だから上皇さまの「昭和のプロポーズ大作戦」は成功した…難航した皇太子妃選びを成功させた「立役者」の名前
2025年4月2日(水)18時15分 プレジデント社
朝見の儀を終えた、皇太子明仁親王と皇太子妃美智子、および昭和天皇・香淳皇后(1959年4月10日)。サンデー毎日 追悼臨時増刊「皇太后さま」掲載(写真=宮内庁/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons)
■男性皇族の重要な通過儀礼
秋篠宮家の悠仁親王が、誕生日の9月6日に成年式に臨むことが明らかになった。成年式は男性の皇族だけが行うもので、愛子内親王がそうした儀式に臨むことはなかった。
成年式は一般の成人式にあたり、成人したことを祝う通過儀礼の一つである。人生における各種の通過儀礼のなかでも、成人式は重要で、伝統的な社会では大人になる資格があるかどうかを問う試練が課せられることがある。
武士の社会では、「大狩(おおがり)」がそれにあたる。鎌倉幕府を開いた源頼朝が、富士の裾野で巻狩(まきがり)を行ったのもそのためだった。頼朝はそこで息子の頼家を披露したのだが、巻狩で、頼家は見事に鹿を射止めている。
そこに仕掛け、ないしは準備があったのかどうかはわからないが、狩りという試練を克服したことが、将来において武士の棟梁(とうりょう)となる証しと見なされたのだ。
他に重要な通過儀礼があるとすれば、それは結婚式と葬式である。とくに女性の場合に、結婚式は人生のなかで決定的に重要な位置を占めている。愛子内親王についてはこれから、結婚ということが世間の関心の中心になっていくことだろう。
■1959年の革命的なご成婚
そんななか、多くの雑誌を収蔵している東京世田谷区の大宅壮一(おおやそういち)文庫で、3月に「明るい皇室展」が開かれた。サブタイトルに「美智子さまを中心に」とあるように、上皇后が去年の秋、90歳の卒寿を迎えたことを踏まえてのものだった。
戦後の皇室の歴史のなかでも、1959(昭和34)年の、当時皇太子だった上皇との「ご成婚」は画期的な出来事だった。大宅壮一文庫では、当時を伝える週刊誌がまとめて公開されていた。私もそれを見に行ったが、いかに国民がご成婚に注目していたかが改めてよくわかった。
上皇后は、民間人として初めて皇室に嫁いだ。それまで皇室に嫁ぐのは皇族か公家の出身女性に限られ、近代になってからは華族がその供給源になっていた。側室でさえ、公家や華族出身の女性たちだった。
その点で、ご成婚は皇室の歴史のなかで革命的な出来事であった。そして、民間人の女性として上皇后が皇室の一員となったことは、戦後の皇室を明るいものにする上で決定的な役割を果たしたのである。
朝見の儀を終えた、皇太子明仁親王と皇太子妃美智子、および昭和天皇・香淳皇后(1959年4月10日)。サンデー毎日 追悼臨時増刊「皇太后さま」掲載(写真=宮内庁/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons)
■皇族が結婚することの難しさがわかる本
しかし、それが革命的な出来事であったがために、ご成婚に至る過程は必ずしも順調なものとは言えなかった。
ご成婚までの過程を追うことは、現代という時代において、皇族が結婚することの難しさを明らかにすることになる。それは、これから愛子内親王や悠仁親王を待ち受けている運命にも深くかかわっていくはずだ。
では、ご成婚はどのような過程を経て実現されたのだろうか。それを今振り返るために格好の本が昨年出版された。それが、井上亮(まこと)氏による『比翼の象徴 明仁・美智子伝』である。
これは上・中・下の3巻に分かれた大部のもので、出版元は岩波書店である。岩波書店といえば、学術的で革新的というイメージが強い。雑誌『世界』ともなると、現在の社会体制を批判的にとらえた記事が多い。
ところが、最近上皇后の『歌集 ゆふすげ』を出版したのも岩波書店だった。皇室を好意的に取り上げることが、今や岩波書店のポリシーになっているようだ。
■次々と縁談をまとめて去る候補者の女性たち
ご成婚について述べられているのは、「大衆の天皇制」と題された中巻においてである。格別新しい資料が用いられているわけではないが、多くの資料を駆使して、ご成婚に至るまでの過程が詳しく述べられている。著者の井上氏は、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)された際、昭和天皇が不快感を示したことを伝えた「富田メモ」をスクープしたジャーナリストである。
上皇の皇太子時代の御成婚記念切手。押印されているのは宮内庁内郵便局の特印。(写真=郵便文化部/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons)
『比翼の象徴 明仁・美智子伝』の中巻を読むと、ご成婚が世紀の大プロジェクトであったことが改めて痛感される。皇太子という地位にあった一人の人間が、その結婚相手を見いだしていくことは、当時においても相当な難事業だったのである。
上皇后が候補者として浮上するまでに、多くの女性たちの名前が挙がり、そうした女性たちについては、週刊誌などでも報道された。
当初、候補者として名前が挙げられたのは、もっぱら元華族の家の女性たちだった。ところが、名前が挙がると、そうした女性たちは次々と縁談をまとめていった。元華族であるために、彼女たちは、皇太子妃になることで窮屈な生活を強いられることが痛いほどわかっていた。だからこそ、それを望まなかった。何よりその家族がそれを嫌った。
■ご成婚の重要な役割を果たした小泉信三
現在であれば、そう簡単に縁談をまとめるのは難しいが、当時は見合い結婚が多数を占めていた。ご成婚が行われた1950年から54年の時期において、見合い結婚が53.9パーセントで、恋愛結婚はまだ33.1パーセントだった。
