ウルトラマンと違い「生身の人間」が平和を守る…「昭和後期世代」が少年時代に熱中したヒーローの名前

2025年4月15日(火)8時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Avesun

世代によって憧れのヒーローは異なる。雑誌『昭和40年男』創刊編集長の北村明広さんは「昭和後期世代が影響を受けたヒーローと言えば、仮面ライダーだろう。ロボットでも宇宙人でもなく、生身の人間が等身大のサイズで平和を守る姿に衝撃を受けた」という——。(第1回/全3回)

※本稿は、北村明広『俺たちの昭和後期』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/Avesun
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■「62年+2週間」続いた昭和


タイトルをみて読者の方がまず思うこと。それは——


「昭和後期とはなんぞや?」


ではないだろうか。


西暦645年、皇紀ならば1305年にして、最初の元号「大化」が採用された。以来、250近くある元号の中で、昭和は最も長い64年までカウントした。


少し突っ込むと、昭和元年は12月25日に始まった。終焉となった昭和64年は、1月7日に小渕官房長官が「平成」を発表して翌日より始まった。昭和は62年と2週間で成り立っているのである。


奇しくも最初と最後が7日ずつで、これは偶然で片付けたくないと常々声を大にしている。昭和の奇跡と紐付けるのは、子供じみていることは自認しているものの、昭和ジャンキーにとっては些末なことも強く結びつける悪い性癖がある。何事にもしつこい巳年であることも付け加えておくから、どうかご容赦願いたい。


■“復興”からの“発展”を象徴した五輪


この本ではまず、昭和を「えいや」と3分割してみた。


するとどうだろう。終戦までの昭和20年までを初期。


敗戦の崩壊から立ち上がり、オリンピックを経て万博を開催した昭和45年までを中期。


ここからギアを上げてミラクルジャパンへと駆け上がり、バブルの絶頂期を迎えた昭和64年までを後期と、くっきりはっきりと分けることができた。


これほど納得感のある割れ方も昭和の奇跡だ。いや違う、奇跡を起こしたから割れるのだ。


乱暴すぎるだろうか? もう少々丁寧に追ってみよう。


戦後の混乱下で、全力の復興にあたった昭和31年の経済白書に「もはや戦後ではない」と掲載され、復興の第一ピリオドを打った。ローギアの10年から、一段ギアを上げたのだ。


依然ボロボロながらも、これより国民は、“復興”でなく“発展”へと心を入れ替えた。五輪開催に向かって、新幹線に高速道路、高層ビルに都市計画などなど、官民あげてのインフラ整備が急ピッチで進んだ。


■「昭和後期」は昭和46年から始まった


東京オリンピックを無事成功させると、矢継ぎ早に大阪万博に向かう。


1970年4月に開催された大阪万博の風景(画像= takato marui/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons

ともかくこの頃だ、マイホームとマイカーを手に入れた4人家族は、皆が中流になった。


2つの世界イベントを成功させ、さらにギアを上げアクセルを開けた。


本書では、この昭和46年からを「昭和後期」と定義する。


トルクをかけてスピードを上げていき、昭和55年、80年代に突入した。肌を伝わっていく空気までをも変えてしまった感覚を味わった。これよりいよいよ、トップギアに入ったミラクルジャパンだ。バブルの狂乱まで軽やかなるハイスピードで一直線と言っていいだろう。まるで昭和の奇跡を暗示するように、最終64年の末(平成元年)に株価は最高値をつけた。だが翌年より急速に暗雲が立ち込めていく。長い長い、失われた30年の始まりだ。


俺たちの昭和後期』は、昭和46年より始まった昭和後期に、次々と生み出されたミラクルに歓喜しながら成長した世代をターゲットとする。文中でこれを「昭和後期世代」と呼ぶ。


■日本社会はカラフル志向へ


昭和46年、華々しく、昭和後期元年がスタートした。


昭和の後期の、さらに元年と呼ぶのはいささか仰々しいが、本書のテーマであり昭和後期は新たな定義なのだからご容赦願おう。


前年に大阪万博を成功させたことと、三島由紀夫の割腹自殺がチェンジャーとなり、昭和中期を終えた。


この年より、社会がカラフル志向へと変化した。昭和40年生まれの筆者は6歳だ。


読者諸氏はこの瞬間を何歳で迎えただろうか。くっきりはっきりと記憶しているような先輩諸氏は、かわいい弟の戯言として、後輩たちは兄貴のわがままで偏った解釈として受け止めてくだされ。


