「梅毒にかかった遊女」のほうが重宝された…歓楽街・吉原で起きた「性病罹患率ほぼ100%」という地獄絵図
2025年2月23日(日)8時15分 プレジデント社
青楼美人合姿鏡 春夏(出所=「国立国会図書館デジタルコレクション」より、加工して作成)
青楼美人合姿鏡 春夏(出所=「国立国会図書館デジタルコレクション」より、加工して作成)
■医学知識の欠如により梅毒や淋病が蔓延
吉原の暗黒面は多々あるが、根源にはつぎのふたつがあるであろう。
ひとつは、実質的な人身売買だったこと。女は自分の意思で遊女になったのではない。
もうひとつは、性病予防具のコンドームがなかったため、さらには性病に対する知識もなかったため、客の男と遊女はコンドームなしで平気で性行為をしていたことである。その弊害は大きかった。
江戸時代、来日したシーボルトやポンぺなどの外国人の医師はみな、日本人のあいだに梅毒(瘡毒(そうどく))や淋病などの性病が蔓延していることを指摘し、とくに梅毒が猖獗(しょうけつ)を極めているのを憂えた。
シーボルトはその著『江戸参府紀行』のなかで、「日本でこんなに深く根を下ろしたこの病気」と述べ、医者として憂慮を示した。「この病気」とは梅毒である。
■杉田玄白「延べ数万人を診療した」
日本人の医者も憂えていた。橘南谿の著『北窻瑣談』にこうある。
「今にては遊女は、上品なるも、下品なるも、一統に皆黴毒(ばいどく)なきは無く」
つまり、遊女は上品(吉原)も下品(岡場所、夜鷹など)もみな黴毒(梅毒)にかかっている、と。
南谿は医者で、各地を旅した紀行文でも知られ、文化2年に没した。
また、杉田玄白は晩年の著『形影夜話』(文化七年)で、自分が診療した梅毒患者は毎年7、800人、延べ数万人に及んだと記している。
高名な蘭方医杉田玄白の診察を受けることができたのは少数派であろう。多くの人々は梅毒に罹患しても、その場しのぎの漢方薬や民間療法で誤魔化していた。
いったん客の男に梅毒をうつされた遊女は、今度は自分が感染源となって次々とべつな客にうつす。その客は家で妻にうつす。こうして、遊女が媒介となって梅毒がひろまっていった。
■特効薬はなく、症状がおさまるのを待つのみ
不特定多数の男と性交渉をするにもかかわらず、性病の予防具は用いなかったため、ほとんどの遊女が梅毒に罹患した。ほぼ100パーセントと言っても過言ではない。
しかも、いったん梅毒にかかると、抗生物質がなかったので、完治することはない。漢方薬で痛みをやわらげるなど、その場しのぎの対症療法をおこなうだけだった。
梅毒は感染初期には局部に異常があり、髪が抜けるなどするが、しばらくすると潜伏期間にはいって、表面上は症状がおさまる。当時の人々は、これを治ったと考えた。また、いったん治ると、もう二度とかからないと考えた。
梅毒にかかって寝込むことを、「鳥屋(とや)につく」と言った。髪が抜けるのを、鷹が夏の末から脱毛して冬毛に生え変わる様子にたとえたのである。
写真=iStock.com/CreVis2
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■「鳥屋についた遊女」は歓迎された
いったん鳥屋についた遊女が回復すると、もう二度と梅毒にはかからないとして歓迎された。鳥屋から回復して、ようやく一人前の遊女になったと考えたのである。
戯作『傾城禁短気』(宝永8年)に、こんな記述がある——。
すべて勤めをする女、鳥屋をせざる中(うち)は、本式の遊女とせず。いずくの色商売する方に抱ゆるにも給金安し。鳥屋を仕舞(しも)うたる女は本式の遊女とて、給金高く出し、召し抱えて重宝しぬ。
言い方を変えれば、梅毒に罹患した女のほうが、罹患していない女よりも遊女としての価値が高かったのである。誤解と無知が背景にあるとはいえ、戦慄すべき慣例である。
いっぽう、戯作『部屋三味線』(寛政年間)では、鳥屋についた遊女を年長の遊女が見舞い、こうはげます。
「気をしっかりと持ちねえナ。怠(なま)けたこっちやァ、いかねえによ。そのかわり、こんだ、病(や)みぬいてしまうと、おそろしく達者になって、どんな湿(しつ)ッかきでも瘡(かさ)ッかきのお客をとっても、うつる気づかいはないのさ」
当時の庶民や遊女の医学知識がいかに貧弱だったかがわかろう。「湿ッかき」も「瘡ッかき」も、ともに梅毒のことである。
いったん梅毒になると、もうどんな客を相手にしても二度と性病になることはないから安心しろと激励しているのだ。
鳥屋について回復した遊女はその後、商売に復帰してどんどん客を取った。
■手遅れになった遊女の悲惨すぎる末路
遊女が性病の淋病の薬を手作りし、馴染み客に提供するサービスがあった。
