なぜ女性皇族はこれほどまで注目されるのか…専門家が指摘「ティアラと十二単が放つ"ハレ"の力の求心性」
2025年5月15日(木)8時15分 プレジデント社
「新年祝賀の儀」に臨まれる天皇、皇后両陛下の長女愛子さまと秋篠宮家の次女佳子さま(=1月1日、宮殿・松の間) - 写真=共同通信社
■「日本の象徴」とは何か
日本国憲法において、天皇は日本の象徴、日本国民統合の象徴と位置づけられている。
では、象徴ということばは何を意味するのだろうか。
『日本国語大辞典』では、「ことばに表わしにくい事象、心象などに対して、それを想起、連想させるような具体的な事物や感覚的なことばで置きかえて表わすこと」と説明され、その実例として、「十字架でキリスト教を、白で純潔を、ハトで平和を表わす」ことがあげられている。
天皇が日本の象徴であると言うとき、果たしてこの辞書での説明にかなっているのだろうか。十字架が立っているのを見てキリスト教を連想するのは自然だが、ハトが飛んでいるのを見ても、必ずしも平和を連想するわけではない。天皇の存在に接して、必ず日本を思うわけではないだろう。
天皇が果たす役割については本書で詳述したように、国事行為が中心である。それ以外に、公務を果たさなければならないことについては「はじめに」でふれた。公務は天皇だけが行うわけではなく、皇族も行う。公務において、天皇や皇族が直接国民と接することもある。あるいは、その様子が各種のメディアで報道されることもある。
写真=共同通信社
「新年祝賀の儀」に臨まれる天皇、皇后両陛下の長女愛子さまと秋篠宮家の次女佳子さま(=1月1日、宮殿・松の間) - 写真=共同通信社
■「日本の元首」とは誰なのか
天皇の公務のなかで極めて重要なのは、外国の元首夫妻などの賓客と会う「ご会見」である。
日本の元首が誰なのかは、実ははっきりしない。天皇を元首とする考え方もあれば、内閣総理大臣を元首とする考え方もある。そこに揺れが生じるのは、そもそも元首の定義が一つに定まっていないからである。定義の仕方によって、天皇が元首になったり、総理大臣が元首になったりするのだ。
ただ、日本に海外の国賓(こくひん)が訪れたとき、天皇夫妻は「歓迎行事」、「ご会見」、「宮中晩餐」に臨むことになる。これを内閣総理大臣が果たすことはない。
さらに天皇夫妻は、国賓が東京を離れる際にはその宿泊先を訪問し、見送りをする。それは「ご訪問」と呼ばれる。国賓を送り出した海外の国からすれば、天皇こそが日本の元首に見えるに違いない。
新年には、皇居で一般参賀が行われる。そこには天皇をはじめ各皇族が姿を見せることになるものの、内閣総理大臣がそれをすることはない。
夏季オリンピックは二度、日本で開かれている。「オリンピック憲章」では、開会宣言は各国の元首が行うことになっており、二度ともその時代の天皇が行っている。このことでも、天皇は元首に極めて近い存在であるということになる。
■女性皇族はなぜ注目されるのか
天皇がこうした公の場に姿を現すとき、その傍らには皇后がいる。あるいは、一般参賀がその代表だが、他の皇族たちがその場につらなる。園遊会なども、そうした機会になる。
その際、とくに注目されるのは、皇后や女性の皇族たちである。それも、そうした女性たちが特別な衣装を身にまとって姿を現すからである。
女性皇族の衣装の代表が「ローブ・デコルテ」である。これは、女性の夜用正式礼服であり、背や胸が見えるように襟ぐりを大きく刳(く)った袖なしのドレスであり、男性の燕尾(えんび)服に相当する。天皇は、そうした場では燕尾服を身にまとう。
日本人の女性のほとんどは、生涯にわたってローブ・デコルテを身にまとうことはないだろう。欧米だと、晩餐会、舞踏会、演奏会、オペラやバレエの観劇などでローブ・デコルテを着用する機会はあるが、日本だとそうした機会はめったにない。ありうるとしたら、結婚式くらいだろう。
しかも、皇后や女性皇族の場合には、頭上に「ティアラ」をつけることになる。雅子皇后が、天皇の即位後に行われた「即位後朝見の儀」において用いたのは、「第一ティアラ」と呼ばれるものである。それは昭憲皇太后から受け継がれてきたもので、プラチナの上に千個のダイヤモンドがちりばめられ、中央の大粒のダイヤモンドは世界で十三番目の大きさを誇っている。
