亭主の立身出世は女房次第、歴史が物語るそのワケとは

2023年5月29日(月)6時0分 JBpress

連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

 風俗とは、その時代や社会、階層の特徴にみられる日常生活の習わしを指し、「昭和の風俗」「下町の風俗」など、時代や地域のカルチャーをいう場合もある。

 現在では「風俗に行く」といえば、おそらく「性風俗店」を連想させるのではないか。性的なサービスを提供する店を「風俗店」。そこで働く女性を「風俗嬢」と一般的に称されている。

 性風俗という言葉は、性を軸とする人間の関係性をあらわす。

 性本能は普遍的なものであり、それを軸とする人間関係は、時代とともに様々な変遷を辿っている。

 もし、人間の歴史から、恋愛を除いたとしたら文化や芸術は成り立たず、古典文学には恋愛情事が描かれていないものはほとんどない。

 古代(奈良時代〜平安時代)前期は、「この世」や「欲望」に否定的な傾向にある仏教の思想や道徳といった、人々の生活を律する概念は、まだあまり浸透していない。

 それゆえに、当時編纂された『古事記』『日本書紀』『万葉集』、その他によって表現された恋愛も結婚も、情熱的で自由奔放、健康的だ。

 いつの時代でも若者は、世の中の習慣や道徳を重んじることよりも、愛情と肉体を優先しながら活発に行動するものだ。

 未経験なことも多い反面、初老を過ぎた人間のように、理性によって抑制された感情や身体能力、機能の低下ということもない。

 自身の可能性と明るい未来を思い描き光輝いている。それが青春期にある若者の姿である。


母系家族がもたらした一夫多妻という慣習

 神武天皇が若かりし頃の情事を追憶した御歌が、『古事記』「神武天皇条」に記されている。

「葦原(あしはら)の湿(しけ)こき小屋(をや)にすが畳 いやさやしきて 吾(あ)が二人ねし」

(青々としたたくさんの葦の生えた草原にある侘びた小屋にて、菅(すげ)で編んだ敷物を敷き、2人は欣喜雀躍しながら、初めて互いの身体の感触を確かめ合い、秘密っぽい温潤にくつろいだね)

 神武天皇が皇后・伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)と狭井河のほとりにある伊須気余理比売の実家で新婚の一夜を回想したものである。

 古代、異性に対しての求愛行為は貴族だけでなく、民衆も男女を問わず盛んに行なわれていた。

『万葉集』の中の東国農民の女の歌に、

「高麗(こま)錦紐ときさけて寝るが上(へ)に あどせろとかもあやにかなしき」

(高麗錦の紐を解き放ち、肌身を晒し、愛しい人と身体を合わせて波打ちながら、幾度も自失寸前になるほど歓びを覚えた私は、夢心地の中で、いま心と身体に安楽とした気怠さを感じています)

 上記の句には、概して男女の交わりに対する暗さや罪悪感がなく、晴天白日のもと、生命力の溢れる青春賛歌そのものだ。

『万葉集』に天智天皇の弟で後の天武天皇(大海人皇子)が若かりし時、人妻に対する思慕の情を歌い上げた句がある。

「紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも」

(紫草のように芳しくも麗しい高貴な貴女。憎いほどに私の心から離れずにいます。淑徳な人妻ゆえに、私は恍惚と歓喜溢れる背徳なる世界へと貴女をお誘いし、愛しき女性が、眉を顰めながら悶え、のたうつ、そんな情景を眺めてみたいのです)

 こうした情熱的なアプローチから恋愛に至り、男女は結婚しても、その婚姻形態は「通い婚」という別居生活であって、現在のように一つ屋根の下という婚姻生活ではなかった。

 当時の家庭は母方の血筋によって、家族や血縁集団を組織する母系氏族制であり、そのため子供が生まれても私生児という観念は存在しない。

 子供は母親の手許で育てられ、子供の恋愛および結婚についての実権は母権制により母親にあった。

『万葉集』には庶民の娘たちの恋の歌に、

「たらちねの母にも言はず包めりし 心はよしゑ君がまにまに」

(母にも包み隠してきた、あの人への秘めたる思い。もう私の心と身体は、愛しいあの人の虜となっています)