同じ事象の解釈に、性別はもちろんのこと、年齢による差異が大きく生じることを雑誌『昭和40年男』を作っていた時に嫌というほど味わった。加えて、育った地域や兄弟の構成なども強く影響する。


ひとつ、例えばだ。


浦沢直樹の『20世紀少年』という、昭和臭の強い作品がある。大阪万博が強くフィーチャーされていたこのストーリーを、昭和40年生まれの人間には書けない。浦沢先生は昭和35年の早生まれで、万博開催時は小学5年生。強く惹かれた年頃だ。同級生たちと大いに盛り上がっただろう。


■幼少期の5歳差はとてつもなく大きい


『ウルトラマン』も小学低学年で遭遇しているから、受けた影響を強く感じさせる。再放送で目撃した我々世代とは、ありがたみが異なるように伝わってくる。


さらに加えて、ロックバンドT REXの名曲「ゲット・イット・オン」も物語に強く関与する。ちょうど洋楽に興味を持つ時代の浦沢少年だったかもしれない。ヒットしたのは彼が小学6年生だ。洋楽にショックを受けるタイミングにはベストで、万博・ウルトラマン同様に、感情が作品の中で生き生きとしている。


とまあ、アラ還にとっての5歳差はさほどではないが、幼少期の経験差はとてつもなく大きい。


そもそも人には人の数だけ差異がある。受け入れてみることで、おもしろい自分が練り上げられる。これを昭和後期世代は、当たり前にして生きてきた。SNSで類友とばかり繋がっている、若い世代の読者さんには強く言いたい。他人への尊重と寛容がなければ、調和は生まれない。


と、偏った主張を正当化しようと姑息な訴えかな。


■男子たちに衝撃を与えたビッグスター


“華々しく”と書き出した昭和後期だが、小学校にも上がっていないその記憶はややぼんやりとしている。ただそれ以前、幼稚園でいえば年中と年長では全く異なる良好な景色に変わる。3歳未満の記憶などない。凡人ゆえかもしれないが。


昭和40年に生まれた幸運を感謝している。ギリギリで昭和後期元年の記憶があるからだ。加えて、昭和にまつわるこれまでの取材と、時代考証とをクロスさせて論じていく。昭和後期元年に6歳を迎えた男子には、あまりにもエポックメイキングなヒーローが登場した。


『仮面ライダー』だ。


これに影響を受けなかった同世代男子を探すのは、極めて困難だろう。


写真=時事通信フォト
東日本大震災の津波で被災し、集まった寄付金で展示物の改装を行った漫画家・故石ノ森章太郎さんの作品を紹介した「石ノ森萬画館」。1971年の「仮面ライダー1号」から歴代のマスクがずらりと並べられた展示(=2013年3月19日午後、宮城県石巻市) - 写真=時事通信フォト

その影響の大小を大きく左右するのが、前述したとおり年齢な訳だが、昭和40年に生まれた筆者にとって、幼き思考がドンピシャだったと胸を張る。疑うことなく、ライダーとショッカーの世界に入り込めたのだから。


これ以上のショックを受けたヒーローを知らない。


■ヒーローも敵も「人間」だった


『仮面ライダー』は、ベースが生身の人間である。ロボットでも宇宙人でもなく、人間だった。戦っている怪人も、秘密結社により手術を施されただけで、ベースは人間だ。胸は張ったものの、当時の6歳にしてはあまりにも幼稚でお恥ずかしい話をひとつ。


大人になったら『仮面ライダー』になりたい。


生まれて初めて描いた夢だ。


荒川区の産婦人科に生まれた以上、宇宙人にはなれない。大型ロボットを操縦することロマンを感じたが、それよりも自分自身の身体で戦うことに震えた。地球の平和を、どんなに苦しくともつらくとも守り抜くことに自身を捧げる覚悟に、美学を見出したのである。


