「旧来の美術界に一石を投じ、社会と美術界の架け橋となる。」そのための試行錯誤を続けるREIJINSHAの30年HISTORY

2024年2月9日(金)20時5分 PR TIMES STORY

本年2月16日から18日にかけて、大阪市中央公会堂で展覧会「中之島フェスタ・デル・アルテ2024」が開催されます。これは主催するREIJINSHA=株式会社麗人社の創立30周年を記念して、イタリアの美術評論家が総合監修を務める大規模な展覧会ですが、入場は無料。誰でも気軽に105名のアート210点を楽しむことができます。また出展作家の多くが日本全国から来場するため色々な質問も可能。本記事ではこの展覧会のことから、そのREIJINSHAが次の40周年に向けて美術界に起こそうとしている動向を、30年の中で起きた出来事と併せて紹介します。

■REIJINSHA と「中之島フェスタ・デル・アルテ2024」

REIJINSHA とは、30年前から美術に関する様々な事業を行っている会社です。これまで世界14ヵ国で現代日本の美術を紹介する展覧会を開催し、美術書籍や雑誌を発行していますが、更に現在は東京でギャラリーを経営、そしてインターネット上でヴァーチャル美術館の運営も行っています。また世界で最も古い、マネやモネ、ルノワールなどを生んだパリの公募展「ル・サロン」へ日本の作家が応募する代理店も務めています。企業理念である「社会と美術界の架け橋となる」に基づき、常に日本のどこかで生まれ続けている作品を、国内だけでなく世界の人々に知ってもらうことがREIJINSHAの仕事です。

これまでに取り扱った作家は約7,500人。「中之島フェスタ・デル・アルテ2024」はその一部である105名の多彩な作家がブース形式で作品を展示。初日の昼はイタリアの美術評論家、パスクアーレ・ディ・マッテオ氏の講演会(聴講無料)、その夜は照明を落とした「一夜限りのナイトミュージアム」も実施。同社が発行する美術雑誌が無料で提供され(毎日先着200名)、お菓子のすくい取り(無料)があるなど家族連れの来場者にとっもて楽しいメリットがある静かなアートの祭典ともいえるでしょう。

■創業期

REIJINSHAは1993年に大阪市北区中崎で創立し1994年から事業を開始しました。社名の由来はRaisin'=レイジン、つまり「引き上げている」という意味の英語ですが、「アーティストの未知なる才能を引き上げ育てる」という想いが込められています。そして企業名としての漢字には「麗人」を当てて最後に「社」を付け、ローマ字では「REIJINSHA」と表記することにしました。

7坪のマンションで起業した当時のメンバーは3人で、美術関係の出版社で勤務していた創業者の野口和男(当時34歳)と、彼の前職の後輩2人。時はバブル崩壊後で在籍していた会社の経営が傾いて給与の遅配が3ヶ月を超え、もはや独立するしかないという判断でした。当時の野口は雑誌の広告営業から編集、展覧会の企画やニューヨーク個展の現地プロデュースまで行った経験があり、それを活かそうとしたのです。REIJINSHAで最初に企画した美術展は、ブラジル日系移民の作家と日本人作家との交流展で、あるテレビ局のロビーを会場として準備を進めていました。しかし開催2週間前に「あのどこの馬の骨か分からない会社に展覧会を開催させるなら、当日嫌がらせをする、それでもいいのか」という脅しの匿名電話が入り、万が一トラブルが起きてはいけないのでロビーは貸せなくなったとテレビ局が言い出したのです。幸いその数軒隣りにあったイベントホールを借りることができ、刷り上がっていた案内用のポストカード1万枚に、3人は徹夜で訂正シールを貼りました。ところがその会場にも直前に同様の匿名電話が入り、怖がる女性オーナーに、「何があっても全責任は我々が負う」と約束して説得。そして何事もなく展覧会は成功裏に終了し、嬉しさから3人でダルマに目を入れました。後にその電話は同業者の営業妨害であると分かるなど、波瀾万丈のスタートだったのです。

▲ダルマに目を入れる3人(1994)

当初の半年は自分たちの給料が出せませんでした。しかし出展料を払って支援してくれる作家たちに支えられ少しずつ収益が生まれはじめると、1995年の春には南仏のカンヌで開催された日本文化フェスティバルに美術展部門として参加。これが最初の海外展です。ところが帰国直後に収入が安定しないからと1人が退職、しばらくは2人でしたが、1996年に現在は役員となった人物が入社した頃から社員も増え、約4年を要してやっと会社らしい形になりました。

