SF映画が現実になりつつある…ついに日本の脳科学者が証明した「イヤな記憶を彼方へ飛ばす」驚きの実験の中身
2025年2月19日(水)18時15分 プレジデント社
※画像はイメージです - 画像=iStock.com/imaginima
※本稿は、井ノ口馨『アイドリング脳 ひらめきの謎を解き明かす』(幻冬舎)の一部を抜粋・再編集したものです。
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■どのように記憶し、思い出すのか
人はどのように記憶して、思い出すのでしょうか。たとえば、普段は全く忘れていることでも、思い出そうと頑張るとつらつらとよみがえってくる瞬間があります。
一方で、思い出したくないことを、何かの拍子に思い出してしまうこともあります。極端な例がPTSD(心的外傷後ストレス障害)です。災害や事故を経験した人が、人混みや乗り物など直接は関係ない状況でトラウマの記憶がよみがえってしまうというような症状です。
なぜこんなことが起きるのでしょうか?
この問いには、そもそも記憶がどのようにしてつくられるかが関係しています。
記憶は、アイドリング脳にも密接に関係する事柄なので、ここから僕の研究成果とからめながら、記憶のメカニズムについて紹介していきます。
記憶は、脳の中で物理的につくられています。
■記憶はニューロンによってつくられている
その担い手は、脳の神経細胞。ここからは「ニューロン」とよびましょう。ニューロンの仕事は、情報を伝えることです。1つのニューロンの細胞内では、電気信号によって情報が伝わっていきます。ニューロンとニューロンのつなぎ目では、いったん電気信号は途絶えます。
つなぎ目にはわずかな隙間があり、この隙間に化学物質が放たれ、反対側でキャッチされることによって、信号が伝わります。この伱間を含むニューロンのつなぎ目を「シナプス」といいます。
人間の脳全体には約1000億個のニューロンがあります。そして、互いにシナプスでつながりあって、ネットワークをつくっています。
……とひとことで片付けましたが、そのネットワークは想像するのも難しいほどの複雑さを有しています。図表1では、1つのニューロンが別の1つのニューロンとつながっています。
出典=『アイドリング脳 ひらめきの謎を解き明かす』
これが実際の脳では、哺乳類の場合、1つのニューロンが、数千〜数万の別のニューロンとつながっているのです。約1000億個のニューロンがそれぞれ数千〜数万の別のニューロンとネットワークを形成しています。
ネットワークの様子を思い描けますか?パソコンで言うところの頭脳はCPUという計算装置ですが、シングルタスクで情報を順番に処理していくことしかできません。しかし、脳は膨大な情報をマルチに処理できます。あなたの脳ではこの極めて複雑なネットワークが、混乱することなく高精度で機能しているわけです。
■1つの記憶に、1つのニューロン集団
何かを記憶するとき、脳では1つの記憶に対し、1つのニューロン集団が割り当てられると考えられています。これを「セル・アセンブリ仮説」といいます。
セル(cell)は細胞、アセンブリ(assembly)は特定の目的のための集まりを意味します。
仮に、A〜Iの9個のニューロンがあったとしましょう。
出典=『アイドリング脳 ひらめきの謎を解き明かす』
ごくごく単純化していうと、赤色を記憶するときにはこのうちのAEGが一緒に活動します。
その後、赤色を思い出すときには、再びAEGが一緒に活動します。AEGが一緒に活動すること=赤色を思い出すこと、なのです。
最初に赤色を記憶したときに活動するニューロン集団は、脳の「海馬」というところにあります。記憶の中枢は、この海馬という脳の中心部に隠されています。
海馬は人間の場合なら大きさは親指の先くらいで、思考や判断といった高次な機能を司る大脳皮質と比べると、圧倒的に小さな部位です。全体の形がタツノオトシゴの尾に似ているため、タツノオトシゴの別称である海馬とよばれているという説があります。
■記憶と記憶は、連合する
A〜Iの9個のニューロンを例に記憶の話を続けます。
赤色を記憶しているニューロン集団は、AEGだといいました。一方、黄色を記憶するときには、CEIが一緒に活動するとしましょう。Eのニューロンは赤色の記憶にも黄色の記憶にも関与していますが、組み合わせが異なっているので、赤色と黄色の記憶を混同することはありません。
1つのニューロンは色々な記憶に対応できるのです。
互いに似た記憶は、対応するニューロンがオーバーラップ(重複)することも分かっています。赤色と黄色の例でいえば、Eニューロンがオーバーラップしています。オーバーラップは、時間が経ってからできる場合もあります。
この例でいえば、もともと赤色を記憶したAEGニューロン集団があり、何年ものちに黄色を記憶した際にCEIニューロン集団がつくられる、といった具合です。
■「思い出しやすい」とはどういうことか
このように、異なるニューロン集団がオーバーラップすることで記憶は連合します。連合している記憶は、一方が活動した際に、一緒に思い出されることがあります。
オーバーラップの度合いが大きい(共有するニューロンが多い)ほど、一緒に思い出しやすいと推測できます。これが、ある事柄を思い出したときに、同時に関連する事柄を思い出す仕組みの基本的な原理です(注1)。
記憶の連合は、僕たちが連想や推論をするときにも働いている仕組みです。無数の記憶を連合させて連想や推論をする中で、全く新しいニューロン集団群ができることがあり、それこそが新しい「知識」なのだと思います。
