「私の人生は母のために捧げる」サヘル・ローズを養女にするため、母は子どもを産めない体になる手術を選んだ
2025年4月30日(水)18時15分 プレジデント社
母について、これまで語ったことのない「特別な想い」を語るサヘル・ローズさん。 - 撮影=増田岳二
■ジグゾーパズルの全ての絵柄は埋まらない
会った瞬間、柔らかな笑顔が真っ直ぐに飛び込んできた。何も飾らず、ありのまま、他者と向き合う女性が目の前にいる。愛をたたえた潤んだ瞳に、一瞬にして心が射抜かれた。
サヘル・ローズさん、39歳。テレビですっかりお馴染みの俳優であり、コメンテーターであり、今年は映画監督デビューも果たした。今や日本のメディアでマルチに活躍するサヘルさんだが、その生まれは、遠く中東、イランだ。
撮影=増田岳二
母について、これまで語ったことのない「特別な想い」を語るサヘル・ローズさん。 - 撮影=増田岳二
サヘルさんはイラン・イラク戦争下の1985年、イラン南西部の港湾都市で生を受けたとされる。出生にまつわる事実を断定できないのは、これらの事実は全て後付け的にわかったことだからだ。4歳から7歳まで、孤児院(日本でいう児童養護施設)で育つが、4歳以前の過去が判然としない。
「自分の“根っこ”のところが結局、わからないのです。戦争のさなか、産みの親がどういう経緯で私を施設に預けたのか、捨てたのか。その手がかりって、施設の誰かが話した記憶でしかなく、その誰かの言葉をもとに、自分の中で勝手に物語を作ってしまった時期があって、どこからどこまでが架空のもので、どこからどこまでがリアルなのかがわからない。だから、わからない中で想像するしかできないんです、自分の人生の始まりを。事実には、辿り着けない」
きっぱりと言い切り、唇を噛む。豊かな語彙で淡々と、自らの“始まり”を語るサヘルさんの口調は穏やかで、どこまでも冷静だ。ふと、くっきりと強い光を放つ瞳が一瞬、潤んだように思えた。
「この4歳というのも、背丈や使っている単語のバランスから、多分、4歳だろうと判断されたのだと思います。大人になってイランに戻って記録を見たら、乳児院から施設に入っていました。つまり、4歳より前から施設にいたのです。自分の家族というものについて記憶はないのですが、脳内には微かに面影はあって、お父さんだと思われる男性の影はあるんです。でも、女性の像がない。お母さんという人のイメージはどんなに頑張っても、影すらない。確かにピースみたいな記憶の断片はあるのですが、このジグソーパズルでは、全ての絵柄は埋まらない。埋まらないのはわかるけど、それでも、私はここに蓋をしようとは思ってないなって。私は一生懸命、探しています」
■7歳から始まったサヘル・ローズという新たな人生
施設では、「空爆で、家族全員が亡くなった」と聞かされて育った。サヘルさんは、そのストーリーに対して首を横に振る。
「それは、施設の職員が良かれと思って、当時の子どもたち全員に言っていることです。私の場合はけっこう、時代的にも複雑な事情で、家族に置き去りにされたみたい。残っている記録を見ると、きっと親戚はどこかに生きていると思います。記録では、私は12人きょうだいの末っ子で、それなら、きょうだいの誰かはどこかにいるでしょう? 父母っていう人たちにしてもその町(激戦地)に戻っている時点で、亡くなっている可能性が高いのですが、そういうことが何一つ調べようがなくて、それがつらいです。どんなに頑張っても、知ることができない事実もあるわけです」
撮影=増田岳二
今につながる“起点”となり、幼いサヘルさんにとって記憶がはっきりとした像を結んでくるのが、7歳の時に養母となるフローラさんが出現してからだ。
サヘルさんの施設にボランティアに来ていたフローラさんは、運命に導かれるように、この女の子を自分の養女にしようと決意する。しかも、イランでは当時、養子縁組が可能なのは、「子どもを持つことができない人に限る」という条件があった。
「私を養子にするために、お母さんはイランで違法な手術をして、子どもを産めない身体にしたのです。手術は夜中に産婦人科医のところに行き、麻酔もせずに手術をした。子どもの頃、お母さんのお腹の傷が不思議でした。『この傷、何?』って聞くと、『あなたにはお姉ちゃんがいて、でも亡くなったの』って言っていました。私はずーっと、その子の傷だって思っていたんです。お母さんとは血が繋がっていないってわかっていたはずなのに、不思議なのですが、なぜかこの話を聞いたときには、そのことを忘れて、自分がお母さんから生まれた本当の子どもだと思い込んでしまい、自分が生まれる前に、お姉さんがいたんだと、思い込んでいました。18歳の時に母から告げられ知った事実です」
