地下鉄駅で倒れる乗客が次々、謎の液体の鑑定結果は「サリン」…科学捜査で突きとめた「オウム真理教が製造」
2025年3月10日(月)10時18分 読売新聞
通勤ラッシュの時間帯に起きた「地下鉄サリン事件」。営団地下鉄(当時)日比谷線神谷町駅から運び出される通勤客ら(1995年3月20日)
謎の液体がしみ込んだ脱脂綿は3重のポリ袋に保管されていた。緊急鑑定を行うと、猛毒ガスを示すアルファベットがモニターに浮かび上がった。
〈Sarin〉。1995年3月20日、時刻は午前9時34分。液体は東京都内を走る地下鉄の車両から採取されたものだ。複数の駅で乗客が倒れているという通報が相次いでいたが、原因は不明だった。
モニターを前に、警視庁科学捜査研究所研究員の
死者14人、負傷者6000人超を出すことになる「地下鉄サリン事件」。この日を境に「オウム真理教」と
「暗い、夕方のようだ」発言に嫌な予感
いつもと変わらない朝の静けさが、救急車のサイレン音で破られた。
1995年3月20日午前8時20分過ぎ。東京・霞が関にある警視庁科学捜査研究所で白衣を着込み、仕事の準備をしていた
「地下鉄の築地駅で人がたくさん倒れている」。小伝馬町、人形町、霞ヶ関。他の駅も同じ状況だった。
9時5分。脱脂綿が入った3重のポリ袋を持って捜査員が科捜研に入ってきた。築地駅に停車中の車両から液体を採取したという。捜査員は「暗い。夕方のようだ」と言った。
縮瞳——。瞳孔が縮んで視界が暗くなる症状は、前年6月に長野県内で発生した松本サリン事件の被害者にも表れていた。嫌な予感がした。
庁舎の屋上へ駆け上がり、風を背に受けて息を止め、ポリ袋をほどく。脱脂綿をピンセットで三角フラスコに移し、部下に渡して緊急鑑定を行った。液体が残った袋の処理を済ませて階下に戻る。モニターに示された鑑定結果は「サリン」。警視庁トップの警視総監に報告が上がり、「人命に関わる問題。即、発表だ」と判断された。
「サリンの可能性が高い」。11時、捜査1課長が記者会見で発表した。警視庁では「オウム真理教」による犯行との見方が浮上していた。
「世の中のために」のはずが、組織に不満
中学の頃から理数系科目が得意で、証明問題を独自の方法で解いて数学教師を驚かせた。進んだ東京理科大では「応用がきく」と化学を学んだ。
ある日、警視庁科捜研に勤める同大OBの話を聞いた。薬物鑑定を行い、裁判にも証人出廷するという。「世の中のためになる仕事だ」。魅力を感じて採用試験を受け、81年、技術職である科捜研研究員になった。
入庁3年目で「誰もが一発合格する」という主任昇任試験を受けたが、2年連続で落ちた。鑑定方法を巡ってよく上司と衝突していたことが影響したとみられ、「内申」が低かった。プライドが傷つき、「もう辞めてやる」と思い詰めた。
「どうせ辞めるなら博士号を取ってからにしよう。組織を見返してやる」。日中は科捜研で働き、夕方からは東邦大で薬理学を学ぶ日々が始まった。
3か月後、師事していた伊藤隆太教授(故人)から「君はいつも『博士を取りたい、取りたい』と考えていないか」と質問された。温厚な伊藤教授にしては厳しい口調だった。「学位は目標ではない。取得してからが始まりだ。死ぬまで社会貢献する責任を背負うんだ」と諭された。
心中を見透かされたと思った。警察で認められなかった腹いせに学位取得のみを目指していた未熟さを恥じた。実験に打ち込むようになり、92年、薬毒物の研究で医学博士を取得した。
オウム施設へ強制捜査、知識と技術発揮
博士になって3年後に起きた地下鉄サリン事件は、蓄積してきた知識や磨いてきた技術が最大限に発揮された捜査現場だった。
事件から2日後の95年3月22日。警視庁は山梨県上九一色村(当時)のオウム施設へ強制捜査に入る。3週間前に拉致された目黒公証役場事務長・仮谷清志さんの逮捕監禁容疑。連日の捜索で膨大な量の資料を押収した。
「化学がわからない。教えてほしい」。こう請われて化学式が書き込まれた「実験ノート」などを精査すると、理屈の上ではサリン製造は可能だとわかった。それを実行できていたのかが捜査のカギとなった。
4月に入ると、捜査員と一緒に上九一色村の施設「サティアン」に向かった。サリン製造プラントとみられていた第7サティアンを調べた後、そばにあるプレハブ小屋が目についた。中に入ると有機合成物の独特の臭いが鼻をつき、使い込まれた実験器具が見つかった。「ここじゃないか」
実験器具の付着物を鑑定すると、サリンが分解した時にしかできない「モノイソ」と呼ばれる化学物質が検出された。「サリンとオウムの結びつきが科学的に証明された」と確信した。
