そんな大それた意味ではなかった…秋篠宮家で結婚当初からあがっていた「早く男の子を」の声
2025年4月7日(月)8時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Oleksandr Sytnyk
※本稿は、江森敬治『悠仁さま』(講談社ビーシー/講談社)の一部を再編集したものです。
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■39歳、現皇室の最高齢出産だった
「ごくろうさんでした——」
「帰ってまいりました……」
その日午前、手術室で無事に出産を終え、病室に戻った紀子さまを秋篠宮さまは温かく迎えた。笑顔で答えた紀子さまの言葉にようやく訪れた、深い安堵感が感じられた——。
2006年9月6日午前8時27分、秋篠宮ご夫妻に男の子が生まれた。身長48.8センチメートル、体重2558グラムの親王さまだった。皇室にとっては1965年11月30日、秋篠宮さまが生まれて以来、じつに41年ぶりとなる男子の誕生。国民は大きな喜びに満たされた。
現行の皇室典範では、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定められており、女性皇族は天皇になれず、結婚すると皇室を離れることになる。
こうした男性優位の皇室にあって1969年4月18日、秋篠宮さまの妹である黒田清子さんが誕生してから、2001年12月1日、天皇、皇后両陛下の長女、敬宮愛子さままで、じつに連続して9人の女性皇族が生まれ、皇位を安定的に継承する上で危機的な状況が続いていた。
このとき、紀子さまは39歳で、現皇室の最高齢出産となった。紀子さまは1966年9月11日生まれなので、5日後に40歳の誕生日を迎えた。皇后雅子さまは、愛子さまが生まれたとき、37歳で8日後に38歳となった。もし、第二子を出産していれば、現皇室の最高齢出産を更新していたかもしれない。
写真=AFP/時事通信フォト
秋篠宮さま(左)に付き添われ、悠仁さまを抱いて東京都港区の愛育病院から退院される紀子さま。2006年9月15日撮影 - 写真=AFP/時事通信フォト
■部分前置胎盤で帝王切開
報道によると、東京都港区の愛育病院に入院していた紀子さまは、胎盤の一部が子宮口をふさぐ「部分前置胎盤」だったため、予定日より約20日早い帝王切開での出産となった。
帝王切開手術は、この日午前8時23分に始まり、同9時7分に終了した。予想外の大量出血などもなく、「母子ともに手術後の経過も順調」(医師団)で、手術室を出た紀子さまを秋篠宮さまが優しく出迎えた。それが先ほどのやりとりで、「ごくろうさんでした」と、殿下がねぎらうと、紀子さまは「帰ってまいりました」と、明るく答えたのだった。
■「本当におめでとうございます。親王さまです」
9月6日午前、執刀した主治医の中林正雄・愛育病院院長と宮内庁の金沢一郎・皇室医務主管がそろって記者会見し、出産前後の親子3人の様子などを説明した。主なやりとりは次のようなものだった。
記者「お子さまと紀子さまの状態は」
中林院長「大変お元気でいらっしゃる。妃殿下には手術終了時に“これで手術は無事に終わりました。(気分は)いかがですか。おめでとうございます”と申し上げたところ、“大変ありがとうございました。気分も良好です”と話されていた。順調に回復過程にある」
記者「出産後の秋篠宮さま、紀子さまの詳しいご様子を」
金沢皇室医務主管「“本当におめでとうございました。親王さまです”と申し上げても殿下は非常に淡々と、“ありがとう”と話されていた。平静心を失われない方だと驚いた。手術室から出て来られる妃殿下を殿下が迎えに行かれた。“ごくろうさんでした”という問いかけに、妃殿下は“帰ってまいりました”と、話されていた」
日頃から、冷静沈着な殿下の素顔を知る者のひとりとして、「平静心を失われない方だ」という金沢医師の指摘に、「さもありなん」と、思わず納得した。
記者「秋篠宮さまがお子さまに会われたときの様子は?」
金沢皇室医務主管「保育器に入った新宮さまと対面し、非常にものめずらしそうに見ていらっしゃった。お子さまは“おぎゃあ”と、おっしゃいました」
この言葉にも私は納得した。「非常にものめずらしそうに見ていらっしゃった……」というときの殿下の表情が思い浮かんできて、なんとも微笑ましい。
記者「秋篠宮ご夫妻は事前に性別などの情報をお持ちだったのか?」
中林院長「性別や障害などの情報は、両殿下ともお知りになりたくない、という話だったので超音波の医師にも伝え、医師団の誰も正確な情報を持っていなかった」
金沢皇室医務主管「両殿下とも単に知りたくないということでなく、どんな状態の子どもであっても、自分たちの子どもだから受け入れたいんだというお気持ちが非常に強い。今までもそうだったし、今回もそうだった。非常に感銘深かったので、お伝えしたい」
■「男の子のつくり方」を医師に尋ねていた?