■記憶から知識を形成する
アメリカ留学を終え、1993年に日本に戻った僕は、三菱化学生命科学研究所で、記憶の研究を続けました。三菱化学生命科学研究所は、さまざまな分野の研究者が垣根なく研究し、自由に議論ができる素晴らしい環境で、閉所直前まで勤めさせてもらいました(注2)。
2009年に富山大学に移ってからは、記憶に関する研究で大きな成果が出始めました。
『セル』や『サイエンス』といった世界トップレベルのジャーナル(科学技術雑誌)に論文が認められるようになったのもこの時期からです(注3・4)。
のちにアイドリング脳の研究につながったのは、先ほど登場した、記憶の連合に関する研究でした。僕たちの知識や概念は、一つ一つの記憶から関連するものを選び出し、つなげることで形成されます。
たとえば、ネコやイヌを見て、それらが「動物」だと教えられたとしましょう。その時点では、「動物は4本足で歩く」という知識です。一方、次の日にカラスを見ると、2本足で歩いている。すると、「動物は2本足か4本足で歩く」という知識に発展するわけです。
このようにして、一つ一つの記憶が連合することで、知識や概念がつくられていきます。
精神の営みのベースには、必ず知識があります。思考をめぐらすときに、過去の記憶が体系的に形成されて知識になり、言語となって話したり聞いたり、書いたり読んだりすることができる。
新しい思いつきや発想も同じで、過去の記憶がなければ浮かばないでしょう。概念あるいは知識を形成するには、一つ一つを記憶し、それを連合していく必要があるのです。
■偽記憶を人工的につくれるか
僕は、記憶の連合がどのようにしてできるのか、その謎を明らかにしたいと考えました。
それまでに行われていた記憶の連合の実験というのは、個別の2つの記憶を自然な状態で思い出させて連合させていたに過ぎませんでした。
僕が取った手段は、ニューロンを操作することで、人為的に記憶を連合させてやろうというものでした。結論からいえば、連合させることは可能でした。
実験方法は次の通りです。
マウスを円柱形の部屋に入れ、部屋の形を記憶させます。マウスの脳では、円柱形の部屋に対応したニューロン集団ができます。一方で、別の部屋に入れた瞬間に軽い電気ショックを与えます。すると、マウスの脳には、電気ショックに対応するニューロン集団ができます。
写真=iStock.com/AnnaStills
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AnnaStills
このように準備した上で、両方のニューロン集団を同時に人為的に活動させると、マウスは円柱形の部屋に入れられたときだけ、電気ショックに備えて体をすくめるようになります。
円柱形の部屋の記憶と電気ショックの記憶は無関係だったはずなのに、2つのニューロン集団を同時に刺激しオーバーラップさせることによって、円柱形の部屋と電気ショックが関連づけられたのです。
これは、2015年に『セル・リポーツ』で発表した成果です(注5)。関係のない記憶同士を人工的に連合させて、「現実には起きていない出来事」を「実際にあった記憶」としてマウスの脳に焼き付けることに成功したのです。
■記憶は操作できるのか
さらに、2017年にはマウスでいったん連合させた記憶を、人為的に切り離すことにも成功しました。
井ノ口馨『アイドリング脳 ひらめきの謎を解き明かす』(幻冬舎)
既存の記憶をくっつけて、全く新しい記憶をつくったのですから、分けることだってできるはずです。これは『サイエンス』で発表できました(注6)。
記憶の連合に関する実験で分かったのは、記憶同士がくっついている状態というのは、それぞれのニューロン集団が重なり、2つの記憶に対応するニューロン集団が同時に活動することが必要だということです。
その重なりの神経活動を抑えたら、それぞれの個別の記憶は残ったまま無関係になりました。
記憶の不要な結びつきを解消できるようになれば、PTSDなどの精神疾患の治療に将来的に役立つ可能性があるとして、世界的に大いに関心を持ってもらえました。
※注1: PTSDは、生命の危機にさらされた恐怖の記憶と、その事件なり事故とは直接関係のない記憶(人混み、乗り物、音など)が結びついてしまうことが主因とされている。
※注2:三菱化学生命科学研究所に入った頃、社内誌に若手の研究者が抱負を述べる機会があった。そこで僕は、「300年後の高校の教科書に名前が載るような業績を上げます」と書いた。この頃から視座を高くして研究を行おうと考えていた。
※注3:『セル』に掲載された論文は、「Adult Neurogenesis Modulates the Hippocampus-Dependent Period of Associative Fear Memory」。筆頭著者は北村貴司くん(現在はテキサス大学サウスウェスタン医学センター准教授)。「海馬で新しく生まれるニューロンは、海馬から記憶を消去する役割を担っていることを示した」とあるが、最初の仮説は実は逆で、「新しく生まれるニューロンは、海馬が記憶を獲得するために必要だ」という仮説を基に研究を始めた。しかし何回実験を行っても、仮説とは逆の結果しか出てこない。今でも鮮明に覚えているのが、北村くんが最初に仮説とは異なるデータを見せに来たときのこと。研究室が冬休みに入った、2006年12月24日のクリスマスイブの夜。