無差別殺人の疑いが強まり、警視庁は教祖の麻原彰晃こと松本智津夫・元死刑囚(執行時63歳)らの逮捕を決断する。5月15日の逮捕状請求の場では服藤さんは教団によるサリン製造を科学的な知見から裁判官に説明した。
しかし「教祖逮捕にはもっと証拠を固めるべきでは」と裁判官の腰は重い。そこに東京地検で事件の主任を務めていた鈴木和宏検事(73)(現・弁護士)が到着し、「証拠は十分だ。今、教祖を逮捕できないなら、将来もできない」と熱弁をふるった。数時間後、41人分の逮捕状が出た。
16日、松本元死刑囚らが殺人・殺人未遂容疑で逮捕された。鈴木さんは「警察組織に服藤さんがいたのは大きかった。毒物に精通する彼なしでは事件解明は困難だっただろう」と振り返る。
捜査での科学の重要性が強く認識され、96年、警視庁は「科学捜査官」を新設した。初代の一人となった服藤さんは、研究員とは異なり捜査権限を持つ「警察官」としてのスタートを切った。
和歌山毒カレー、歌舞伎町火災…大事件で浸透
ただ、当時の捜査現場では科学捜査への理解は必ずしも十分ではなかった。「頭でっかちは要らない」といった声も聞こえてきた。
転機となったのは世間の耳目を集めた事件だった。
98年に和歌山県で4人が死亡した毒物カレー事件で、警察庁の求めで「指導官」として現地に赴き、毒物の特定に奔走。2000年に失踪した英国人女性に関連する性的暴行事件では、犯行が記録された映像などから被害者に投与された薬物を割り出し、44人が犠牲となった01年発生の東京・歌舞伎町の雑居ビル火災でも被害が拡大したメカニズムを解明した。
「科学的な立証で事件解決につなげることが『真の科学捜査』であり、自分の存在意義だ」との思いを強めていった。
01年3月から半年間、刑事2課長として勤務した亀有署では、台帳を一枚一枚めくって防犯カメラの設置場所を確認する捜査員らを見てデジタル化の遅れを痛感した。警視庁本部に戻ると、「科学技術を駆使した捜査支援」の構築に注力。過去の事件を分析したデータを住宅地図に落とし込むなどし、パソコンで一元化する「DB—Map」や、防犯カメラ映像を迅速・鮮明に解析する「
03年には「犯罪捜査支援室」の初代室長に。「科学技術と捜査実務の間を取り持つことができる
「助けてもらいたいことがあります」。09年8月、一本の電話を受けた。声の主はオウム捜査で共に汗を流した鈴木検事。最高検の刑事部長に栄進していた。
三重県名張市で1961年に発生した「名張毒ぶどう酒事件」の第7次再審請求審への協力依頼だった。再審開始を認めるか下級審で判断が割れており、審理は最高裁に移っていた。犯行に使用された毒物を巡る鑑定が主な争点だった。
当時は52歳。所属長級への昇進が見えていた。再審の仕事は片手間ではできない。長期間かかり切りになれば、その後の警察人生で後れを取るだろうと思った。
だが、鈴木刑事部長が直接、依頼してくるということは最後の「頼みの綱」なのだともわかっていた。「事実を見極めるために力を発揮するのが科学者の務めだ」と考え、「自分にしかできない仕事」と引き受けた。裁判資料の読み込みから始まった「極秘任務」に約3年を費やした。
再審請求審は最終的に2013年10月、再審開始を認めない判断が最高裁で確定した。その間に警視庁では後輩に先を行かれていた。科学捜査や捜査支援を束ねる立場になり、組織をさらに発展させるという理想はかなわなくなった。
それでも、出向した警察庁で捜査支援を全国に広げる仕事に骨を砕いた。19年に退官。最後の階級は限られた人しかなれない「警視長」だった。
「捜査員を科学で支える」今も
オウムの松本元死刑囚ら13人の死刑は18年に執行された。取調室で言葉を交わしたことがある土谷正実・元死刑囚(執行時53歳)とはもう一度話がしたかった。筑波大大学院で有機化合物を研究した専門知識の持ち主。「優秀な科学者が、どこで道を誤ったのか聞いてみたかった」という。
「科学には意思がない。扱う人によっては容易に犯罪に利用されてしまう」と思う。特に、IT技術が高度に発達した現代では、「気付かない所で恐ろしい犯罪が計画されているかもしれない」との不安が尽きない。
警察を離れた後も、「死ぬまで社会に貢献する」という東邦大の伊藤教授の言葉が胸にある。最高検参与などを務める傍ら、個人で「技術戦略アドバイザー」として活動。AI(人工知能)をはじめとする民間企業の先端技術を捜査に生かす助言をするなど、「『官』と『民』の橋渡し役」が使命だ。
地下鉄サリン事件から30年。「昼夜問わず事件に臨む捜査員を科学で支える」。強い志は色あせていない。
さだひろ・しんたろう 2019年入社。静岡支局を経て、今年1月から東京社会部。地下鉄サリン事件が発生した年の7月に生まれた。取材で初めて知る内容も多く「事実は小説より奇なり」という言葉が何度も思い浮かんだ。29歳。