薬の製法は妓楼ごとの秘伝だったが、戯作『錦之裏』(寛政3年)に、作者の山東京伝が吉原の花魁から教えられた淋病の薬の作り方が記されている。それによると各種の薬草を煎じ、女の陰毛三本を黒焼きにしたものをくわえるという。
多少は痛みなどをやわらげたかもしれないが、もちろん気休めであり、淋病が完治するわけではない。陰毛の黒焼きにいたっては苦笑するしかない。
こうした怪しげな民間療法で痛みなどの症状を抑えながら、客も遊女も平気で性病の予防具なしの性行為をおこなっていたことになる。
有効な薬がないため、梅毒が進行した遊女の末路は悲惨だった。『世事見聞録』(文化13年)は、つぎのように書いている——。
身心労(つか)れて煩(わずらい)を生じ、または瘡毒(そうどく)にて身体崩れ……、とても本復せざる体なれば、さらに看病も加えず、干(ほし)殺し同様の事になり、また首を縊(くく)り、井戸へ身を投げ、あるいは咽(のど)を突き、舌を嚙むなどして変死するもあり。
自分の顔や体が崩れていくのを見て、世をはかなんで自殺する遊女も少なくなかった。
なお、梅毒の末期症状の人々を描いた史料はほとんどないが、あまりに悲惨だったため人目にふれなかったことがあろう。さらに、当時の平均寿命の短さも関係しているであろう。
性病は一般に進行がおそい。梅毒の末期症状になる前に、多くの遊女はほかの病気を併発して死んでいたのだと思われる。
■妊娠してしまった遊女はどうなるのか
戯作『ふたもと松』(文化13年)に、
「勤めあがりは、できいせんと申しいす」
戯作『春色梅児誉美』(天保3〜4年)に、
「女郎衆はマア、十人が九人、めったに小児(こども)は産まねえから」
とある。勤めあがりは元遊女のこと。
多くの遊女は荒淫(こういん)と性病のため、妊娠しにくい体質になっていた。しかし、避妊法はせいぜい詰め紙をする程度の不完全なものだったため、妊娠することもあった。
妓楼にとって、遊女に妊娠されるのは痛手だった。その間、稼げなくなるし、商品価値もさがる。
写真=iStock.com/onebluelight
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■吉原で生まれた子は吉原で生きる運命に
遊女が妊娠したのがわかると、妓楼は中条流の堕胎医を呼んで堕胎させた。
現在の妊娠中絶手術にくらべると粗雑な方法であり、たとえ堕胎に成功しても、体調をくずす遊女は多かったであろう。失敗して死亡する例も少なくなかったに違いない。
全盛の花魁が妊娠したときは大事をとって、寮(別荘)で出産させることもあった。
妓楼に赤ん坊がいては営業上の支障になるので、生まれた子供はたいてい里子に出された。
女の子のなかには、禿(かむろ)として育てられる者もいた。長じてからは遊女になる運命である。
■稼ぐ遊女、稼げない遊女では雲泥の差
粗食と不摂生な生活をしながら毎日多くの男に接するため、体調をくずし、病気にかかる遊女は多かった。しかし、滅多に休むことは許されなかった。
全盛の花魁や、稼ぎのよい遊女が病気になったときは、妓楼も医者を呼んで治療をさせた。
しばらく静養させたほうがよいとなれば、身のまわりの世話をする振袖新造や禿をつけ、浅草今戸町や金杉村にある寮に出養生(でようじょう)をさせた。もっとも、出養生の費用は最終的に遊女が支払わなければならなかった。
すでに盛りを過ぎた遊女や、稼ぎのよくない遊女の場合、薄暗い行灯(あんどん)部屋などに放り込み、ろくに薬もあたえずに放置しておいた。まるで、さっさと死んでしまえといわんばかりの冷酷さだった。
永井義男『図説 吉原事典』(朝日文庫)
いよいよ死期が近いとなると、実家に知らせて親を呼び寄せた。
楼主は親に向かい、
「年季証文は返してやるほどに、家に連れ帰って、死に水を取ってやりなせえ」
などと、恩着せがましく残りの年季を破棄してやった。
妓楼で死なれると面倒なので、早目に厄介払いをしたのだ。
実家が遠い場合は知らせようもない。病気の遊女はろくな治療も受けないまま衰弱死した。あとは、すみやかに死骸を菰(こも)に包んで浄閑寺に運ぶだけである。
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永井 義男(ながい・よしお)
小説家
1949年生まれ、97年に『算学奇人伝』で第六回開高健賞を受賞。本格的な作家活動に入る。江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原、はては剣術まで豊富な歴史知識と独自の着想で人気を博し、時代小説にかぎらず、さまざまな分野で活躍中。
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(小説家 永井 義男)