『どうする家康』公私で支えた家康の側室・阿茶局の生涯、大坂冬の陣で活躍
2023年12月4日(月)12時0分 JBpress
文=鷹橋 忍
大河ドラマ『どうする家康』も最終回が近づき、ついに「大坂の陣」が描かれた。
そこで今回は、大坂の陣において、重要な役割を果たした家康の別妻・松本若菜演じる阿茶局を取り上げたい。
阿茶局とはどのような出自をもち、どんな最期を迎えるのだろうか。
甲斐武田氏の家臣・飯田直政の娘
阿茶局は名を須和(すわ)という(ここでは、阿茶局で統一)。
弘治元年(1555)に生まれたとされ(斎木一馬・岩沢愿彦・戸原純一・校訂『徳川諸家系譜』第2など)、天文11年(1542)生まれの家康より13歳年下となる。
父親は、甲斐武田氏の家臣であった飯田直政だ。戦国時代の飯田一族に名の知れた者はおらず、直政も特に事績は伝わっていないという(白嵜顕成・田中祥雄・小川雄著『阿茶局』)。
若くして夫と死別
阿茶局は家康の別妻となる前に、一条右衛門大夫信龍に仕えていた神尾忠重と結婚している(『寛政重修諸家譜』)。
神尾忠重が仕えたとされる一条右衛門大夫信龍(一条信龍)とは、阿部寛が演じた武田信玄の異母弟である。
阿茶局と神尾忠重の婚姻の時期は不明だが、天正2年(1574)に長男の神尾守世が生まれているので、それ以前のことと思われる。
「幕府祚胤伝」(高柳金芳校注『史料徳川夫人伝』所収)によれば、神尾忠重は、天正5年(1577)7月に、死去してしまった。
神尾忠重の没年は、「柳営婦女伝系」(高柳金芳校注『史料徳川夫人伝』所収)では永禄3年(1560)、『寛政重修諸家譜』では天正16年(1588)と記されており諸説あるが、天正5年として計算すると、阿茶局は、数えで23歳の若さで、夫を失ったことになる。
家康の子を流産?
「幕府祚胤伝」によれば、寡婦となった阿茶局は、天正7年(1579)5月、家康に召し出された。名を「阿茶局」と改め、以後、「所々御陣に供奉」したという。
天正11年(1583)には、阿茶局と神尾忠重の長男・神尾守世が10歳で、森崎ウィン演じる徳川秀忠の小姓になったとされる(『寛政重修諸家譜』)。
阿茶局は天正12年(1584)、小牧・長久手の合戦に在陣したときに、家康の子を懐妊していた。ところが、戦場にて流産したという(「幕府祚胤伝」)。阿茶局、30歳のときのことである。
以後も、阿茶局が家康の子を産んだという記録は残っていない。
だが、家康からの信頼は厚く、庶務や外交も任され、家康の「御台」と称された。ドラマの阿茶局と同じく、聡明で才覚のある女性だったのだろう。
また、天正17年(1589)に、徳川秀忠の生母・広瀬アリスが演じた於愛の方が、翌天正18年(1590)に山田真歩が演じた家康の正妻・朝日姫(秀吉の妹)が亡くなったため、阿茶局が秀忠の「母代」を務めたとされる(白嵜顕成・田中祥雄・小川雄著『阿茶局』)。
家康の死後も髪を下ろさず
阿茶局は慶長19年(1614)12月の「大坂冬の陣」の講和交渉において、井上祐貴演じる本多正純とともに使者を務めた。このとき阿茶局は60歳で、家康の妻の筆頭であったという。
元和2年(1616)4月17日、家康が没し、他の側室たちはみな出家したが、阿茶局だけは家康の命により髪を下ろすことが許されなかった。家康は徳川家にはまだ、阿茶局の力が必要だと思ったのだろうか。
阿茶局は元和6年(1620)、秀忠の娘・徳川和子(東福門院)が、後水尾天皇のもとに嫁ぐ際に、「母代」として和子に随行して上洛している。
阿茶局は従一位に叙され、「一位殿」と称された。
寛永9年(1632)、秀忠が死去すると、阿茶局は、これでようやく役目を終えたと思ったのか、髪を下ろし、雲光院と号した。
そして、寛永14年(1637)正月22日、83歳で長い人生に幕を下ろした。
阿茶局と綿帽子
最後に、阿茶局の有名な逸話をご紹介したい。
ある年の正月、駿府の家康のもとに、徳川秀忠の名代として、酒井家次(大森南朋演じる酒井忠次の息子)が、年頭御礼に訪れた。
その時、家次はうっかり鳥帽子を落としてしまい、寒さのあまり、烏帽子の下に綿帽子を着用していたことが、家康にバレてしまう。
家康は家次を、「若者に綿帽子など、必要ない。もし、東西の諸侯が集る江戸であったら、将軍が外見を失う」と、叱り始めた。
すると、家康の側にいた阿茶局が、家次が風邪をひいていたため、「私が綿帽子を被って、温かくして登城するように申し上げた」と助け船を出した。
阿茶局の才覚と優しさに心打たれたのか、家康も機嫌を直したという。
あくまで逸話であるが、ドラマの阿茶局も同じ場面が訪れたら、きっと鮮やかにその場を収めることだろう。
阿茶局ゆかりの地
●雲光院
東京都江東区にある阿茶局の菩提寺。阿茶局が自ら発願して、慶長16年(1611)に建立された。
開創時は、東京都中央区馬喰町付近にあったが、明暦3年(1657)の大火によって被災し、神田岩井町への替地を経て、天和2年(1682)に現在の地に替地となったという。
開基は阿茶局で、境内には阿茶局の墓がある。
●旧鈴木家屋敷跡
室町時代から続く名家である鈴木家の屋敷跡。鈴木家は、万斛村(現在の静岡県浜松市東区中郡町)に屋敷を構えていた。家康は鈴木家に阿茶局を預け、狩りなどの際に、たびたび立ち寄ったと伝えられた。
筆者:鷹橋 忍