親子になるにあたりフローラさんは、新しい名を娘に与えた。それが、「サヘル・ローズ」だ。「砂漠に咲く、一輪のバラ」——サヘル・ローズという新たな人生が、7歳から始まった。
フローラさんの実家は裕福だったが、養女を迎えたことに当時は激怒、経済援助を全て打ち切られ困窮したフローラさんは1993年、日本にいた当時の夫(サヘルさんの義父)に頼って来日した。2人にとって、言葉も一切わからないのはもちろん、右も左もまったくわからない日本での生活が始まったのだ。
■公園での生活、困窮の日々
義父はサヘルさんの学校の手続きをしてくれたものの、躾と称する虐待を幼い連れ子サヘルさんに行い、そのうえ、あろうことか「自分の子どもではないサヘルをこれ以上は育てられない。離婚するか、子どもを施設に戻すか」とフローラさんに言い出した。
ついに耐えきれず、2人で家を飛び出し、路上生活を送ることになった。母と娘は、近所の公園の土管の中で夜を過ごした。母が土管の壁にもたれて座り、サヘルさんを膝の上に載せて抱いたまま、2人は眠りについた。母は近所のスーパーで切り落としのパンのミミが詰まった袋を50円で買ってきて、2人で分け合って食べた。
この経緯は、サヘルさんの自著に詳しい。周囲のおかげでアパートを借り、路上生活からは脱却できたが、フローラさんが必死に働いても、手にする対価はわずか。困窮生活に変わりはなく、サヘルさんは言葉も文化も未知の国の小学校で一人、孤独な毎日を強いられた。
撮影=増田岳二
サヘル・ローズ著『これから大人になるアナタに伝えたい10のこと 自分を愛し、困難を乗り越える力』(童心社)、『言葉の花束 困難を乗り切るための“自分育て”』(講談社) - 撮影=増田岳二
「祖国に戻るという選択肢は母にはありませんでした。なぜなら、私が施設に戻されてしまうから。私たちは血が繋がっていないので、お母さんには親権がないのです。イランには夫と離婚したことは私が18歳になるまで、その事実を報告していませんでした。離婚を報告したら、私が連れ戻されるから。ルール違反かもしれないけれど、お母さんは私をまともな愛情がある環境で育てたかった。お母さんは私に一生を捧げる覚悟で、日本にとどまったんです。本当に苦労して、2人で生きてきた。私たちは苦労した戦友、サバイバー同士なので、家庭の中で感じるであろう、『お母さん』という安心感とは違うんです。でも、これも愛です」
幼少期から、母が家にいたことはほとんどなかった。フローラさんは、幼な児を育てるために働き詰めに働いた。
「お母さんはいつも働いていたし、必死だった母親しか見て育っていない。私からしたら、やっぱり、寂しかったよって言いたかった」
でも、「寂しい」という本当の気持ちを口に出して、フローラさんに伝えたことはない。余計な心配をかけてはいけない、必死な母の背中を見れば、当然のことだった。中学校で壮絶ないじめに逢ったことも、フローラさんには一切話していない。
■「あなたは、特別な子」
「言葉として、“母”という意味はわかります。でも、自分の実体験の中で、家族ってなんだろう、お母さんってなんだろうって、よくわかっていないのも事実です。愛というものが、あまり実感できていないんです」
フローラさんはよく、サヘルさんに「あなたは、特別な子よ」と声をかけてくれた。
「母は『周りから見れば、ただの石に見えるかもしれない。でも私からすれば、あなたは石ではなく、磨けば立派な宝石になる原石なの。あなたは生き延びたことに意味があるし、私たちが出会ったことに意味がある』って、よく言ってくれた。それと、自分を育ててくれたおばあちゃんに、私がよく似ているって。『あなたは、お母さんに性格がそっくりなの。まるで、生き写し』って」
フローラさんもまた、実母の愛に恵まれない人だった。フローラさんは祖母を「お母さん」と呼び、祖母の下で育った。フローラさんが15歳のときに大腸がんで亡くなるまで、祖母は孤児院の子どもたちや路上生活者などに手を差し伸べ、「自分がやるべきことは、人を助けること」という使命を生きる糧とした人物だった。だからフローラさんも、戦争で大学院生活を続けることが難しくなった時、孤児院でのボランティアを選び、そこで運命の少女と出会ったのだ。
