「ホームレスを追い出すな」と批判した人はどこへ…「キラキラした宮下公園」が一転、称賛されている残酷な現実

2025年3月5日(水)8時15分 プレジデント社

2020年にショッピングモールと公園の複合施設として再開発された「MIYASITA PARK」 - 写真=iStock.com/mizoula

民間と公共機関が協力して生まれた、東京・渋谷のMIYASHITA PARK(旧宮下公園)。ショッピングモールと公園が一体化したその空間について、チェーンストア研究家・ライターの谷頭和希さんは「個々人の要求が高まった今、ある場所に『居心地の良さ』を感じさせ、満足させるためには、『選択と集中』によるテーマパーク化、つまり「ニセコ化」が必要になっている」という——。

※本稿は、谷頭和希『ニセコ化するニッポン』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/mizoula
2020年にショッピングモールと公園の複合施設として再開発された「MIYASITA PARK」 - 写真=iStock.com/mizoula

■再開発とジェントリフィケーション


MIYASHITA PARKは、民間と公共機関が協力して生まれた公園だ。渋谷駅の横に立地し、線路に沿うようにしてショッピングモールと公園が一体化している。1〜3階まではショッピングモールになっており、その屋上に公園がある。独創的な鉄骨に覆われた公園で、渋谷の新しい名所の一つになっている。


ここが話題になったのは、その再開発の際に起こった出来事。もともとここは、宮下公園という公園で、そこにはホームレスの人々が多く住んでいた。段ボールやテントを並べ、暮らしていたのだ。


公園自体は、木々に囲まれて鬱蒼としていたところであり、渋谷にあって渋谷ではないような、独特の空間になっていたという。一方で、このホームレスたちの存在は、度々問題になっており、何度か行政による立ち退き措置が行われたが、そのとどめがMIYASHITA PARKの再開発だった。その開発によって、半ば強制的な形でホームレスが一掃されたのだ。公園の建て替え工事のためにそこに立ち入ることができなくなり、公園自体が閉鎖されたからである。


こうしたホームレスの排除は、多くの人々によってきわめて批判的に取り上げられた。その背景にあったのは、再開発後のMIYASHITA PARKに見られた「ジェントリフィケーション」的な側面だ。ジェントリフィケーションとは、再開発によってある地域にブランドショップなどの高級店が多く進出し、そのエリアが高級化すること。『ニセコ化するニッポン』で述べる「選択と集中」に近い空間開発の方法だといえる。


■反対派は何を批判していたか


実際、新しくなったMIYASHITA PARKのショッピングモールのホームページを見てみると「渋谷区立宮下公園や周辺エリアと親和性の高い、ラグジュアリーブランドやストリートブランド、横丁やミュージックバー、シェアオフィスといった多様な価値観やカルチャー性の高い店舗が揃う」とあり、「ラグジュアリーブランド」が押し出されている。例えば、入居する「RAYARD」というショッピングモールは三井不動産が運営し、その中にはプラダなどの海外の高級ブランドが入っているわけだ。


写真=iStock.com/Ryosei Watanabe
MIYASHITA PARK 1〜2階のショップ部分 - 写真=iStock.com/Ryosei Watanabe

「ホームレスの人たちの居場所を潰して、三井不動産という一企業の利益に資する、拝金主義のショッピングモールを作るとはなにごとか」というのが、再開発に強烈に反対する人々の主張であった。ホームレスを排除して、街を高級化し、囲い込むことが批判されたのだ(また、それ以前にも、白紙になったものの、MIYASHITA PARKのネーミングライツをナイキジャパンが購入することも検討されており、それに対しても大きな批判が持ち上がった)。


■「選択と集中」による「静かな排除」


また、その開業イベントの際には、警備員が施設に張り付いていることも話題となり、「これが本当に公園なのか」といわれた。確かに、公共空間にもかかわらず、警備員がいて、常に監視されているのは、おかしな話ではある。


このように、MIYASHITA PARKに当初投げかけられた批判の声は、その空間が「選択と集中」を行っていること、それによって「静かな排除」が進んでいることに対する意見として捉えることができる。さまざまな人に開かれているべきはずの公共空間が、一部の「選択された人」のものになってしまったことが問題視されているのだ。


ホームレスの人々のことを考えれば、確かにこの批判は妥当だし、「選択と集中」における「静かな排除」という負の側面を顕著に表しているだろう。


■再開発前の公園は「公共的」だったのか?