自己犠牲であり滅私奉公だ。そんなヒーロー感が完成した。


このスピリットを持てた深い感謝から、雑誌『昭和40年男』の創刊号に、藤岡弘、のインタビューなしではありえないと、つんのめった。


見事、取材依頼は受け入れられ、記念すべき創刊号の表紙にも登場している。


■主演の大怪我がきっかけで2号が登場


彼は言った。ショッカーの戦闘員こそがヒーローなんだと。


撮影では、大きな石がゴロゴロしている地面に、ライダーの攻撃を受けるたびに飛び込む。あざだらけの身体で、撮影が終われば稽古に励む。弁当は粗末なシャケ弁当だったと、心よりの声を振り絞った。


大人たちは子供たちのために全力であり、本気だった。壮絶な現場を作り上げ、ブラウン管からはみ出してくるような熱が、ガキどもの心を鷲掴みにした。


藤岡本人も、撮影中の事故で大怪我を負っている。攻めた走りのバイク転倒で、足があらぬ方向に曲がっていた。慌てて戻した瞬間に、意識を失ったと語っていたのには、思わず顔をしかめてしまった。


この入院による代役で登場したのがライダー2号とは、ガキには到底想像できず、取り入れられた変身ポーズに夢中になった。番組中断も検討されたようだが、不屈の魂は『仮面ライダー』そのままにシリーズは続き、今へと繋がる。本気で演じた藤岡の大怪我によってもたらされた、運命めいたストーリーだ。


やがて1号はカッコよくなって戻ってきた。ダブルライダーの大興奮も経験した。


■プロパガンダ映画を作っていた円谷英二


親の戦争経験は、教育や暮らしに影響を与えている。教師もそう。東京下町育ちの筆者にとって、近所のおっかない爺さんなんかもだ。大人たちには戦争体験が色濃く残っていて、昭和後期世代の人生形成に関わっている。


影響力大のヒーローたちにも、作者たちの戦争経験は滲み出てくる。


昭和後期世代男子にとって、仮面ライダーと双璧をなすヒーローが『ウルトラマン』だ。生みの親である円谷英二は、明治34年生まれで、戦時中は国威発揚映画の『ハワイ・マレー沖海戦』を特撮技術を駆使して制作し、昭和17年12月に公開して大ヒットさせた。軍人主導によるもので、戦中の日本にとって必要なコンテンツだったのだ。軍用教育映画も多数撮っている。


円谷英二(画像=Tsuburaya Productions/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons

やがて敗戦をむかえた後に、この経験は胸を苦しめたことだろう。平和への願いを誰よりも強くしたはずだ。


■『ウルトラマン』と『仮面ライダー』の違い


そんな円谷は、平和の尊さと、それを守る覚悟と勇気を子供達に向けて真剣に撃ち込んでくれた。だが決して子供の目線に合わせて作ったのでなく、自身のクリエイティビティと信念で作り続けた。



北村明広『俺たちの昭和後期』(ワニブックス【PLUS】新書)

公害問題など、社会が抱えた深刻な問題もあぶり出した。子供たちの考察を育てる物語も含み、ウルトラマンシリーズは安穏と夢だけを見ることを許さなかった。明治生まれで、戦中体験者よりの愛である。人間同士が傷つけ合うことを主にしない。


石ノ森章太郎は昭和13年生まれで終戦時7歳だった。戦争に対する感覚が、戦意掲揚映画を“作らされた”円谷とは、大きく異なる。


意地悪でなく、石ノ森だから人間ベースの『仮面ライダー』を生み出せた。等身大のサイズで平和を守る。だからこそ、平和のために戦う夢をガキどもに身近に見せてくれた。その意識を持たなければならないと植え付けてくれた。


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北村 明広(きたむら・あきひろ)
『昭和40年男』創刊編集長
昭和40年(1965年)7月、東京都荒川区生まれ。下町の電器屋に育つ。ミュージシャン、広告代理店勤務を経て、1991年に会社設立。94年にバイク雑誌の創刊に関わり、98年に編集長就任。以降、編集長&プロデューサーとして、バイク雑誌を5誌創刊。2006年、音楽雑誌『音に生きる』創刊。2009年10月には「世にも珍しい年齢限定男性誌」のふれ込みで『昭和40年男』を立ち上げ、2023年1月の77号まで携わった。現在は『昭和100年祭』『昭和びと秘密基地』『還暦維新』の各ブランドを主宰。イベント、執筆、コラボ企画などを展開している。他方、コミュニケーション・デザイナーとして、情緒ある日本を目指す。
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(『昭和40年男』創刊編集長 北村 明広)

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