その祖母と別れ、15歳で戻った実家でフローラさんに待っていたものは、実母からの精神的な暴力だった。
「歪んだ愛情、言葉の暴力ですね。そういう意味では、私のお母さんの方がもっと、母というものを知らないで育っている人だと思う」
■今も心の中に突き刺さっている言葉
大人にとっても子どもにとっても、「孤独」というものが、最も人を追い詰めるものであることをサヘルさんは知っている。当時の2人が、まさにそうだった。とりわけ、フローラさんはハリネズミのように武装して必死で働いた。祖国では心理学者の道を目指していたのに、日本では底辺労働しか選択肢はなく、心を割って話せる友人も、理解者も、パートナーもいない。その行き場のない、やり切れない思いが、幼いサヘルさんへ向かうこともあった。
「フローラは、強い人です。でも時に、親の強さは子どもにとってプレッシャーになります。今ならわかります。周りに誰も彼女の理解者がいなかったから、言いたくもないことを叫び、感情をぶつける先が、目の前の子どもになってしまうということを。だけど、その言葉は残酷でした」
大人の事情はわかる。十分に理解できる。でも、その言葉は永遠に子どもに残るものであることを、サヘルさんはその身でちゃんと知っている。
「あなたを引き取ってしまったから、私の人生はこんなに変わってしまった。不幸になってしまった」
刃として、今も心の柔らかな部分に突き刺さっている言葉だ。
撮影=増田岳二
「子どもの私もなかなかいうことを聞かなくて、試し行動をしていたし、他人に理解できないような行動をしていたから、お母さんからすれば、『なんで、わかってくれないの!』って思うのは当然でしょう。実際に手を挙げられたし、すごく噛まれることがありました。お母さんって怒ると、感情のブレーキが外れて……すごい状態になるんです。なんでもかんでも、言ってくる。私に関係ないことも、親から受けてきた過去の出来事も全部……。それ、私に関係ないじゃんってことです。でも落ち着くと、すごく抱きしめてくれる。『ごめん、ごめん。本当に、お母さんを許して』って、背中をさすってくれるんです。それで翌日、ないお金で、お菓子を買ってきてくれるんですよ」
■母の首に手を当てたこともある
ジェットコースターのように無軌道に揺れ動く、追い詰められたフローラさんの感情の放出を一身に被っていた10代。反抗期なんかなかったし、反抗する余裕もなかった。
「お母さん、包丁を持ち出して、それを自分自身に向けるんですよ。私をじゃなくて、自分を傷つけようとする。それも、とっても辛くて、『私が、代わりに死ぬ!』って、こっちも必死になるわけです。人間は最終的に限界があって、私がお母さんの首に手を当てたこともあります。そのときお母さんは、『じゃあ、殺しなさい! 殺しなさいよ!』って、私に迫ってきました。ああー! どうしたらいいんだろう。なんで、家の中でこんな苦しみを味わわなきゃいけないんだろう。いっそのこと、この人のことを殺したら、私、楽になるんじゃないかって思う瞬間、正直、ゼロじゃなかったです」
翌日になれば、サヘルさんの前にいるのは優しい母だ。手を握って、「私の愛しい娘」と囁いてくれる。フローラさんと暮らし始めた頃は、理解できなかった。鬼のような形相の人が、別人のようになることが。ただただ、怖かった。
そうであっても、自分のためにつらい思いをしてまで日本にとどまってくれていることは十分にわかっていた。自分のために、フローラさんが一生を捧げたということも。
「そういうことを全部知っているので、お母さんがどんな精神状態で、どんなに私への風当たりが強くても、彼女の愛情はその数百倍も大きいことが私にはわかるんです。でも、大きいがゆえに、重たい。そこで私は、引き裂かれる。はっきり言えるのは、私がお母さんをリスペクトしているってことです。こんなに扱いづらい自分を、彼女は捨てなかった。彼女がどんな状態になって、どんなことを私に言っても、それは彼女の本心ではないってことはよくわかっていました」
■「めちゃくちゃ、母を愛している」
これは、健気な少女の話なのか。違う、と私は思う。子どもは親のことなんかに気を使わずに、もっと無防備で、わがままで、のびのび育つべきなのだ。そんな言葉が思わず漏れた時、サヘルさんの瞳から涙がポロポロ溢れ、声が震え、嗚咽となった。
