ダヴィンチでもラファエロでもない…プロが入門編として説く「知識ゼロ」でキリスト絵画を楽しめる巨匠の名前
2025年5月22日(木)16時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AndreyPopov
※本稿は、井上響(著)秋山聰(監修)『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
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■知らない絵を観たときに「どこ」を観る
率直に、この絵(図版1)を観てあなたは何を思いますか? 気構えずに、何も知らずにこの絵を展覧会で観たと想像してください。そして10秒で良いので鑑賞してみてください。
図版1:レンブラントと工房《イサクの犠牲》1636年、アルテ・ピナコテーク、ミュンヘン(ドイツ)[出所=『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)]
鑑賞してみましたか? では続きを読んでみてください。
きっとあなたは、まずモジャモジャの髭を生やした老人を見たのではないでしょうか。そして半裸の青年を見て、最後に天使の方を確認したのではないでしょうか(もしかしたら天使の後に青年かもしれません)。もう少し興味を持ったあなたは天使が老人の手を掴んでいること、ナイフが落ちていることや、背景が山であることに気がついたかもしれません。こんなところでしょうか。
さてこの絵を知らないあなたは疑問に思ったはずです、この絵は何なのだろうかと。だけれども、そこで鑑賞をやめてしまったのではないでしょうか。「ふーんこういう絵があるんだ」と思ってしばらく観たら満足し、殺人犯がなぜか天使に止められている絵を観た。そんな感想で終わったのではないでしょうか。
■父アブラハムが息子イサクを神に捧げようとしていた
しかし知識を身につけ、鑑賞してみたらどうなるでしょうか。
もし仮にこの絵の背景のストーリーを知り、それを元にこの絵を鑑賞すればその感想はきっと大きく変わります。まずはこの絵に何が描かれているのか知ってみましょう。この作品は聖書の一場面を描いたものであり、そのあらすじは次の通りです。
「あるところにアブラハムという男がいた。ある時アブラハムの信仰する神は、アブラハムの信仰心を試すことにした。アブラハムには愛する息子イサクがいたのだが、その息子を自分に捧げるようにとアブラハムに命じたのだ。アブラハムは信仰深い男だった。だからその指示に彼は従った。ある日、彼は息子を連れて山に登った。そして息子を縛り付け、その喉元を搔き切ろうとした。すべては神に捧げるために」
なんと酷いストーリーなのでしょうか……。
しかし物語には続きがあります。
■神は信仰を認め、アブラハムを止めた
「まさにイサクが捧げられようとする時、神は天使を遣わして彼を止めた。そしてアブラハムの信仰心が本物であることを認めた。そして彼の子孫(ユダヤ人)の繁栄を神は約束した。おしまい」
ほっ。ハッピーエンドですね。イサクがひたすら可哀想、都合が良すぎる展開など日本人である我々にとってツッコミたくなる箇所は沢山ありますが、今回はそれは置いておきましょう。大切なのは、この物語を知ることによって、鑑賞者であるあなたがこの絵に感じることがどう変わるかということです。
今お伝えしたこの絵のストーリーを念頭に、再度鑑賞してみてください。
モジャモジャのヒゲの老人アブラハムの表情が、途端に生気に満ちてこないでしょうか?
彼は大事な息子を殺す直前の、極度の緊張状態にありました。そして今まさに息子を殺そうとする緊張の頂点で、突然神の使いによって止められたところなのです。覚悟を決めたその瞳、苦悩と驚きに溢れたその額の皺。動揺と緊張から開いてしまっている口元。彼の表情が生きているかのように迫真的に感じないでしょうか?
■物語を知ると見方が変わる
さらにイサクについても観てみましょう。イサクの顔は押さえつけられたアブラハムの手により、我々から見ることはできません。
図版2[出所=『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)]
だけれども彼の体のこわばりから彼の感情を窺い知ることができます。思わず力の入ってしまっている足。曝け出されている無防備な首の生々しさ。恐怖からでしょう、体はこわばってしまっています。
彼は今どんな感情なのでしょうか? 諦め、恨み、恐れ。彼は今、何を感じているのでしょうか。
どうでしょうか? 絵画から受ける印象は変わってきたでしょうか?
