二度の廃部を経験、選手によるボイコット騒動…横浜フリューゲルスの前身チームを指揮した男の仕事の流儀

2024年4月11日(木)15時15分 プレジデント社

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サッカークラブと支援企業の齟齬はなぜ起こるのか。Jリーグで唯一消滅したクラブ・横浜フリューゲルスの前身である全日空SCの監督・塩澤敏彦は、外国人選手獲得のためアルゼンチンに飛び、有望な二人の選手を連れて帰国した。しかし、空港に着きスポーツ新聞を手に取り自身の指揮するチームの選手たちが試合をボイコットしていたことを知り、目の前が真っ暗になったという。田崎健太氏の著書『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)より紹介する——。

※本稿は、田崎健太『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)の一部を再編集したものです。


■アルゼンチンから帰国するとすぐ、目の前が真っ暗に


1986年3月22日、全日空SC対三菱重工業戦の翌日、関東地方は夜明け前から冷え込み、雪が舞った。


この日、一人の男が地球の裏側、南米大陸のアルゼンチンからサンパウロを経由して成田空港に戻っている。男は30時間を超える飛行時間でぐったりと疲れ切っていた。真夏の南半球から戻った身体に寒さが身にしみた。成田空港では妻が待っているという約束だった。しかし、彼女の姿がない。


自宅に電話すると、大雪で交通が麻痺しており、空港まで行けないという。それよりも、と妻は慌てた口調で「新聞を買って読んで」と言った。何のことだろう、首を傾げながらキオスクでスポーツ新聞を買った。


そこには全日空SCの選手たちがボイコットを起こしたという記事があった。自分の関わるサッカークラブはいつも潰れるのかと、塩澤敏彦は目の前が真っ暗になった。


47年生まれの塩澤は、東京、板橋区の城北高校でサッカーを始めた。


「中学校にサッカー部がなかったので高校から。関東大会は毎回出ていました。全国大会は1回、国体は2回。それで明治に入りました」


最初の躓きは、卒業に必要な単位を取得できず明治大学を4年で卒業できなかったことだ。


「もう1年か2年(大学に)いることを覚悟していたんです。その頃、学生運動が盛んで校舎が1つ、バリケードで封鎖されてしまった。授業も試験もできない。レポートを出せばいいということになり、友だちが手伝ってくれて、9月に卒業できたんです」


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内定していたトヨタ自動車は9月入社を認めなかった。そんなとき、アジアユースで同じチームだった選手から電話があった。行き場所がないのならば、自分のいる名古屋相互銀行に来ないかというのだ。そして翌70年4月、名古屋相互銀行に入行した。


名古屋相互銀行サッカー部は65年の日本リーグ(JSL)創設から参加している。ただし、常にリーグの底にへばりついていたチームだった。


塩澤が入った70年シーズンは最下位、入れ替え戦で踏みとどまり残留。翌71年シーズンも最下位、やはり入れ替え戦に回った。藤和不動産との第一戦は0対0の引き分け、二戦目は0対1で敗れた。


ちなみに藤和不動産のゴールキーパーを務めていたのは、栗本直である。降格が決定すると名古屋相互銀行はサッカー部の休部を発表した。


■「色々と整理する中で最初にサッカー部が切られた」


サッカーを諦めるという選択肢はなかった。


「(コーチだった)大久保(賢)さんのところに、永大産業という会社が選手を探している、みんな連れてこないかという話があった。それで(大久保を含めて)7人で行ったんです」


永大産業は材木業から始め、住宅建設に手を広げた。住宅が「三種の神器」の1つとされた高度成長期を背景に規模を拡大した。サッカー部を始めたのは創業者、深尾茂だった。


本拠地は木材加工工場のある山口県熊毛郡平生町に置かれた。瀬戸内海に突き出た室津半島西側、瀬戸内海に沈む美しい夕陽で知られる静かな街だ。


「最初は県リーグの2部か3部です。山口県サッカー協会もこの地域から日本リーグに上げたかった。それで県内のカップ戦に優勝して入れ替え戦に勝てば(県リーグ)1部という特例を作った。(名古屋相互銀行から移った日本リーグ)1部の選手が6人もいたら圧倒的に強いわけです」


72年に日本リーグ2部、翌73年に1部に昇格した。塩澤は大学時代からの古傷である右膝の調子が悪く、75年に現役引退、76年には監督となった。


ところが77年、永大産業の経営が悪化、サッカー部は廃部となった。塩澤にとっては二度目のクラブ消滅となる。


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「もう会社が非常に厳しい状態になってやめざるをえないというか、色々と整理する中で最初にサッカー部が切られた。もう寝耳に水って感じでね。なんでうちがっていう感じですよ。全員で大阪の社長に会いに行ったりしました」