とくに元華族のような階層では、女性たちも、なんとしても自分の相手を見つけ、恋愛結婚しようという意識を持ってはいなかった。そのために、元華族の女性たちは容易に皇太子妃候補から外れることができたのだ。
皇太子妃選びが難航することが想定されていたのだろう、1954年の正月の段階で、読売新聞は年内に非公式な「東宮妃選考委」が作られ、そのメンバーは、宇佐見毅(たけし)宮内庁新長官、三谷隆信侍従長、教育参与の小泉信三、松平信子東宮教育参与、野村行一東宮大夫になるだろうと予想していた。
このなかで、ご成婚にこぎ着けるまで、とくに重要な役割を果たしたのが小泉である。小泉は、戦前の1933年から戦後の47年にかけて慶應義塾の塾長の職にあった。大宅壮一文庫で閲覧した週刊誌のなかにも、小泉のことを大きく取り上げているものがあった。
小泉は当時、皇太子に対して個人授業を行っており、ハロルド・ニコルソンの『ジョージ五世伝(King George the Fifth, his Life and Reign)』の原書をテキストに使っていた。ジョージ五世は、20世紀はじめのイギリス国王で、映画『英国王のスピーチ』(2010年)の主人公である。
■難航後に起きた「テニスコートの恋」
選考が本格化するのは、1955年になってからで、宇佐見長官は、その前の宮内庁長官だった田島道治(みちじ)に皇太子妃選考への協力を要請した。田島は小泉に相談し、二人が中心になって選考を進めていった。ただ、すでに述べたように、週刊誌などで報じられた候補者の女性たちには次々と逃げられていった。皇太子自身、この時期には自分は結婚できないのではないかと思っていたようだ。
そうした状況が続くなか、皇太子が未来の皇太子妃とテニスで試合をするという出来事が起こる。これは後年、「テニスコートの恋」などと呼ばれるようになる。だが、その時点では、皇太子と早稲田大学の学生によるペアが、聖心女子大学を卒業したばかりの正田(しょうだ)美智子氏とカナダ人の少年のペアに敗れたというだけのことだった。1957年8月19日の軽井沢でのことだった。
写真提供=共同通信社
聖心女子大の卒業証書を手にされる皇后さま=1957年3月(美智子、上皇后さま) - 写真提供=共同通信社
そこで恋が芽生えたといったことではまったくないのだが、その後、二人が交流を深めていく上でテニスは重要な機会になっていく。実際、その年の10月、皇太子が東京の飛田給(とびたきゅう)でテニスの会を開催した際には、幹事役に対して「正田さんも呼んであげてほしい」とリクエストしている。
■「結婚する意思などまったくございません」
著者の井上氏は、「この時点で皇太子が結婚相手として美智子を意識していたのかどうかわからない」と述べているが、翌年の2月には、皇太子から結婚相手の候補者として「正田さんも調べてみたら」という意思表示があった。ただ、井上氏は、それがサラッとしたものだったとしている。
しかし、調べてみると、美智子という女性が極めて優秀であることが明らかになる。そこで小泉に重要な役割がまわってくるのだが、1958年8月16日、小泉は軽井沢の正田家別荘を訪れ、美智子氏の父に対して「お嬢さんにもし縁談があるとすればちょっと待っていただきたい」と申し出ている。小泉は、美智子氏の祖父である正田貞一郎(ていいちろう)のことをよく知っていた。美智子氏の父、英三郎(ひでさぶろう)は貞一郎の三男だった。
英三郎は、その場で、縁談について即座に断っている。しかも、ほとぼりを覚ますためか、聖心姉妹校の卒業生から成る「世界聖心同窓会」世界会議に参加させるため、美智子氏をヨーロッパに送り出している。美智子氏はその後アメリカにも行っているのだが、帰国の途中立ち寄ったハワイでは、毎日新聞の記者によるインタビューを受け、きっぱりと「私は、皇太子さまと結婚する意思などまったくございません」と答えている。
■皇太子の連夜の電話攻勢
このように正田家も本人も、皇太子妃になることを拒んでいたのだが、それを覆(くつがえ)したのが、皇太子の連夜の電話攻勢だった。皇太子は、学習院の後輩である織田(おだ)和雄を介して、美智子氏に対して、東宮仮御所の書斎にいる皇太子に電話してほしいと伝えた。こうして二人は電話でくり返し話し合うようになり、皇太子は直接美智子氏を口説いたのである。
これを恋愛としてとらえていいのかは難しいところだが、電話攻勢は現在の天皇や秋篠宮にも受け継がれた。直接会って話をするのが難しい立場にある以上、それしか手段がないとも言える。
慶應義塾の塾長が自ら折衝(せっしょう)相手になり、皇太子本人から連日連夜の電話攻勢を受ければ、本人も家族もそれを拒むことは難しい。美智子氏としても、電話を通して、皇太子の誠実な性格を理解するようになったはずだ。
かくして、民間からはじめての皇太子妃が誕生した。それは国民に大歓迎され、「ミッチー・ブーム」が巻き起こる。
現在においては、皇族が縁談をまとめるのはますます難事業になっている。今と上皇ご成婚の時代との大きな違いは、恋愛結婚全盛時代になったことにある。小泉のような人物がいて、候補者を探すというわけにもいかないだろう。
悠仁親王はこれから筑波大学で学ぶことになる。4年間の大学生活のなかで、将来の結婚相手と出会うことがあるのだろうか。悠仁親王が研究するトンボをこよなく愛する女性が現れないものか。秋篠宮夫妻は、それを願っているかもしれない。
天皇皇后両陛下と皇族の方々(2013年11月)(写真=外務省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)
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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)