■他の画家の作品と比較してみる
さらに知識を身につけてみましょう。ほかの画家の作品と比較した時、この作品はもっと味わい深くなるはずです。この絵は聖書の「イサクの犠牲」を主題とした作品なのですが、この主題は別の画家によっても描かれている人気のあるものです。
図版3:カラヴァッジョ《イサクの犠牲》1603年頃、ウフィツィ美術館、フィレンツェ(イタリア)[出所=『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)]
上の絵(図版3)はカラヴァッジョという画家により描かれた同じ場面の作品です。アブラハムがナイフを持ち、イサクを殺そうとしています。それを天使が止めているのは同じです。しかしこの絵は先ほどのレンブラントの絵とは色々と異なります。
まず大きな違いは構図です。この絵は構図により中心のアブラハムの姿から反時計回りを描くように視線が誘導されています。我々鑑賞者はハゲたアブラハムにまず目がいき、次に画面外から現れている半裸の天使、そして天使に止められているアブラハムのナイフを握った手を観て、そうして最後にイサクの姿を観るのではないでしょうか。
さらにアブラハムの右側には、この話の続きで実際に犠牲になる、山にいた子羊が描かれています。このように左から右に、実際のストーリーとリンクしてこの絵は読み取れるように描かれているのです。
■同じテーマでも表現方法によって感じ方が変わる
また画面が見切れていることで、我々はまるで絵画空間に入ってしまったような錯覚を覚えます。視点はかなり低く、登場人物たちは我々の目線の高さから観たように描かれています。これにより、目の前で天使によってアブラハムが止められているように、私たちに感じさせます。
またイサクの表情にも目を向けてみましょう。このイサクの顔は、先ほどの作品と比べると、どう見ても死を受け入れる無垢な犠牲として表現されていません。
図版4[出所=『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)]
その顔は恐怖に満ちており、明らかに死ぬことを受け入れてはいないでしょう。まるで実際に刃物を突きつけられた時のように、ドラマチックな表情をしています。
彼の訴えかけてくる視線は少なからず鑑賞者を動揺させるでしょう。どこか静謐に我々の想像力を搔き立てる先ほどの作品と比べると、明らかにこちらの作品のイサクは強い感情を発露しています。
■「深く」鑑賞できるように
さてここまで、そもそもの背景ストーリーを読み、他の画家の作品と比較をして、絵について深く知りました。そして、それを元に登場人物の感情についての考察をしつつ鑑賞してみました。
改めて元のレンブラントの《イサクの犠牲》を観てみてください。今の印象は何も知らずに観た最初と同じでしょうか?
例えば最初には気にならなかった、天使の表情が気になるなど、何かしら変化が起きたのではないでしょうか? また、同じ場面・同じ人物たちを描いているはずなのに、表現方法や受ける印象が作者によって大きく異なることを改めて感じるのではないでしょうか。
つまり、ずっと深く鑑賞できるようになったのではないでしょうか。
もし変化が起きたなら、それは知識を得て、それを使って鑑賞したからです。野球で言うならば、ルールや戦略の知識を身につけ、それを元にプレーしたからなのです。もし少しでも面白くなっているなら、あなたはこの記事を読む前より、確実に成長して美術鑑賞のコツを掴んでいます。別の機会に他の作品を観た時も、もっと上手く、面白く、楽しくきっと鑑賞できるでしょう。
■美術の知識を全て覚えなくてもいい
基本的な知識とは、どんな知識なのか。作者名をちゃんと覚えること? 構図について分析できるようになること? 誰かの解釈を勉強すること? 美術の知識と一言で言っても、何だか沢山ありそうですね。
美術作品に関する知識は膨大です。美術作品とは重層的なもので、そこには無数の情報が含まれています。構図、色彩、登場人物、背景ストーリー、当時の常識、制作者の個性。だから美術についての知識と一言で言っても、その意味は人によって様々になってしまいます。現に沢山の美術の解説本が売られていますが、解説している箇所・方法はバラバラです。実際のところ、基礎的と言える知識は無限にあります。なので一冊の本ですべてを解説することは現実的ではありません。
では本書では、どのような知識を解説するのか。それは「物語」と「歴史」です。
具体的には、絵画の題材となる物語と、美術の造形の変遷を記録した歴史です。なぜ「物語」と「歴史」なのか。「構図」や「制作者の個性」の解説のほうがいいのでは? と思った方もいるかもしれません。その理由は美術館に行って初見の作品を観た時に楽しめるようになるには、物語と歴史を学ぶことが手っ取り早いからです。
■「物語」と「歴史」を知らない状態とは
そもそも物語と歴史を知らない状態とは、どのような状態なのでしょうか? 例えば、ジュゼッペ・マリア・クレスピのこの作品(図版5)を観てください。
図版5:ジュゼッペ・マリア・クレスピ《アモルとプシュケ》1707-09年、ウフィツィ美術館、フィレンツェ(イタリア)[出所=『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)]