 こう表現されるように、当時の娘たちの遠慮や憚りの多くは母親に向かっていたが、娘たちは自らを解き放ち、怖めず臆せず情熱的な恋愛から結婚へとひた走った。

 だが、彼女らの愛の顛末は、悲しみに暮れる事態に陥ることもしばしばだった。

「通い婚」という離ればなれの生活という婚姻スタイルは、やがて「一夫多妻」という形態を生み、夫と別れて住んでいる女性が、独り寝の寂しさを味わったり、夫が他の女性との同衾に嫉妬したりするのである。

「衣手に嵐の吹きて寒き夜を 君来まさずはひとりかも寝む」

(嵐が吹きすさび湿った冷気が着物の袖を揺らします。それなのに、あの人はまだいらっしゃらない、私はひとり寄る辺のない夜を、淋しく寝ることになるのでしょうか)

「居明かして君をば待たむぬばたまの 我が黒髪に霜は降るとも」

(貴男が此処に来てくださるのを、私は心待ちにしています。たとえ黒髪に霜が降ろうとも)

「寐(い)も寝ずに吾が思ふ君はいづく辺に 今夜誰とか待てど来まさぬ」

(モヤモヤと花芯が疼き寝つけない夜、愛しいあの人は今夜、何処で誰と交わっているのでしょうか。待てど暮らせど、あの人は此処にいらしてはくれません)

 このように『万葉集』の相聞歌には、閨怨と嫉妬の情が溢れているものも多い。


女性への啓蒙活動が盛んになった江戸時代

 平安時代、貴族の領地・荘園の管理者だった武士が、政治や経済の実権を握った中世・鎌倉期に入り、妻を夫の家に迎える「嫁取り婚」が増えると、夫婦の結びつきが強まる一方、妻の人格的自由の拘束や家父長への従属をもたらすことになる。

 武士階級においては、それまでの恋愛から結婚といった軌道は阻礙され、親や相手の所望という一方的な形をとるようになり、自己や家、一族の利益のために結婚させられる政略結婚が一般化する。

 また、平安時代、大陸からもたらされた天台宗、真言宗に加え、禅宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗といった鎌倉仏教が花開くと、ことに愛慾は煩悩の最大なるものという考え方が社会に広く浸透するようになる。

 仏教は女性に「五障の身」を説いている。

 つまり女性には五つの障りがあり、成仏できないと主張することで、より差別的な女性観が世の中に浸透することになる。

 16世紀末になると、一見平和な近世・江戸時代を迎えるのだが、男と女の間における封建的な人間模様は、徳川幕府の時代に形づくられたといってよい。

 特に女性に対する躾は、世襲される身分制度を護持するため、女の貞操と忍従を必要とし、中世(平安時代末期〜戦国時代)とは比較にならないほど徹底的な感化が促された。

 理想とする女性の在り方を説いた『女訓抄』をはじめ、古今の賢婦を絵入り仮名書きで著わした『本朝女鑑』、『女仁義物語』、『賢女物語』、『女五経』など、教訓的な読み物が数多く出版された。

 元禄の頃、島津藩の姫が、東国のある大名に嫁ぐことになったおり、長年、姫の側近として仕えてきた乳母が姫に送った訓書『女訓』がある。

 この訓書は後に九州・日向の豪族に伝え蔵されてきたもので、内容は事柄として父母にしては教え難く、娘としては問い難い「性書」の一種である。

 巻物仕立ての一巻で、「常の御心得」「閨の御慎み事」などが記されている。

 概して武家上流家庭における常識的な作法態度の教訓であり、閨房のことなどは、現実的に生じやすい男性の性愛時の心理的な変遷が詳細に描写されており、一般の人々にも心がけられるべき、時代を超えて通じる教えとされる。


『女訓』 「常の心得」

 女性は温順にして礼儀正しく、恥を知り、淑徳とし候。

 淑徳がなければ公家御大名の姫君にても、下賤の娘と異なることなく、遊女であっても淑徳が備わっていれば、公家高家の簾中奥方とも仰がれ可申し候。

 もし名字無き賤女が玉の輿に乗ったとしても、淑徳が備わっていれば、奥方となり候。

 御輿入れ後は、殿方は妾とは順番に同衾遊ばされますが、色を以て男に仕えるのが妾、心をもって殿に仕えるのが正室のお務めに候。

 御輿入り先の殿方に、如何に多くの妾がおりましても、色を以て競争するなどは愚かな振る舞いに候。

 奥方は気品高きを良しとし致し候。しかし、品が高ければ情が薄くなり、情が濃ければ品格を失い、中庸を得ることは難しく、ゆえに礼儀を正しくすれば品格も乱れず、心を順にすれば情は薄くなりにくく候。

