令和の通勤ラッシュとはレベルが違う…乗車率300%で窓ガラスが割れた「昭和のやばい電車」回顧録

2025年5月21日(水)17時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bennymarty

都市部の電車は、朝晩の通勤・帰宅時間帯に大混雑する。この通勤ラッシュ、昭和時代はどうだったのか。ノンフィクションライター・葛城明彦さんの著書『不適切な昭和』(中公新書ラクレ)より、一部を紹介する——。
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■乗れなかった客は「自分が悪い」


昭和50年頃までは、東京23区内などでも整列乗車はほとんど行われていなかった。ホームでもサラリーマンらはただ適当に並んでいるだけ。電車も停車位置が毎日微妙に違ったりするため、目の前にドア部分が停まると、「今日はラッキー」などといっていたのである。また当時は、「降りる人が先」などというルールもなかったため、押し戻されて下車しそこなう人もたくさんいた。


ラッシュ時の乗車などはまさに弱肉強食の世界。力の強い男性が最優先で乗れることになっており、女性や子供、障害者などがはじき出されることも多かった。通勤時間帯には誰もが「俺さえ乗れれば」と思っており、みなが1つのドアに向かって突進する姿は、さながら芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のようであった。


しかし、駅や鉄道会社に苦情や意見をいう人などはおらず、乗車しそこなっても、「弱かった自分が悪い」として自身を責めているケースが大半だった。


■毎朝「尻押し部隊」が大奮闘


電車も今と違って短い編成のものが多く、輸送力が低かったため、都内では「乗車率300%」などという状態も普通だった(よく「酷電」などとも呼ばれた)。駅ではドアのそばで客を押し込む「尻押し」がよくなされていて、学生のアルバイトも大量動員されていた。


窓ガラスが割れることもしばしばあったが、応急処置としてセロテープで貼り付けただけで、どの鉄道会社もそのまま運行させていたのだから、凄い時代である。


写真=共同通信社
朝の通勤ラッシュ。一人でも多く乗せようと「尻押し部隊」が出動=1962年2月3日、新宿駅 - 写真=共同通信社

■国鉄職員はスト権スト、乗客は大暴動


国鉄は1987(昭和62)年に分割・民営化されているが、それまではストライキ(事実上)がよく行われていて、シーズンになると電車が動かなくなるため、サラリーマンたちはみな線路の上を歩いたりしていた。なお、当時国鉄職員はスト権が認められていなかったため、安全のために認められている行為を逆手にとって、過剰な遅延を発生させるという方法が採られていた(=順法闘争)。


写真=iStock.com/ollo
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最もひどかったのは1975(昭和50)年11月26日〜12月2日の「ストライキ権奪還ストライキ」で、この時には20万8509本のうち18万3833本が運休、延べ約1億5千万人に影響が出ている。


乗客たちの不満ももちろん毎回高まっていて、1973(昭和48)年3月には、埼玉県上尾市の国鉄・上尾駅で大暴動が発生したこともあった(上尾事件)。


また、国鉄が分割・民営化された際には、「国鉄(近郊区間)電車」の意味で使用されていた「国電」に代わる略称が検討され、この時には「E電」と「首都電」が最終候補として挙がったものの、「首都電」は「『スト電』と揶揄される恐れがある」として退けられたりしていた。ちなみに、この時採用された「E電」は最初からまったく定着せずに終わっている。


今、駅は年間を通じて至って平和となっており、若者であればストや暴動やE電論争など誰も想像さえつかないようだ。鮮明に記憶しているのは、おそらく当時散々ひどい目に遭わされた世代だけなのであろう。


■現在は消えた「タンツボ」、なぜ設置?


昔はなぜか、どこの駅でも必ずホームには、タンを吐くための「タンツボ」(ホーロー製)なるものがあった。考えるだけでも食欲がなくなってきそうな感じだが、高校生くらいだとよく罰ゲームでそれを覗く、なんてことをさせられている連中もいたりした。処理していたのはおそらく新人駅員だったはずであるが、彼らもさぞや嫌で仕方なかったことであろう。


しかし今になると、なぜあんなものが大量に存在していたのか、それ自体が非常に疑問にも思えてくる。ただ、たしかに昭和50年代前半くらいまでは、道やホームに「カーッ、ペッ」とか音を立てながら、タンを吐く人は多かった。これについては、「当時はまだ大気汚染がひどかったため」とする説も一部では有力になっているようだ。


あのような姿をみかけなくなってから久しいが、現在では健康状態や体質が変わると同時に、マナーも随分と変わってきているということにはなるのであろう。


■走行中は「トイレ使用不可」だった理由


トイレは穴が開いているだけで、列車はそこから糞尿を撒き散らしながら走行していた。トイレに入ると、穴からそのまま線路がみえたりしていたのである。


列車の走行中以外は使用しない決まりとなっていたが、それを知らなかったり、どうしても我慢できずに駅停車中に用を足してしまったりする人も時々いた。当時は、向かいのホームに停車中の列車のトイレのあたりから排泄物が出てくるのがみえて、「わっ」となることも珍しくはなかったのである。