「悲しかった。生活が貧しかったこともそうですし、お母さんも、自分を苦しめるために、私を引き取ったわけではないのに……」
撮影=増田岳二
すぐにサヘルさんの瞳に、強い光が戻ってきた。
「絶対に誤解してほしくないのは、私、めちゃくちゃ、母を愛しているのです。お母さんの行為を、私は虐待とは思いたくない。私はお母さんのやり場のない感情を、どうにかして受け止めてあげたかった。だから、私は一度も、虐待という言葉を使ったことはないのです。だからこそ、これを読む方々にお母さんが間違ってうつるようにだけはしないでほしい。虐待ではなく、お母さんの悲しみ」
ひとつだけ、心が温かくなるのは、父親という存在に思いを馳せる時だ。サヘルさんには、父親への憧れがある。
「愛っていうものがあまり実感できないんですけど、父親っていうものに憧れることが多いです。安心感が欲しかったなって。父親がいれば、母親も家庭ももっと安定したのかな。お母さんから私に向かってくる愛情も、父親がいれば、夫婦で共有できたのかなって思うんです。だって全部、子どもである私に来るんです。実の親からもらいたかった愛情も、『私のこと、全部、わかってよー!』という、必死な思いも。でも、年齢も全然違う、子どもである私が、お母さんが言っていることをわかろうとするって、もう、背伸びでしかなくて。気づいたら、等身大には生きられなくなっていました」
■「私が自分の人生を歩むことなんて、不可能です」
そうであっても、39歳になる今まで、サヘルさんは一度もフローラさんから逃げることも、別れることもしていない。そしてそれは、今後一生、変わらないという。
「なぜなら、お母さんは私から逃げようとしなかったから。そんな状態でも、どんな時でも、私に向き合おうとしているし、いつも背中を見せてくれたのは母なので。思春期でも、20代でも、30代でも、お母さんに反抗なんかしてきたら、私、一生、自分を許せなかったと思う。私しか、彼女にはいないし、彼女を理解できるのは私しかいない。私を理解できているのも、全てじゃないとしても、お母さんの中では100%、私を理解していることになっています。だから、それを最後までちゃんと親孝行として、お母さんに思っていてもらうのも大事だと思っています。私の幸せは、お母さんを看取ること。お母さんが苦しんでいた分、今は本当に笑っていてほしいし、幸せでいてもらいたい」
今や、フローラさんとサヘルさんの立場は逆転し、フローラさんは子どもに戻ったという。
「彼女にとっては、私しかいない。再婚もしなかったし、パートナーもいなかったし。異国の言葉もわからない環境で、話し相手は私だけ。私のためだけの人生だと、はっきり言っています。『あなたのためだけに生きている、あなたのために全部を捨てたし、全部を捧げた』と言われたら、私が自分の人生を歩むなんてことは、不可能です。お母さん、本当は実の親から受けたかった愛情を、全力で愛されたかった愛情を、代わりに私に注入しているんだと思います。そのことをわかったうえで、私は母のこと、めちゃくちゃ愛していますし、この命は母のために捧げています。彼女が、私を苦しめているなんてことは、誰にも思ってほしくないんです。だってこれは、私が選択したことだから」
母のために捧げた人生だと、サヘルさんは強い語調できっぱりと言い切った。でも、そのサヘルさんの中には、傷ついた心を抱える“インナーチャイルド”が存在していることを、サヘルさんはちゃんと知っている。
(後編につづく)
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黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待——その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)、『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)などがある。
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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)