姉小路公知はなぜ暗殺されたのか?勝海舟の関与と、朔平門外の変の歴史的意義

2023年11月22日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)

◉朔平門外の変160年—姉小路公知暗殺の歴史的意義①
◉朔平門外の変160年—姉小路公知暗殺の歴史的意義②
◉朔平門外の変160年—姉小路公知暗殺の歴史的意義③
◉朔平門外の変160年—姉小路公知暗殺の歴史的意義④


姉小路公知の通商条約容認への変節疑惑

 文久3年(1853)5月20日、朔平門外の変が勃発し、姉小路公知が暗殺された。姉小路はなぜ殺されねばならなかったのか、今回はその理由を突き詰めてみたい。

 姉小路と言えば、即時攘夷派の中心人物であり、現行の通商条約は直ちに破棄すべきであるという立場であった。しかし、暗殺前には通商条約の容認へと変節したのではという疑念が起こっていたのだ。

『中山忠能日記』(5月9日条)によると、「姉小摂海巡検何等事有之候哉」と中山は正親町三条実愛に尋ねている(回答は「分からない」)。姉小路の出処進退の変化に、堂上において既に疑念が生じていることがうかがえる。

 中山は20日の日記には、幕府からの廷臣に対する高額な経済援助の申し出があり、三条実美と姉小路も同様に幕府に篭絡されており、誠に嘆かわしいと記載している。また、薩摩藩士の村山斉助は藤井良節宛の書簡(5月20日)の中で、三条・姉小路が幕府からの賄賂によって篭絡され、言動が穏当に変化していると伝えている。


姉小路暗殺の理由—勝海舟との邂逅

 文久3年4月21日、14代将軍徳川家茂は摂海(大坂湾)巡見のため、京都から大坂に下った。即時攘夷派は、そのまま家茂が江戸に戻ってしまうことを恐れ、朝廷から姉小路に沿海警備の巡見を命じて、家茂の動静を監視させることになった。

 4月23日、姉小路は長州・紀州・熊本などの諸藩志士120余人を率いて下坂した。25日朝、姉小路は軍艦奉行並の勝海舟の訪問を受け、その時に摂海警衛について質問した。さらに、海軍の必要性に関する勝の進言を十分に聴取し、午後には従士とともに幕府軍艦順動丸に乗り込み兵庫へ向かった。

 その航海中、勝は重ねて海軍設置を説いたため、姉小路は前向きとなったが、これこそまさに姉小路の変節の起点となったのだ。勝の日記によると、5月1日朝には「姉小路殿へ到り、拝謁。海軍並砲台の事を申す。且、友ケ島近傍測量の図を呈す」と、その後も勝は継続して姉小路に謁見して、海軍や海防に関して進言をしたり、測量図を見せたりしている。

 こうした勝との出会いによって、姉小路は初めて攘夷の非を悟り、これ以降「やや通商条約容認説に傾くに至」(『徳川慶喜公伝』)っている。姉小路は5月2日に帰京したが、その後、暗殺に至るまでの具体的な言動は分からない。しかし、勝の言説を重視し、即時攘夷派から後退したことは間違いなかろう。


朔平門外の変への導火線—勝海舟

 文久3年5月5日、武家伝奏から摂海防備に関する沙汰書(製鉄所・海軍設置)が幕府に届いた。9日に至り、老中板倉勝静は本件を勝に伝え、朝命として実行を沙汰した。勝は、「長年日本のために尽力してきたが、一度姉小路卿に説明したところ、その英明さによってついに自分の思いは奏聞され、今日このような沙汰を拝聴することができた。自身の微衷が天朝に貫徹し、日本が勃興する礎がようやく立とうとしている」と、感激を吐露した。

 この朝命に対し、会津藩はその背景を姉小路への勝の説論によるものと認識していた。さらに、即時攘夷派も同様に認識しており、勝による姉小路への影響力は想像をはるかに超えるレベルにあったと言えよう。

