共謀していると懐疑した。そのため、連署して京都町奉行永井尚志らを逮捕・拷問すべきとの激越な意見書を提出したが、永井は謹慎差控の処分となった。なお、永井らの関与の証拠はその後も示されず、幕府への嫌疑は著しく後退することになった。

 会津藩士、大坂与力同心関係者についても、その後も取り立てた動きもなかった。侍従滋野井公寿・大夫西四辻公業同志説が残ることになったが、果たして同じ公家の中で、黒幕など存在し得るのだろうか。この問題を掘り下げていきたい。


過激廷臣《滋野井公寿・西四辻公業》の関与

 滋野井公寿は、天保14年(1843)生まれで、この時20歳、羽林家の廷臣であり、父は従三位滋野井実在であった。安政3年(1856)に元服し、昇殿を許されて侍従となった。慶応3年(1867)、敦賀に赴く英国公使パークスの伏見通過にあたり、父実在および侍従鷲尾隆聚らとイギリス人の洛中潜伏や諸藩士不穏の対応を上申した罪で差控を命じられ、後に赦免された。翌4年1月、相楽総三を隊長とする赤報隊が結成されると、綾小路俊実とともに盟主となり、維新後は甲府県知事などを歴任した。

 西四辻公業は、天保9年(1838)生まれで、この時25歳、羽林家の廷臣であり、安政3年(1856)5月に従五位上に叙任し、安政5年(1858)の堂上88卿列参に参画した。慶応2年(1866)、中御門経之らと国事犯赦免などを求めた22卿列参に加わり蟄居となり、後に赦免された。翌3年12月の王政復古政変にあたり、参与助役に任命され、明治元年(1868)には東征大総督府参謀として活躍した。

『中山忠能日記』によると、朔平門外の変前日の5月19日夜、滋野井・西四辻および西四辻家来植田主殿の3人が出奔する事件が起きた。その前に、植田は学習院に建白書(過激な文言が含まれる国事に関わる不穏な内容、同志が300人もいると脅迫)を提出したが不採用となり、憤怒の気色が以前からあり出奔に至ったとされる。学習院での不採用は姉小路が関与したとも考えられ、その遺恨や即時攘夷派から距離を置き始めた姉小路への不安と敵愾心から、2人が家臣をして姉小路暗殺を画策した可能性がうかがえよう。


滋野井・西四辻の黒幕としての実相

 滋野井・西四辻の出奔は計画的であり、事前に物品を処分し換金の上で持参している。さらに出奔時、西四辻は関白鷹司輔煕に書置き「成功之後帰ル趣有之候由」(『維新楷梯雑誌』、文久3年5月19日条)を残している。ここに記された「成功」について、姉小路暗殺を示唆していると考えられる。

 滋野井らが、どの段階で帰京したかは不分明である。しかし、出奔から1週間程度での帰京であったと思われ、5月28日には朝廷から2人に対し、容易ならざる風聞があるため、禁足(罰として外出を禁止すること)を申しつけている。この時点で、姉小路暗殺をかなり意識した禁足である。

 6月5日、朝廷より2人の尋問が行われた。西四辻は、迫々時勢は切迫し宸襟を深く悩まされ、攘夷実行を度々武臣へ仰せつけられたが、毎回期限は守られず、何とも恐れ入るばかりである。よって、後醍醐天皇陵参拝と称して、親征嘆願をするため出奔し、天皇の名を借りて、攘夷実行の決意を示し、民衆の協力を得て攘夷の実を挙げる覚悟であったと述べた。

 一方、滋野井公寿は西四辻との盟約もあって、吉野山へ参詣して後醍醐天皇陵で吉凶を占い、直ちに天皇像を担いで帰京し、攘夷親征を願い出るため出奔したと述べた。さらに、滋野井はそれ以外の出奔事由を否定しており、これは取りも直さず、暗に姉小路暗殺を否定したものである。なお、滋野井・西四辻ともに反省の弁を述べ、御憐愍の御沙汰を懇請している。 


真犯人は滋野井・西四辻の家臣か?

 6月11日、滋野井・西四辻の2人の家臣が朔平門外の変への嫌疑から出奔すると言う、驚くべき事態が出来した。拘留されている薩摩藩士仁礼源之丞の釈放にまでは至らなかったものの、同日、薩摩藩士の九門出入りのみが許可された。薩摩藩は嫌疑が寃罪として氷解し、俄然、有利な展開となったのだ。ちなみに、仁礼の釈放は8月18日政変直後の20日であった。

 また同日、滋野井・西四辻の2人が犯制他行により禁足(8月12日には差控有免)が改めて申し渡された。この11日に同時に起こった2人の家臣2名の出奔、2人への禁足申渡、薩摩藩の九門出入り解禁の3事実を、一連の流れで捉えない方が不自然であろう。

 以上を踏まえ、姉小路公知の暗殺実行犯は田中新兵衛および滋野井公寿・西四辻公業家臣2名と考えることが妥当である。仁礼源之丞およびその他薩摩藩士の関与は、その物的証拠がなかったことからも、非現実的である。藩ぐるみの謀略ではなく、田中の突出した個人的犯行ととらえたい。

 次回は、姉小路公知暗殺の背景として、勝海舟の存在があったことを明らかにし、朔平門外の変の歴史的な意義について、考察を深めたい。

筆者:町田 明広

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