また、次のようなやりとりがあった。
記者から「ご懐妊がわかる前に、紀子さまからご相談があったのか」と、尋ねられた中林院長は、「定期健診で年に2回ほど病院のほうに来ていただいていた。お子さまがご希望であれば、いつでもお産みになる時期としてはよろしい、と話していたが、直接的にお子さまがすぐほしいという話はなかった」と話した上で、こんなエピソードも紹介していた。
「佳子さまの出産後、“先生、男の子はどうやってつくったらいいんでしょう”と、冗談も話されていた」と——。中林院長は3人の息子さんを持つ父親でもあったからだろう。
■退院の際にエピソードを訂正
しかし、9月15日、紀子さまが悠仁さまと一緒に愛育病院を退院した際に、中林院長はコメントを発表し、記者会見の中で紀子さまが、「男の子はどうやってつくったらいいんでしょう」と、冗談で話したというエピソードを訂正した。
「あいまいな記憶に基づく発言を取り消し、ご迷惑をおかけした皆さまにお詫び申し上げます」と、中林院長はこう述べた。こうしたやりとりの中にも天皇、皇后両陛下への配慮が感じ取れる。
■あがっていた「早く男の子を」の声
こうした「男の子への願望」について、悠仁さまが誕生し3年ほどたった頃、私が当時感じていたことがメモとして残っていた。その取材メモをそのまま記してみる。
「もし、秋篠宮さまの立場に立って考えることが許されるならば、結婚後、大きな“誤算”があったことは否めない。仮に、皇太子ご夫妻(現在の天皇、皇后両陛下)に続けて子どもが生まれていたら、皇位継承者である男子も当然、早く誕生したであろうし、マスコミの目も国民の関心も自然と、子育てに追われる幸せな兄、皇太子さまとその家族へと集中する。
皇太子ご一家が注目されるその陰で、秋篠宮家の跡取りとしての男の子の誕生も当然、あっただろう。じつは、結婚当初から、秋篠宮さまの周囲では“早く男の子を”という声があり、私の耳にも届いていた。しかし、それはあくまでも『秋篠宮家の跡取り』としての男の子であって、皇位を受け継ぐという、そんな大それた考えで発言されたものでは毛頭なかった」
「私は、秋篠宮さまの一貫した姿勢や発言の裏に、宮さまの“次男としての厳しい自覚”を感じている。殿下は結婚によって自由な立場を得て、公的な活動だけではなく、好きな研究や勉強なども追究したいと願っていた。
その理由は、皇位継承云々という問題は、天皇家においては元来、長男の担当、領域であって、次男が口を出すべきものではない。こうした厳格な自覚を、弟である秋篠宮さまは強く持っている。一見、自由奔放そうに見えながらも、殿下は『次男としての分』、あるいは『限界』と言っていいのかもしれないが、そうした自分の分限をわきまえて育った。そして、こうした天皇家の鉄則を頑なまでに守り通してきたのである」
重ねて書くが、これはあくまで私の感想である。しかし、その一方で、持ち前のバランス感覚のよさと冷静さで皇室全体を見渡しながら、これまで何度かあった「皇室の危機」を一番、敏感に感じ取ったのも秋篠宮さまではなかったか。
上皇ご夫妻との親密さを保ちながらも、天皇ご一家との交流も深め、「皇室の危機」を救うために、“今、自分が何をやらねばならないのか”を、秋篠宮さまはより強く感じ取って、行動してきたのだと思う。
■皇位は「兄弟継承」から「親子継承」へ
悠仁さま誕生を受けて、2006年9月6日午前、秋篠宮さまは、「国際顕微鏡学会議」出席のため、札幌に滞在していた上皇ご夫妻(当時は天皇、皇后両陛下)に電話で連絡した。