 姉小路の画策による今回の勅命は、その先には通商条約の容認といった姉小路による奏聞が予想された。つまり、既に即時攘夷派には看過できない状況であったのだ。


朔平門外の変の誘因—勝の学習院出仕

 文久3年5月21日、朔平門外の変の翌日に当たるこの日、勝海舟は日記(『幕末日記』)に以下のように記載した。

此人朝臣中の人物にて、大に人望ありしが、何等の怨にやよりけん、此災害に逢はれし。小子輩此卿に附きて、海軍興起より、護国の愚策、奏聞を経て、既に御沙汰に及びしもの少なからざりしに、実に国家の大禍を致せり。歎息愁傷に堪へず

 これによると、姉小路は廷臣中の傑出した人物であり、大いに人望があったが、この災難に遭われたのはどのような恨みかと、勝は怒りを爆発させた。そして、自分のよう微臣の分際でも目をかけていただき、海軍振興を始めとする「護国の愚策」(日本を守るための勝の施策)が奏聞を経て、既に実行の沙汰を下されたものが少なからずある中で、今回の遭難は実に国家の大禍であり、歎息愁傷に堪へないと、勝は深甚に嘆息した。

 この発言は、姉小路のブレーンとしての勝の立場が理解できるものである。勝にとっても、自身の政策を国政レベルで実現する、大きなチャンスを喪失したことになるのだ。

 さらに勝は、5月23日の日記に以下のように記載した。

明日、下坂すべき趣を、(板倉勝静に)申乞ふ。これは、姉小路殿横死後、御所向穏かならず、また外に言上すべき御方なし。其実は近々学集院へ参上し、万事を上奏せんとおもひしに、時至らず、禍起、其甲斐なきを以て、一旦下坂すべきと決定す

 これによると、姉小路暗殺後の朝廷は動揺し、かつ献策できるほどの器を持つ人がいないため、下坂することを板倉に伝達した。そして、勝自身が当時の即時攘夷派廷臣の溜まり場と化している学習院で、自説を開陳するはずであったが、姉小路遭難によってそれに至らなかったことが理由と述べている。

 勝の学習院出仕は実に大胆であり、即時攘夷派にとっては忌々しき事態であったのだ。この事態を阻止するため、朔平門外の変が起きた可能性を指摘したい。


朔平門外の変の歴史的意義とは

 姉小路公知が勝海舟との親密な交渉によって、勝の海軍創設・殖産興業・征韓論といった対外的・対内的な国家防衛に関する言説を受け入れ、それまでの単純な無二念打払から穏健的な攘夷論、その先にある漸進的な通商条約容認論に転向したことに対して、即時攘夷派が暗殺によって姉小路を亡き者にした事変こそ、朔平門外の変であった。

 それまで即時攘夷派の旗頭であった姉小路が変節することは、攘夷運動そのものの実行が危ぶまれる由々しき事態であった。また、即時攘夷派の士気の著しい低下は免れず、同派にとっては死活問題であり、その影響は三条らに及びかねない危険なものと認識された。

 勝は、即時攘夷派の桂小五郎などの知識派も一目置く存在であり、その勝を学習院に出仕させようとする姉小路の画策によって、その焦燥感は頂点に達したのだ。しかし、即時攘夷派にとっては幸いなことに、当時はまだ姉小路は変節したばかり、かつ攘夷実行のために尊王志士は長州藩等に下向しており、姉小路の変節を知る者は極僅かであった。

 とは言え、堂上に刃を向けるなど前代未聞のことであり、しかも姉小路は当代きっての実力者ゆえに、その暗殺は躊躇されるものであった。そこで、即時攘夷派の中でも身分が低く、国事参政・寄人でもない滋野井公寿・西四辻公業がその黒幕となり、田中新兵衛を巻き込んでの犯行に至ったのだ。

 結果として、薩摩藩関係者が捕縛され、嫌疑が濃厚と見られたために、即時攘夷派によって、敵対勢力の中心である薩摩藩の威信を排除する画策にも、朔平門外の変は十分に利用された。親薩摩藩の朝廷内最大の実力者、中川宮への圧力手段にも利用され、追い詰められた薩摩藩、そして宮によって8月18日政変が企図された。朔平門外の変は、まさに8月18日政変への導火線であったのだ。

筆者:町田 明広

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