また、線路際にある民家などは、よくみると障子や網戸が黄色いシミだらけになっていることがしばしばあった。しかし、当時の人々は庭や、時には茶の間にしぶきが飛んできても、諦め半分でそれを受け入れていたのである。


当然のことながら、線路も排泄物だらけで、列車通過の際には霧のようになってそれが撒き散らされたりもしていた。ああなると当時の保線作業員などは、おそらく相当苦労したに違いあるまい。


■急行電車にまさかの寿司カウンター


かつては東京発大垣行き・新宿発松本行きなど夜行の普通列車もたくさんあり、ブルートレインだけでなく、「からまつ」(小樽〜釧路間)、「山陰」(京都〜出雲市間)、「はやたま」(天王寺〜名古屋間)などの寝台普通列車も存在した。


また、昭和の特急・急行列車にはだいたい「食堂車」や「ビュッフェ(軽食堂)」が連結されていた。中には奇怪な店もあって、例えば新宿発の急行「アルプス」には、「アルプスそば」という立ち食いソバの店が設けられていたし、山陽地方を走る急行「安芸」や急行「せっつ」(東京〜大阪間)、「いこま」(同)には寿司カウンターが併設されていたりした。


国鉄時代の車両には、とにかくやたらと意味不明なものだらけだったが、鉄道ファンにとってはそこがまた、たまらない魅力にもなっていたようだ。


■「開きっぱなしデッキ」の犠牲者たち


1972(昭和47)年に日本レコード大賞を受賞した、ちあきなおみの大ヒット曲『喝采』(吉田旺作詞・中村泰士作曲)では、「止めるアナタ駅に残し/動き始めた汽車に/ひとり飛び乗った」という歌詞があって、若い世代はよく「汽車が動き始めているのに、どうやって飛び乗るんだ?」と不思議がっていたりするのだが、実は昭和期にはドアが手動で、事実上開きっ放しになっている客車がいっぱいあったのだ。


そのため歌詞の通り、動き始めたところで走って行って飛び乗ったり、完全に止まっていないのにホームに飛び降りたりする人もよくみかけられた。開きっ放しのデッキは風が入って気持ちがいいので、そこに立つことを好む乗客も多かったし、そうした列車はたいてい後部デッキも開きっ放しになっているので、走行中後ろに流れて行く線路を眺めるのを楽しむ人もいっぱいいた。


「危なくないのか?」という疑問は当然出てくるであろうが、実際のところ転落事故は決して少なくなかった。有名なところでは、1956(昭和31)年に、『春の海』を作曲したことでも知られる宮城道雄がデッキから転落して死亡しているし、昭和後期頃でも、鉄道マニアなどが身を乗り出して写真撮影をしているうち、誤って転落……なんてニュースがたまに報じられていた。


しかし、当時はみな「落ちた側のミス」としか考えていなかったため、まったく問題にもならず、責任ウンヌンなんて話が出ることもなかった。このあたりは、現在と比べても人々の意識が相当異なっていた、ということにはなるのだろう。


■雑誌、新聞を車内で「シェア」


今はスマホをみている人だらけで、ほぼみかけなくなったが、昭和の時代は電車の中でみな新聞や週刊誌、文庫本などを読んでいた。ラッシュ時間帯は新聞を小さく折って読むのがマナーにもなっていて、ホームでは買ったばかりのスポーツ紙を前もって折りたたんでいるサラリーマンの姿もよくみかけられた。



葛城明彦『不適切な昭和』(中公新書ラクレ)

読み終わった雑誌や新聞は網棚に置いていくケースが多く、後から乗った人がそれを取って読むのも当たり前の光景となっていた。そのため、昭和の終わり頃には、網棚にある雑誌の上に自分の糞便を置いておき、それを取った人の頭に落下させるという、変なイタズラを仕掛けた人間がいて、ワイドショーで盛んに報じられたりしていた。


また、電車が終点に着くと、車内を端から端まで歩いて網棚の新聞・雑誌を拾い集め、近くの歩道上で安く売ったりしている連中もいた。定価の数分の一だったりするので、結構ありがたかったのだが、たまにページの間にタンやガムが吐かれてあったり、人気女性タレントのグラビアやエロ系のページだけ破り取られていたりするため、購入した人も時にはガッカリさせられていたようである。


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葛城 明彦(かつらぎ・あきひこ)
ノンフィクションライター
東京都出身。早稲田大学教育学部卒。広告制作会社のコピーライターなどを経て、ノンフィクションライターとなる(複数のライター名を使用)。(一財)日本ボクシングコミッションのレフェリーとしての顔も持ち、また都内および近県では公的施設等で日本史講師も務める。著書に『「ジョー」のモデルと呼ばれた男 天才ボクサー・青木勝利の生涯』(彩図社)など。
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(ノンフィクションライター 葛城 明彦)

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