「これは何か変だぞ」と議論になって、そのまま大みそかまで一緒に実験を続けて、想定外の結果が出たので仮説を変更した。それと同時にこれはかなりすごい発見になると思ったので、翌年の2007年から僕研究室にいたテクニシャン(『アイドリング脳』(幻冬舎)137ページ参照)の人たちをこのプロジェクトに大勢参加させた。メンバーを総動員したかなり大がかりな形で実験を継続し、2008年の夏にすべてのデータが揃って、論文を投稿した。研究は10年くらいかかることが普通だから、仮説を立てて、たった1年半で完成するのはあり得ないスピード。このときに北村くんたちとやり遂げた研究の論文は、クラシック音楽にたとえるなら、ベートーヴェンの「交響曲第5番 運命」だといつも言っている。この曲は、あの有名な「ジャジャジャジャーン」というフレーズから始まり、そのモチーフが第4楽章のラストに向かって、回り道せずに一目散に一直線に続く。北村くんの研究は僕が指揮者で、彼がコンサートマスターとなって、研究室の皆を楽団員として、一気にフィナーレまで向かって行った思い出だ。
※注4:『サイエンス』に掲載された論文は、「Input-Specific Spine Entry of Soma-Derived Vesl-1S Protein Conforms to Synaptic Tagging」。筆頭著者は岡田大助さん(現在は北里大学医学部准教授)。特定のシナプスだけにPRPタンパク質を届けるメカニズムを示した。これは前述の北村くんとの研究と違って、1997年に僕が着想してから、論文になるまで12年かかった。きっかけは1996年11月にワシントンの学会で、カンデル研で一緒に働いていたドイツ人の同僚で神経科学者のフライさんが面白い発見をしたとこっそり教えてくれたことだ。その後、1997年にフライさんたちの論文が『ネイチャー』に掲載されたが、実はそのこっそり話がヒントになって研究を始めた。フライさんが発見した面白い現象について聞きながら、分子細胞生物学のアプローチで研究してみようとひらめいた。それで97年から自分で研究を始めて、岡田さんが2001年に研究室に来てくれて、そのあと彼に引き継いだ。分子細胞生物学的に証明するまでにすごく時間がかかった上に、著者数は、岡田さんとラボのテクニシャン小澤史子さんと僕のたった3人と少なく、これは珍しい。通常は、北村くんの論文みたいに人海戦術で一気にやるので大人数になるが、このときは少人数で地道にしっかりと研究を続けて、12年経って発表した。内容も一般的に好まれるような派手さはないものの、非常に有用性があり玄人受けするもの。この『サイエンス』の論文は、ベートーヴェンの後期の「弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調Op.131」にたとえたい。弦楽四重奏だから少人数で行うところも同じ。この弦楽四重奏曲はとっつきにくいんだけど、深みのある曲。僕が思うに、人類が書いた音楽の中でいちばん形而上学的な高みに昇りつめた音楽だと思う。冒頭だけで聴きづらいというか、簡単に口ずさめるメロディじゃない。でも聴き慣れてくると、精神性のいちばん高いところにベートーヴェンはたどりついたと感激するほど素晴らしい。面白いのは、2009年に『セル』と『サイエンス』に全く研究の進め方が違う論文を出しているところ。
※注5:「Artificial Association of Pre-stored Information to Generate a Qualitatively New Memory」。筆頭著者は、大川宜昭さん(現在は獨協医科大学准教授)。これは音楽でたとえるなら、軽快で楽しいメロディのモーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番」。第2楽章がこの世で最も美しいメロディを奏でるように、アイデアから実験のデザインまで見事に洗練された研究だった。
※注6:「Overlapping memory trace indispensable for linking, but not recalling, individual memories」。筆頭著者は、横瀬淳くん(現在は富山大学薬学部特命助教)。着想から21年の歳月をかけたとされるブラームスの「交響曲第1番」のような研究といえる。最初から研究プランをしっかりと決めて、テクニシャンの鈴木(大久保)玲子さんの力を大いに借りて、東京慈恵会医科大学の加藤総夫教授と共同研究を行った。
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井ノ口 馨(いのくち・かおる)
富山大学アイドリング脳科学研究センター、センター長
1955年生まれ。1984年名古屋大学大学院農学研究科博士課程修了。農学博士。専門は分子神経科学。1985年から2009年まで三菱化学生命科学研究所で主任研究員・グループディレクターを務める。米国コロンビア大学医学部、HHMI, Research Associate、早稲田大学、横浜国立大学の兼務を経て、2009年より富山大学学術研究部医学系教授。2019年から卓越教授。2020年に設立されたアイドリング脳科学研究センターのセンター長も兼任。紫綬褒章など受賞歴多数。著書に『アイドリング脳 ひらめきの謎を解き明かす』(幻冬舎)がある。
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(富山大学アイドリング脳科学研究センター、センター長 井ノ口 馨)