 情を細やかにして品高き奥方になりますには、性順と礼儀正しいのが一番と存じ候。

 殿方の御運勢は、奥方の好悪によるものゆえに、奥方の常に優美な振る舞いをなされば、殿方の御運勢は春に咲く花の如く萌いで、殿方は立身遊ばさるに候。

 これに反して奥方が、もし、憂い、悲しみ、恨み、などの心があれば、それは表情に顕れ、言葉の上に顕れ候。その度に殿方の御心は乱れ、その果ては御運勢縮まり、家傾き、遂には御身を滅し給うに至るべく、ゆえに古来より大望ある武士は妾を持つとも妻は持たずと申し候。

 なぜなら妾になれば何時でも去らせることができるも、正妻は去り難きため、御輿入れ後は慎んで殿方一大の御守り菩薩と御成なさるべく候。


『女訓』 「閨の御慎みの事」

 御色気が薄ければ情はなくなりがちとなり、情がなければ御夫婦は御仲睦まじからず、終には御家の滅亡ととも相成り申すべく候。

 また、色気は充分なるを良しといたし候。されども、色は乱れやすいものであり、そのため礼を失いやすく候。

 恥なき挙動が現れた時、殿方に愛想をつかされること最も多く候。

 殿方が如何に迫り給うとも、自ら進んで情を商う遊び女の如く、淫らなる挙動は、かならずや殿方の興ざめを誘いし候。

 嫁いだ当初は愛され、後に愛想を尽かされるのは、皆、閨の最中にて淑徳を失いてのことに候。

 まして金殿(特に将来有望で立派な殿方)の奥方としては、妾に等しき淫らな狂態があれば、その身の品格を失う最も恥ずべきことに候。

 情事が終われば必ず寝床を別にして給うべし。寝床一つのままならば、いずれきっと愛想を尽かされることとなり候。

 閨に入る時は、幾年経とうとも、必ず初めての如く、恥ずかしき面色を忘れ給うべからず。慣れて恥ずかしき面色なければ、その品格を失い候。

 色はやわらかくして、恥かしきうちに味あるものにて、恥ずかしき面色あるほど情け深くなり申し候。

 殿方が気分に乗じて羞恥な責めを強い給うことあれば、荒々しく拒み給えば情を失うことになり、ただただ、殿方の胸に顔をさしあてて、じっと抱きつき、腰などあまり動かし給うべからず。

 また、自ら進んで口を吸い、あるいは淫らな声など出し給うべからず。また、佳境に入り給えば、殿方より先か、または同時かに昇天すべし。

 情交済みて後、必ず殿方の心に嫌気が起こり候。

 閨の用事が終わった後は、殿方の心色に飽き給う時なるをもって、秘密の淫処を晒さぬように意識し、静かに後始末し給うに、桜紙にて秘処を拭くの音など、殿方の耳に入らぬように心がけえば、品良く更に麗しきもの似て候。

 閨の最中にかくのごとく優美なる振る舞いは、奥方の品格を高め、その麗しさに殿方の愛まさりて、毎夜閨の中に名残のこりて、殿方は御もと様のことのみ思い給うに至り、生涯、御寵愛衰え申さず候。

 賢夫人とは、常に慎み深く殿方の内助となり、守り神となって御運勢を保護し給うなり。下様の賤女にても閨の淑徳を護れるものは、顕紳高貴の正妻となって良人を助け天晴れ功名をなすものとぞ申し候。

 此以外にもいろいろ閨中御心がけがあれども、心して行ない給うべし。ただ、「礼」と「順」と「恥」とを忘れず、情濃やかに心がけ給うべく候。


不倫は死ぬ覚悟が不可欠

 女子道徳教育が勧められた背景には、結婚は身分と家を世襲するのを確実なものにするためである。

 そのため若者たちが、自分たちの意思・愛情によって相手を選ぶ、結婚を前提としての恋愛を認めず、そうした行為は、社会秩序を乱す「不義密通」という名称で戒められた。

 結婚は、家と家、親と親との合議により、取り決められ、武家社会では「不義はお家の法度」として「手討」という極刑をもって自由恋愛を封じ込めようとしたのである。

「女訓」をたたき込まれた娘らは、江戸時代の結婚適齢期である15・16歳になると家格や財産、家風から判断した親が選んだ夫の元へ嫁ぐことになるのだが、新妻は、その嫁ぎ先にて貞操を厳しく監視されることになる。