しかし、ここで考えたいのは、そもそも、その前身の宮下公園は「公共的」だったのか? という疑問だ。というのも、宮下公園の姿を見ていると、むしろ、そこはホームレスが「選択」されていた空間だったのではないかとも思えてくるからだ。


以前の宮下公園は、どこか鬱蒼として薄暗く、若者たちがふらっと集まるには適さない場所だった。ホームレスが野宿をしていたり、あるいはスケートボーダーの聖地になっていたりして、「どこか立ち寄りがたい場所」というイメージが強かった。今でも、SNSで検索すれば、かつての宮下公園が「怖い」ものだったと言う人の声が見つかる。


再開発前の宮下公園の一角(2006年4月撮影。写真=Flickr:tokyo4/CC-BY-2.0/Wikimedia commons

一方、そのような場所だからこそ、生活の場を追われたホームレスの人々が集まることができたし、ちょっと社会からはみ出たような人々(あるいは社会によってはみ出さざるを得なくなった人々)が、そこに集まっていた。ホームレスの人々の集まる場所になったのは結果論だろうが、いずれにしても、そこは独特な雰囲気を持っていたのだ。


■アンケートでは半数以上が「良くなった」と回答


宮下公園が、ある種近寄りがたい雰囲気を持っていたことは、アンケート調査の結果からもわかる。株式会社ネオマーケティングの調査によれば、宮下公園の再開発によって、付近のエリアイメージが良くなったと感じる人は回答者の50.6%で、これは都内の他の再開発エリアに比べても、きわめて高い割合だという。いかに、かつての宮下公園に近寄りがたい雰囲気を感じていた人が多いかを裏付けるものだろう。


そもそも、このMIYASHITA PARKの再開発は、宮下公園が公共空間として人々が集まる空間の役割を果たしていないことを問題視して行われた側面が強い。公共空間としての質が問われて、再開発が決まった経緯もあるのだ。その設計に携わった日建設計の三井祐介は「一つの公園であらゆる『多様性』や『公共性』を引き受けることは困難である。[……]ミヤシタパークが補完している公共性は、確かにあると考えている」と述べている(「解説 MIYASHITA PARKの枠組みとプロセス」建築討論)。


■再開発の結果、多くの若者たちが集まる場所に


一方、MIYASHITA PARKの現状を見てみると、皮肉とも言えることが起こっている。


というのも、実際にオープンしたその場所を訪れると、特にその屋上公園には、多くの学生や若者たちが集まっている。実際、株式会社ネオマーケティングが実施した調査結果によると、20〜50代でMIYASHITA PARKに一回以上行ったことがある人は、20〜30代がもっとも多く、この施設が若者を中心に利用されていることがわかる。


多くの若者がくつろぐMIYASITA PARKの屋上公園(2023年9月撮影。写真=Dick Thomas Johnson/ CC-BY-2.0/Wikimedia Commons

その要因の一つは、「公園」として無料で入ることができ、だらだらとそこにいることができる空間として機能しているからだろう。また、夜は、TikTokerの聖地とも言われており、若者が、スマホを前にしてさまざまに踊っている不思議な空間になった。都内でも有数の若者が集まる場所なのだ。その意味で、この場所は、ホームレスたちが集まりやすい空間から、若者たちが集まりやすい空間に変化した。


また、公園内にはスターバックスがあり、これも、ここに賑わいをもたらす要因の一つになっている(スターバックスが若者をターゲットの一つにしていることは『ニセコ化するニッポン』第3章で触れた通りだ)。さらに、3階のフードコートにもマクドナルドが入っていたりして、若者たちが集まっている。