江森敬治『悠仁さま』(講談社ビーシー/講談社)
上皇ご夫妻は「秋篠宮より、無事出産の報(しら)せを受け、母子ともに元気であることを知り、安堵しました」などとする文書を発表した。また、この日午前、秋篠宮さまは兄、天皇陛下(当時は皇太子さま)にも電話で男子誕生を連絡した。陛下は「ご無事のご出産おめでとう。両殿下も親王殿下もお身体をお大切に」などとの言葉を伝えたという。
小泉純一郎首相はこの日午前、「よかったね」と首相官邸で記者団に述べ、昼の政府・与党連絡会議では「皇居にお祝いの記帳に行った。晴れやかだね。国民とともに心からお祝い申し上げたい。健やかに成長されることをお祈りします」と、語った。長年、待ちに待った男性皇族の誕生で、各界各層からの反響は大きく、国民の喜びはひとしおだった。
悠仁さまは、天皇陛下や秋篠宮さまの次世代の皇室を担う唯一の皇位継承者である。
119代光格(こうかく)天皇(在位1779〜1817年)から、120代仁孝(にんこう)天皇(在位1817〜1846年)、そして、次の孝明(こうめい)天皇(在位1846〜1866年)、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、そして、125代の上皇さまから今の126代天皇陛下まで、天皇の位である皇位は親子間で受け継がれてきた。
しかし、今の陛下の次、皇位は弟の秋篠宮さまに移り、その後は秋篠宮さまの子孫に継承されていくことになる。これまで8代、200年以上にわたって続いてきた親子継承が途絶え、兄から弟への兄弟継承が行われる。こうした、この国の一つの節目を、今、生きている多くの日本人は経験することになる。歴史の中でも、決して小さな出来事とはいえまい。
■悠仁さまは年915万円
皇室経済法によって、悠仁さまにも国から年度ごとに1年間の生活費である「皇族費」が支出されている。悠仁さまが誕生した年、2006年度の皇族費は定額3050万円で、秋篠宮さまは全額を受け取っていた。紀子さまは定額の5割、未成年の佳子さまが1割を受領し、悠仁さまも定額の1割を、9月分から追加で支給された。しかし、2019年、平成から令和の時代となり、秋篠宮さまは皇位継承順位第1位の皇嗣となった。そのため、皇族費は大きく増額された。
令和6年度(2024年度)、皇族費は定額3050万円だったが、秋篠宮さまは定額の3倍の9150万円を受け取る。紀子さまは定額3050万円の5割、佳子さまは成年なので定額の3割。成年を迎える前までの悠仁さまは定額の1割だったが、成年となった以降は定額の3割を受け取ることになった。額にすると、年に915万円となる。
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江森 敬治(えもり・けいじ)
ジャーナリスト
1956年生まれ。早稲田大学卒業後、1980年、毎日新聞社に入社。京都支局、東京本社社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て、2022年3月末、退社。秋篠宮さまとは長年の個人的な親交がある。著書に『悠仁さま』(講談社ビーシー/講談社)のほか『秋篠宮』(小学館、2022年)、『秋篠宮さま』(毎日新聞社、1998年)、『天皇交代 平成皇室8つの秘話』(共著、講談社、2018年)など。
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(ジャーナリスト 江森 敬治)