▲初めての大規模な美術展の第1回OASISにて(1996)

▲デンマークでの展覧会「日本の美術」オープニング(1996)

創業時は会社の目的として「未知なる才能を引き上げる」を掲げていました。しかしそこから数年が経ち、我々の本当の目的は何なのか、我々はどんな会社にしたいのか?を仲間と話し合ったのです。「アートなんて難しくて分からない」という人が大半の日本。出版や展覧会で一般の人々にアートを「分かりやすく」届け続けて理解を深めてもらう、その行き着くところが「企業として社会と美術界の架け橋となること。」だったのです。翌日からは、改めてその言葉を企業理念として掲げました。そしてこの頃から、いつか銀座でギャラリーを開く夢を語り合っていたのです。

▲第3回OASISにて、初めてアルフォンソ・ゴンサレス=カレーロ氏をスペインから招聘(1998)

日本には基本的に2種類のギャラリーがあります。ひとつは貸ギャラリーで、作家がレンタル料を払えば個展などが開催でき、作品が売れた場合は概ね作家の収入となるというもの。もうひとつは企画ギャラリー(コマーシャルギャラリー)で、ギャラリー側が選んだ作家の作品しか展示せず、作家と売上の配分を決めて収入にします。作家の費用負担はなく、人件費や賃料、印刷物などすべてギャラリーが負担。REIJINSHAは後者の企画ギャラリーを銀座で作りたいと考えていました。銀座のギャラリーの大半が前者の貸ギャラリーであることを、当時は知らなかったのです。

▲現在のREIJINSHA GALLERY

■成長期

創業当初にスタートした定期展のひとつが「雪舟国際美術協会展」。出展作は水墨画、日本画、書に限るというREIJINSHAでは最も歴史の長い美術展です。この展覧会は現在野口が代表を兼任する「一般社団法人 雪舟国際美術協会」が、毎年12月に国立新美術館で開催しています。海外展は前述のカンヌ日本文化フェスティバル(1995年)の会場が1997年にモナコへと移り、現在は「モナコ・日本芸術祭」としてモナコ公国政府文化庁とREIJINSHAが共催していますが、これが後に同国の文化勲章叙勲へと繋がります。展覧会はモナコだけではなくスペインやデンマーク、イタリア、エジプト、シンガポール、韓国、ドイツ、マルタ、中国などでも開催しましたが、すべて日本で現在活躍中の作家を海外に紹介する文化交流が目的の美術展です。言語はもちろん、国民性やアートリテラシー、通関方法にいたるまで海外と日本の違いは多く、また日本の元総理大臣に参加してもらったり、王室の方々や政府関係者を呼ぶこともあって、その多くの経験や苦労がREIJINSHA全員の成長に繋がり、2000年を迎える頃に社員数は創業時の5倍になっていました。

▲エジプト・カイロの国際会議場にて展覧会開催、海部俊樹氏も出展(2000)

▲第1回モナコ日本文化フェスティバルには、現在の国家元首であるアルベール2世が訪れた(1997)

▲現在は国立新美術館で開催している雪舟国際美術協会展の入口

■変革期その1

2007年に美術雑誌「美術屋・百兵衛」を創刊。これもやはり企業理念に基づいた発案で、美術に興味がない一般の人たちにどうすれば興味を持ってもらえるか? という課題から生まれたものです。日本国民のほとんどが47都道府県のどこかで生まれています。毎号ひとつの地方を取り上げると、あまり興味のない美術雑誌でも「自分の郷里のこと(話)が載っているなら読んでみようか」?となるのではないかと考えました。しかも誰にでも分かりやすく地方のアートを紹介してみる。この狙いが功を奏し、2009年には話題の美術雑誌になり、大阪の紀伊国屋書店梅田店では一時的とはいえ雑誌売上で8位に。それまで地方の美術や文化を毎号紹介する美術雑誌はなく、同年4月より価格を500円というワンコインに改定したことも多くの人々に受け入れられた理由でしょう。

▲美術屋・百兵衛の第2号では石川県特集で、アートだけでなくお菓子も特集

同じく2009年に嬉しかった大きな出来事としては、「10年以上にわたりモナコと日本の芸術交流に貢献し続けた」という理由で、野口がモナコ公国の2008年度シュヴァリエ文化勲章叙勲者に選ばれ、アルベール二世大公ご本人から大公宮殿で勲章を授与されたことです。推薦してくれたのは当時のアンリ・フィソール駐日本モナコ大使。翌年、野口の故郷である徳島の四国放送がこのことを知り、「ゴジカル」という人気テレビ番組のゲストとして出演を依頼。野口は喜んで出演しました。「美術屋・百兵衛」で徳島特集を組み、それを宣伝したのは言うまでもありません。