 妻が姦通したことが発覚すれば夫への裏切りとされ、夫が奉行所に訴え出れば妻および間男共々、死罪が言い渡された。

 また、夫が姦夫を討つことを「女敵討ち」「妻敵討ち」といい、夫が妻と相手の男を殺しても罪にならず、むしろ奨励されていた。

「一、人之妻密懐の儀、自往古如法式、何方にても不去寝所可討果事専一也(御当家令条・明暦元年江戸町中定)」

(亭主が密通の現場を発見したら、その場で討ち果たし、もし駆け落ちしても捕まれば姦夫姦婦ともに磔の刑・死罪とする)

「一、主人之女房并師匠之妻と密通仕者之類 男女共に死罪(元禄御法式)」

「一、主人之女房ゑ密通の使者 死罪 (元禄御法式)」

 主人・師匠の妻との不義は、姦夫姦婦はもちろん、媒介の者も死罪と、不倫に関わることは、死ぬ覚悟が不可欠であった。

 不義密通に厳罰が下されたのは、武士の名誉を重んじる風潮も相まって、家父長制に基づいた家の名誉を守るという考えに由来する。

 男女の婚外性関係を法律で、「古代(奈良時代〜平安時代後期)」では「姦」。「中世(平安時代末期〜戦国時代)」では「密懐」。「近世(安土桃山時代と江戸時代)は「密通」と称された。

 室町時代も、「密懐」現場以外での妻敵討ちの場合、夫と姦夫の損失を同等にするとの理由で姦婦も死罪となったが、この裁定は戦国大名・南近江の六角家で制定された『六角氏式目』や、同じく戦国大名の伊達氏が制定した『塵芥集』等の分国法に引き継がれた。

『公事方御定書』下巻によれば、江戸期には「無礼討」、「敵討」、「妻敵討」の三種が私的刑罰権として認められていたが、「妻敵討」は家の恥辱、藩の外聞にかかわるとされ、18世紀末に幕府は抑制を促す教示をしている。

 だが、実際には不義が発覚しても流血沙汰になることは稀であり、武士なら離縁、庶民は間男からの金銭の授受による示談とするのが一般的であった。

 町人社会では、武家社会ほどの厳しさはなかったが、『公事方御定書 下巻』の「密通 御仕置」には武士階級のみならず町人、農民などの庶民も含まれた。

 密通した姦婦に厳罰が下った一方で、亭主の方は相手が人妻でなければ、娘だろうが、未亡人だろうが、遊女だろうが夫の姦通は心のままで、後継者を絶やさないためという大義名分から、上は将軍、大名から町人に至るまで、男は蓄妾の自由を保持し続けた。

 妻は夫が妾以外の女性と性行為しようとも、嫉妬することさえ道徳的に抑えられた社会風潮が蔓延した元禄時代。

 近松門左衛門の『心中天の網島』の、おさんが身を犠牲にして夫に尽くしたように、亭主の世間を立てるために、妻が夫の恋人を身請けする金銭を調達してやるのが貞女とされるに至っている。

 一度、嫁いだ娘やその実家は、たとえ亭主が浮気者や暴力者であったとしても、離婚を申し出ることは許されず、その一方で、夫は妻が気に入らなければいつでも「家風に合わず候に付き」もしくは「拙者勝手に付き」と、三行半に書いた去状(離縁状)を突きつけて追い出すことができた。

 もし、妻が去状をとらずに家出して再婚すると重婚罪となる。そのため、どうしても別れたい人妻は、鎌倉・東慶寺のような縁切り寺に駆け込むしかなかった。

 徳川家康が制定した「縁切り寺法」では、縁切り寺に駆け込んだ妻は足掛け3年で夫との縁が切れることになっている。

 それとて思うにまかせない女性のために、全国に縁切石、縁切榎、縁切絵馬、縁切稲荷、縁切地蔵、縁切厠、等々の俗信の対象となるものが、いまも点在している。

 それは、女性にとって理不尽極まりない暗黒時代の痕跡なのだ。

次ページにこれまでの記事一覧があります。

豊臣秀吉が織田信長の血縁女性に執着した本当のワケ:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/74788

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筆者:市川 蛇蔵

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