■明治大学サッカー部の指導を始め、全日空から招集


選手たちには、感情にまかせて汚い言葉を使わないようにと釘を刺した。


「結局、どうにもならなかった。(日本リーグ1部リーグの)東芝とかヤンマーに連絡をとって選手を獲ってもらった」


みんなばらばらになっちゃったね、と呟いた。社員であった塩澤は永大産業に残り、系列会社で働いた。しかし、サッカーがなくなった会社に執着はなかった。妻の実家のある藤沢市で「塩澤スポーツ」を始めることにした。


「人に使われるのが嫌になったんだよね。サッカーと流行だったテニス用品を置いた運動具屋。そうしたら(古河電工の)川淵(三郎)さんとか鎌田(光夫)さんとか来てくれてね。本当にありがたかったな」


スポーツ用品店経営と平行して母校、明治大学サッカー部の指導を始めた。


「1年目で(関東サッカー連盟)2部から1部に上げた。そして翌年、1部で2位になった。それを見て全日空が呼びに来たんです」


日本リーグ1部で成績が低迷、2部降格が決まっていた時期だった。栗本の後継監督として声を掛けられたのだ。


「全日空の試合は1試合も見たことがなかった。情報は何もない。(全日本空輸が)ちゃんとやるんだったらいいでしょうって引き受けることにしたんです」


■南米大陸における「日本の窓口」との出会い


86年2月、塩澤は外国人選手視察のためアルゼンチンに出発している。


「ブラジルではすでに情報が回っていて、日本人が獲りに行くと(年俸が)高くなる。だったらアルゼンチンに行こうかと。レベル的には(ブラジルと)そう変わんないですから」


首都ブエノスアイレスの空港では北山朝徳が待っていた。


北山は47年に現在の広島県呉市で蜜柑農家の次男として生まれた。拓殖大学を卒業後、アメリカ、南米大陸を放浪し、ブエノスアイレスに落ち着いた。まずは漁業関係、続いて運送業を立ち上げた。


78年、アルゼンチンでワールドカップが開催された。北山は付き合いのあった加茂商事の加茂建から頼まれ、現地で日本サッカー協会関係者の面倒を見ることになった。これがサッカーとの繋がりの始まりだった。


その後、インデペンディエンテの来日を手配した。招聘(しょうへい)の際、クラブ会長だったフリオ・グロンドーナと親しくなっている。


グロンドーナは後に、アルゼンチンサッカー協会会長となる南米サッカー界の顔役だ。北山は日本サッカー協会国際委員となり、南米大陸における日本の窓口となった。


塩澤は北山との初対面の日のことをよく覚えている。


「打ち合わせ中、話していたと思うと、突然、寝ちゃったんですよ。私はどうしたらいいか分からない。言葉も分からないし。海外でやっていくにはこれぐらい図太くないとやっていけないんだって思いました」


時差ぼけで眠気を必死にこらえていた自分も寝ることにしたと笑った。


■リーグ最終戦をボイコットの深刻さ


塩澤は外国人選手以外、来季のチーム編成に関与していない。


「(社員選手以外のプロ契約)選手をある程度、切ることは分かっていた。誰を残せとかは言っていないです。そもそも知りませんから。そのとき考えていたのは中盤でボールをきっちりキープできる(アルゼンチン人)選手がいたら獲ろうと。それだけでした」


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アルゼンチンの特徴は、首都ブエノスアイレス近郊にクラブが密集していることだ。その中の1つ、デフェンソーレス・デ・ベルグラーノに足を運んだ。デフェンソーレスは1906年設立、ブエノスアイレス北部、ヌニェス地区のクラブである。


そこで一人の選手が目についた。


「あ、これはなんかすごい選手がいるな、っていう感じで。それで、話をして獲ることにした」


62年生まれのミッドフィールダー、ホルヘ・アルベーロである。ホルヘに加えてディフェンダーのミンドラシオとも契約を結び、日本に向かった。そして成田空港で、全日空SCの一部選手がリーグ最終戦をボイコットしたことを知ったのだ。