▲モナコ大公宮殿のガラスの間にて叙勲(2009)

▲モナコ政府のイベントで講師を依頼される(2010)

▲四国放送の人気番組「ゴジカル」に出演(2010)

▲美術屋・百兵衛で徳島特集を組んだ

同年、ベトナムで展覧会を開催。REIJINSHAスタッフは現地へ渡航した作家たちと共に枯葉剤が原因で障害を持つ子どもたちの施設を訪問し、身体の不自由な子どもたちと一緒に大きな絵を描きました。たった3時間の滞在にもかかわらず、別れ際に泣く子どもにつられてもらい泣きすることも。この時、初めてアートを通した子どもたちへの教育、事業を通した社会貢献(CSR)の大切さを痛感しました。近年でこそSDGsの重要性が叫ばれ、その4番目の目標である「質の高い教育をみんなに」が知られるようになりましたが、当時から意識することなくSDGsを推進し始めていたのかもしれません。そして同様のアートワークショップは今も続けています。

■変革期その2

2011年、会社は創立時の10倍である30名規模に。この年の秋、銀座の中心部に「REIJINSHA GALLERY, Tokyo」をオープンしました。最初の企画展は2012年1月に開催。LAに移住していた工藤村正氏(2023年12月逝去)の来日記念展でした。彼の友人である芸能人や有名人が多数訪れましたが、以後数年は画家だけでなくタレントの西野亮廣さんや劇伴作曲家、菅野祐吾さんの個展まで幅広く開催。話題性を重視しつつギャラリーの方向性を暗中模索していたのです。しかしこの数年後には日本橋に移転し、野口とスタッフが才能を感じる美大生や、作家としては未知数である20代の若い作家へ比重を置くように。「引き上げ育てる」という創業時の想いを体現しはじめたのです。

▲REIJINSHA GALLERY, Tokyoの柿落としは錚々たる有名人が集まった(2012)

2015年に大阪市中央公会堂で開催された国際アートフェア「第1回UNKNOWN ASIA」を参観。歴史的な重要文化財で豪奢なインテリアを見て「いつかここで展覧会を開きたい」と思ったのです。そこで台湾アート界のある重要人物に出会い、日本より進んでいるとも言える台湾の現代アート事情を知ったことによって、現地を訪問することにしました。

親日国のモナコで長年展覧会を開催していることから、日本人に好意的な国は開催しやすいことが分かってきました。アジアは韓国や中国、シンガポールやベトナムで展覧会を開催しましたが、現地を訪れた結果、日本美術への関心は台湾が最も強いと感じました。加えて台湾はモナコと同じく親日国。ここで展覧会を開催すると決め、数回にわたり台湾の政府を訪れて関係性を構築。それが巨大な台北駅を会場とした2017年の「第1回台日藝術博覧会」の開催に繋がりました。

▲第1回台日藝術博覧会は台北駅の巨大なコンコースで開催(2017)

しかしこの第4回目を開催する予定だった2020年の初春から、新型コロナウイルス感染症が世界中に蔓延。REIJINSHAのメイン事業である海外展は全て中止になりました。そこで時代背景を鑑みて作ったのがインターネット上のヴァーチャル美術展をメインとする「“Gates” The Virtual Art City」です。加えて美術評論家がアーティストの作品について語る動画やYouTubeの番組制作にも着手。新型コロナウイルス感染症は概ね収束し、通常の事業に戻りましたが、美術業界においての時代も変わりつつあります。

▲The Virtual Art City GateのMuseum正面(2021)

■REIJINSHAが考える美術界の課題

1.美術界には良くも悪くも昔から変わらない慣習や、簡単に解決できない課題も多くあります。例えば多くの作家が作品を売りたいと考えていても、容易に販売には結び付きません。世界の美術市場規模は9兆円と言われていますが、日本はそのわずか1%。「アートは買うもの」という意識が日本人に希薄なことも要因のひとつ。さらに無名作家でも作品の価格が高額である場合が多く、実際の作品の内容や価値に見合う価格であるかどうかが分かりにくいこともその要因でしょう。市場価値を参考に画商が価格を決める場合もあれば、作家本人が自由に決める場合もあります。その価格の根拠の一つとなるのが日本独特の評価額制度です。評価額が載っている年鑑類が日本には数種あり、これを目安にするケースが多いのですが、年鑑類によって評価の違いがあるため、更に価格が曖昧となっています。ただし作家自身がつけた価格なら、それを信用するしかないのでしょう。