一般の日本人女性がティアラをつけるのは結婚式に限られるだろうが、それほど豪華なティアラとは無縁である。
皇后雅子さま(画像=外務省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)
■明治期に急進した皇室の洋装化
彬子女王が「女性皇族の衣装の変移について:明治の洋装化がもたらしたもの」という論文を書いていることについては、本書の第九章でふれた。その論文を読んでみると、明治に入ってから、日本の皇室がいかに積極的に洋装化を進めたかがわかる。
明治政府は近代化を進めるため、欧米から多くの外国人を招聘(しょうへい)したが、むしろそうした外国人は洋装化に反対することが多かった。洋装化を急ぐのではなく、日本の伝統的な服装を残すべきだと言ったのである。
たとえば、プロイセン(現在のドイツ)からやってきたお雇い式部官のオットマール・フォン・モールは、1887(明治20)年4月に、当時宮内大臣であった伊藤博文と会った際、急激な洋装化に反対した。にもかかわらず、伊藤は頑として譲らなかった。モールは、「まるで絵のように美しい宮廷衣装は、日本女性に対する天皇の布告によってすでに廃止され、いかにも俗悪な洋風衣装にとって代わられていた」と嘆いていた。
■女性皇族は「ハレ」の存在である
たしかに、明治の時代から皇后や女性皇族の正装は洋装に統一された。ただし、重要な儀式において十二単(ひとえ)を身にまとうことは今日まで受け継がれている。
島田裕巳『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)
最近では、現在の天皇の「即位礼正殿の儀」において、雅子皇后が十二単を身にまとった。女優であれば、平安時代などを舞台にした時代劇ではそうした機会もあるかもしれないが、一般の女性が十二単を着ることはない。あるとすれば、葵(あおい)祭の斎王代など、祭りで昔の時代の衣装を身にまとうときだろう。
このように、洋装にしても和装にしても、女性皇族は特別な衣装を身にまとって国民の前に姿を現す。一般の女性たちは、そこに憧れを持つことになるのである。
たとえ、こうした特別な衣装を身にまとっていなかったとしても、女性皇族が現れればその場の雰囲気は一変し、華やかなものに変わっていく。もちろん、天皇をはじめ男性皇族にもそうしたことは起こり得るが、周囲の受け止め方は女性皇族の場合とはかなり異なってくる。女性皇族は、その存在自体が「ハレ」なのだ。
■上皇后が舞台に与えた人生の花道
私は、美智子上皇后の姿を四回見たことがある。そのうち二回は一般参賀のときで、遠くからその姿を目撃した。
他に、同じ場にいたことが二回ほどある。一度は、生命科学を研究する中村桂子氏が館長をつとめていたJT生命誌研究館の何周年目かのイベントのときで、もう一度は新橋演舞場においてだった。
新国劇の名優だった島田正吾(しょうご)氏は、新国劇が解散になった後、85歳から一人芝居を続けていた。99歳までそれを続けたいというのが島田氏の念願だったが、結果的に、2002(平成14)年5月31日の舞台が最後になった。そのときの演目は、池波正太郎作「夜もすがら検校」だった。
私もその日の公演を見にいったのだが、上皇后も二階正面で観劇していた。私の席も、離れてはいたが二階だった。舞台が終わった後、島田氏は挨拶を行ったが、冒頭で上皇后に観劇してもらえたことに謝辞を述べていた。
そのとき島田氏は96歳で、それは毎年一度のハレ舞台だったが、上皇后がそれを観劇しに訪れたことによって、そこには特別な華やかさが付け加えられることになった。結果的に、その日の公演が島田氏にとっては生涯最後の舞台になったわけだが、上皇后が島田氏に対して人生の花道を用意したかのように思えた。
皇后美智子さま(当時)(画像=在チェコ日本国大使館/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)
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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)