「(日本リーグから)どういう処分が下るか、分からない。リーグから引き上げてくれと言われる可能性もあるじゃないですか。私は待つしかなかったんです」


事態を深刻にしたのは、試合の相手が三菱重工業サッカー部であったことだ。日本を代表する製造業である三菱重工業はサッカー協会、リーグに大きな影響力があった。


また、リーグの責任者、総務主事は三菱重工業の森健兒だった。全日空スポーツの社員が謝罪に行くと、天下の三菱に何をしてくれたのだという怒りが森の顔に浮かんでいたという。


1部に昇格したばかりの新参者が重鎮の顔に泥を塗ったのだ。重い処分が下される可能性もあった。


■6選手を無期限登録停止の中の唯一の光


このとき、全日空スポーツの社長を務めていたのは長谷川章だった。彼は若狭得治の側近で、後に全日本空輸の副社長となる。長谷川はチームを残すためにできることはすべてやれと部下に命じた。サッカー協会会長は新日本製鐵の社長でもある平井富三郎だった。


平井は通産省事務次官を務めた経済界の実力者である。たまたま新日本製鐵の秘書室に全日本空輸の秘書室の女性の大学の同級生がいることが分かった。


長谷川は彼女を通じて平井との面談をとりつけた。そして穏便に事を収めるよう、専務理事の長沼健への口添えを頼んだ。


4月17日、日本サッカー協会は理事会を開き、試合を放棄した木口、唐井、栗田、小池、大竹信之、崔海鎮の6選手を無期限登録停止、全日空SCは3カ月の公式戦出場停止処分となった。8月から始まる2部リーグ開幕に全日空SCの処分は明ける。表面上は1部からの降格扱いである。


ただし、現場は穴だらけだったと塩澤は振り返る。


「15、6人しか選手がいないんですよ。バックが足りないからフォワードの選手をコンバートしたりしましたね」


唯一の光が、ホルヘだった。日本に到着した日、読売クラブとの練習試合が予定されていた。塩澤が軽い気持ちで出てみるかと声を掛けるとホルヘは頷いた。


「もうラモス(瑠偉)がびっくりしちゃった。こんな奴がいたんだっていう顔をしていたんです。ホルヘが一人いるだけで、結構できちゃうんじゃないかって思いましたね」


■すべてはアルゼンチン選手の力を発揮させるために


86‐87年シーズン、全日空SCの選手登録、31人のうちホルヘなど8人が新規登録選手となった。4分の1が入れ替わったことになる。



田崎健太『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)

監督の塩澤が心を砕いたのは、ホルヘたちアルゼンチン選手の力を十分に発揮させることだった。


「私の家の道路を挟んで反対側にあった一軒家を借りたんですよ。そこに彼らを住まわせて、朝飯と夕飯はうちの女房が作りに行った。日常生活が不安だとグラウンドに集中できないじゃないですか」


塩澤の自宅がある神奈川県藤沢市は、海が近く開放的な空気が流れている。この雰囲気をアルゼンチン人選手たちは気に入った。ホルヘたちは塩澤の妻の買い物に付き合い、率先して荷物を運んだ。塩澤の次男が通う中学校のサッカー部の練習に参加することもあった。


彼らの家族がアルゼンチンから来ると寮に泊まった。そして塩澤の妻は、彼女たちからアルゼンチン料理を教わった。アルゼンチン人はアサドと呼ぶ、バーベキューを好む。アルゼンチン風の味付けで肉を仕込み、庭先で塩澤が焼いた。


「ホルヘの家族たちを連れて、(藤沢から近い)島や箱根に行ったりしてね。ぼくのやり方はだいたいそんな感じなんですよ」


塩澤はふふふと楽しそうに笑った。練習場までは塩澤が運転するホンダのワゴンに同乗させた。


「ぼく、英語も何もできないからね。よかったのは、ホルヘが一生懸命、日本語を覚えようとしたこと。練習場に行く車の中で、一日に3つずつ(日本語の)単語を教えることにした。そしてぼくもスペイン語を3つ覚える」


当初は選手をやりたいと売り込みに来た日系パラグアイ人を通訳に雇ったが、ホルヘの日本語が上達すると不要となった。


86‐87年の日本リーグ2部は16チームが東西2つのブロックに分けられていた。前期のそれぞれ上位4チームが後期は上位リーグに進出する。全日空SCは前期リーグで東ブロック5位。後期の下位リーグ・東ブロックで4チーム中、2位に終わっている。


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田崎 健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家
1968年3月13日京都市生まれ。『カニジル』編集長。『UmeBoshi』編集長。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『新説・長州力』『新説佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』(太田出版)など。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2021年、(株)カニジルを立ち上げ、とりだい病院1階で『カニジルブックストア』を運営中。
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(ノンフィクション作家 田崎 健太)

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