■「特有の人を惹きつけ、特有の人を寄せ付けない」


ニセコ化するニッポン』第2章で確認した通り、渋谷自体、再開発の方向性として若い世代を集める街ではなくなってきているが、MIYASHITA PARKは例外的に若い人を集める場所となっているのだ。このように書くと、MIYASHITA PARKは本来の「公園」としてのある種の公共性を体現しているようにも思えるかもしれない。


この場所が取り上げられるとき、ジェントリフィケーションという側面が取り上げられやすいが、その実態を見てみると、そこはどちらかといえば「若者」にフォーカスされた空間になっているのだ。


MIYASHITA PARKにいる若者の写真を撮っている太郎は、次のように若者たちを表現している。


そこは、特有の雰囲気が持ち、特有の人々を惹きつけ、特有の人々を寄せ付けない。若者たちに愛され、居場所となり、chillでゆるい空間になった。(筆者注:原文まま)
(「『宮下公園』から『MIYASHITA PARK』へ 変遷の歴史」note)

■夜は多くの人がTikTokを撮影


きわめて、感覚的な話になってしまって恐縮だが、私もMIYASHITA PARKを訪れたときに、同じような感覚を持った。昼間から芝生に寝転がり、だらだらとしている人々。特に大きな目的があるわけではなく、そこにいる人々。彼らに、どこか、自分とは異なる、ある強烈な雰囲気を感じたのだ。特に夜のMIYASHITA PARKは多くの人がTikTokを撮影していることも相まって、かなり独特の空間がそこに形成されている。


そして、その裏側で、そこからホームレスのような人々は排除された。どこか独特な雰囲気を持った「若者」が「選択と集中」され、ホームレスは排除されたのだ。若者にとっては、新生MIYASHITA PARKは公共的な空間だと思うだろう。一方で、ホームレスからすれば、まったくそのようには見えない。


■個々人の高まる欲求を満足させるための「ニセコ化」


MIYASHITA PARKの例は、現代において「公共的な空間とはなにか」を考えるうえで、非常に興味深い視点を提示している。


現代はさまざまなモノや情報があふれ、個々人に深く突き刺さる選択肢を選ぶことがかつてよりも簡単になっている。逆にそれだけ、個々人の要求は高まっているといえる。そんな中で、ある場所に「居心地の良さ」を感じさせ、満足させるためには、「選択と集中」によるテーマパーク化、つまり「ニセコ化」が必要になっている。



谷頭和希『ニセコ化するニッポン』(KADOKAWA)

逆に、MIYASHITA PARKの事例を見ていると、「誰かにとっての居心地の良さ」は、「誰かにとっての居心地の悪さ」でもある、といえる。かつての宮下公園が、あるタイプの人々にとっては居心地の良い場所として機能していた一方、その場所に対して「行きづらい」という気持ちを持つ人がいた。一方で、現在のMIYASHITA PARKはそうしたかつて宮下公園にいた人々を排除する形で、別の人々に居心地の良い場所を提供している。


個人の好みが多様化した現在、「みんなが居心地の良い場所」というのは原理上、作れない。むしろ、何かを「排除」することでしか、誰かにとって本当に居心地良く感じる場所は作れないのだ。その意味で、「多様性」などという言葉は、表面上の偽善的な言葉でしかない。


つまり、ニセコ化するニッポンにおいて、かつて私たちが使っていたような意味での「みんなが仲良く幸せになる空間」は作れないのだ。この、圧倒的な現実を踏まえて考えなければ、公共性についてのすべての議論は空虚なものになってしまう。


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谷頭 和希(たにがしら・かずき)
ライター
1997年生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業後、早稲田大学教育学術院国語教育専攻に在籍。デイリーポータルZ、オモコロ、サンポーなどのウェブメディアにチェーンストア、テーマパーク、都市についての原稿を執筆。批評観光誌『LOCUST』編集部所属。2017年から2018年に「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第三期」に参加し宇川直宏賞を受賞。
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(ライター 谷頭 和希)

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