2.日本は美術団体の数が300以上あり、世界でもその数はトップクラスといえます。出品作品は畳よりも大きな面積となる100号などに限定する団体が多いのですが、それは巨大な作品で実力を競い合うという慣習が残っているからです。また多くの美術団体展の会場が公立美術館の使用であることから、自治体が税金で建てた会場では作品の販売をしてはいけないというルールも守らなければなりません。これは前述の公募展「ル・サロン」などが国立のグラン・パレ美術館を会場としていても、国が販売を許可しているフランスとは大きく異なる点でしょう。そして大作を一般的な住宅で飾ることは難しく、展覧会が終わってもその作品が売れることはほとんどなく、返送されてアトリエで保管されることになります。団体に所属していれば毎年出品するため、年々増えるその作品の保管場所に困っている作家は非常に多く、そして高齢の作家が多いため、没後はその作品の処理が家族に委ねられます。残された作品が上述の評価額制度で遺産として査定されると困るため、素晴らしい作品であっても廃棄せざるを得ないこともあります。

画家のみならず書家や工芸家、彫刻家から音楽家や舞踊家などまで含めた日本の芸術家人口は約20万人とも言われ、特に多いのは画家です。当然のことですが絵具やキャンバスなどに関わる画材業界、額縁業界などは作家人口が多いからこそ成り立つわけで、業界としては大きな額縁を使い絵具の使用量が多い大作の制作が望ましいのではないでしょうか。

REIJINSHAはこうした課題の解決策はないかと考えます。若者の人口減少が問題となっている地方では、若者のやりたい仕事がないため都会への流出が進んで過疎化が進み、結果として子どもが減って小学校が統廃合されている現状があります。廃校となった学校の校舎や体育館は、解体にも莫大な費用がかかるため、その二次利用が望まれています。そこで作品の保管場所として廃校などを利用できないかと考え、REIJINSHAでは既に徳島県の三好市へ数回視察に行きました。作品はその地域の人に観てもらえるようにし、それがアートに興味を持つ第一歩になれば……そんな理想も話し合っています。

作品を売ることだけで生活しているプロの作家は、作家人口全体の1%もいません。医学の進歩による寿命の延伸に伴い、これからますます高齢の作家は増えてくるでしょう。このような解決策を実現していくこともREIJINSHAのミッションであり、これからの10年で何かできるのではないかと考えています。

■現在

麗人社は留まることなく変革を続けています。毎年社員が美術検定を受験し、その頂点であるアートナビゲーター(美術検定1級合格者)の資格を持つ社員も増えました。イベント管理士や知的財産管理に関する資格を持つ社員もいます。手前味噌ながらそんな優秀な社員たちのおかげで留まることがないのです。この30年を節目とし、次の40年目を目指してアーティストにとってさらに役立つ新しい事業にも取り組みます。

■「中之島フェスタ・デル・アルテ2024」に関するお問い合せ先

株式会社麗⼈社・運営課 担当:矢野 admi-dept@reijinsha.com

〒530-0001 ⼤阪市北区梅⽥ 1-1-3 ⼤阪駅前第 3 ビル 28F 株式会社麗⼈社内

TEL:06-6345-9950

受付時間:⼟⽇祝⽇を除く10:00〜18:00

■株式会社麗⼈社について

ヨーロッパやアジアを中⼼に、⽇本の現存する作家の作品を紹介する展覧会を世界14国で30年にわたり開催、これまでに7,500人以上の作家による約17,000点の美術作品を取り扱う。「美術屋・百兵衛ONLINE」などのウェブマガジンや各種美術書籍を発⾏する傍ら、東京・⽇本橋でコマーシャルギャラリーのREIJINSHA GALLERYを運営し、ヴァーチャル施設であるGates The Virtual Art Cityも運営している。 また2023年よりスペインとイタリアにおける美術評論家の作品解説動画、及びYouTube番組にも関わる。

代表者:代表取締役 野⼝和男

創業:1993年12⽉

https://www.reijinsha.com/

(関連サイト)

■美術屋・百兵衛ONLINE

https://www.hyakube.com/

■REIJINSHA GALLERY

https://www.reijinsha.com/

■Gates the Virtual Art City

https://gates-art.com


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