画面全体が暗い闇夜の場面です。どんなシーンか分かるでしょうか? 羽の生えた男性が奥にいますが、なぜ右の女性は男性を見ようとしているのでしょうか? そして男性はなぜ拒もうとしているのでしょうか? おそらく物語を知らねば、正しくこの場面を解釈することは難しいでしょう(物語については後ほど詳しく解説します)。
先ほど観ていただいたのは《アモルとプシュケ》という題名の作品なのですが、同名の別作品も観てみましょう。
図版6:フランソワ=エドゥアール・ピコ《アモルとプシュケ》1817年、ルーヴル美術館、パリ(フランス)[出所=『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)]
こちらのフランソワ=エドゥアール・ピコの作品(図版6)は、先ほど観たジュゼッペ・マリア・クレスピの作品と全く異なりますね。
なぜ同じアモルとプシュケについて描いているはずなのに、こんなにも表現が違うのでしょうか。もちろんその理由は色々と考えられるのですが、それを考えるためには物語の知識がなければ始まりません。
■時代性も反映されている
別の例を観てみましょう。カラヴァッジョによる《エマオの晩餐》はイエス・キリストが弟子と食事をする場面なのですが、なぜ画面が暗いのでしょうか?
図版7:カラヴァッジョ《エマオの晩餐》1606年、ブレラ美術館、ミラノ(イタリア)[出所=『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)]
給仕が右側におり、テーブルに食事が置かれているので、これは明らかに室内で食事をとっている場面ですね。
しかし、闇夜のように真っ暗です。作者は灯のないことを強調したかったのでしょうか? 実はこれは時代性が深く関係しています。この作品が制作されたのはバロックと呼ばれる時代です。そしてこのバロックの時代にキアロスクーロ、明暗法と呼ばれる光と闇を対比させてドラマチックな効果を狙う表現技法が広まり人気を博していました。
つまりこの闇は、物理的に暗い場面を描いたのではなく、当時流行していた明暗法を用いてドラマチックさを強調した表現なのです。
■物語と歴史は「字幕」のようなもの
例えば他のバロック期の作品《洗礼者ヨハネの首を持つサロメ》を観てみると、このように明暗のコントラストを強調した画面構成の画家が他にもいることに気がつくでしょう。
図版8:オノリオ・マリナーり《洗礼者ヨハネの首を持つサロメ》1670年代、ミネアポリス美術館、ミネアポリス(アメリカ)[出所=『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)]
ここまで観てきたように、物語と歴史は絵画を鑑賞する上で知っていると、深く鑑賞できるようになるような知識です。逆に知らないで鑑賞すると、絵を読み解くのが極端に難しくなります。
井上響(著)秋山聰(監修)『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)
それはまるで外国語の字幕のない映画を観るようなものです。そんな状態で映画を観たとしても、どんな場面かなんとなく感じることができても、細部の心の動き、感情を揺さぶるセリフの意味は決して理解できないでしょう。
物語と歴史という一種の字幕を踏まえて芸術作品を観ることで、ピントの合った解釈ができるようになるのです。
また物語と歴史の知識をメインで扱う理由は応用が利きやすい点にあります。本書で学んだ有名作品だけでなく、実際に美術館に行って、初見の作品に出会った時にも使うことができる実践的な知識でもあるのです。つまり物語と歴史は押さえておくだけで効果的に美術鑑賞のレベルを上げることのできる、手っ取り早い知識なのです。
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井上 響(いのうえ・ひびき)
美術史ソムリエ、クリエイター
東京大学文学部人文学科美術史学専修卒。「美術館が2割面白くなる解説」というTikTokアカウントをメインに、西洋絵画の背後にある物語や美術史を誰でも楽しめるように発信。2025年5月現在、SNS総フォロワーは19万人を超えている。著書:『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)。
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秋山 聰(あきやま・あきら)
西洋美術史学者
1962年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学(美術史学専攻)。フライブルク大学哲学部博士課程修了。電気通信大学、東京学芸大学を経て、現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授。著書:『デューラーと名声 芸術家のイメージ形成』(中央公論美術出版)、『聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形』(講談社)、『旅を糧とする芸術家』(共著、三元社)、『西洋美術史』(共編著、美術出版社)など。
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(美術史ソムリエ、クリエイター 井上 響、西洋美術史学者 秋山 聰)