だから石破首相は「北方領土のほの字」も言わなくなった…安倍政権がプーチンに送った「致命的なシグナル」
2025年5月30日(金)7時15分 プレジデント社
会談に臨むロシアのプーチン大統領(左)と安倍元首相=2016年12月15日、山口県長門市 - 写真=共同通信社
※本稿は、山上信吾『国家衰退を招いた日本外交の闇』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
写真=共同通信社
会談に臨むロシアのプーチン大統領(左)と安倍元首相=2016年12月15日、山口県長門市 - 写真=共同通信社
■苦労にまみれた北方領土交渉
少し距離を置いて長い目で見てみれば、そもそも北方領土交渉には、関係者の苦労と涙にまみれた積年の歴史と経緯がある。
第二次大戦後に日ソの国交を回復したのが1956年の日ソ共同宣言だった。
そこには、「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」との条項がある。
平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の引き渡しを明記しているのである。
日ソ共同宣言では、これら二島の返還にしか言及がないが、歴史を紐解けば、日本こそがロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、19世紀初めには歯舞、色丹のみならず国後、択捉を含む北方四島の実効支配を確立し、19世紀半ばまでに、択捉島とウルップ島との間に両国の国境が成立していたという事実がある。
具体的には、1855年に調印された日露通好条約第2条には、次の規定がある。「今より後日本国と魯西亜国との境『エトロプ島』と『ウルップ島』との間に在るへし『エトロプ』全島は日本に属し『ウルップ』全島夫より北の方『クリル』諸島は魯西亜に属す(後略)」。
■北方四島は日本の領土であり続けた
その後、1875年に締結された「樺太千島交換条約」では、樺太全島がロシアに属することを認める一方で、千島列島中最北の「シュムシュ島」から前記の「ウルップ島」に至るまで18島の名前を明記しつつ、日本に譲ることを認めているのである。
すなわち、北方四島については常に日本の領土であり続けたのであり、一度たりとも他国の領土になったことがないのだ。まさに、「日本固有の領土」なのである。
こうした史実があるからこそ、歯舞諸島と色丹島の二島のみに言及している上記の条項を盛り込んだ日ソ共同宣言が作成された後であっても、東京宣言、クラスノヤルスク合意、川奈提案、イルクーツク声明等々、四島返還要求を貫くための苦労を重ねてきたのだ。それが戦後の日本外交の軌跡だった。
まさに、一歩一歩地歩を回復し、不法に占拠された領土を取り返していく、そうした努力の積み重ねだったのだ。
■共同宣言に「択捉」「国後」を盛り込めなかった理由
1956年の共同宣言交渉時には、日本政府としてはシベリアに抑留されていた同胞の帰還、漁業交渉の妥結、国連加盟といった解決を迫られていた種々の急を要する課題があった。
こうした諸課題の解決と国交正常化を急いだからこそ、共同宣言に「択捉島」「国後島」の文言を盛り込めなかったもののまとめに走ったことは、多くの識者が指摘してきた通りだ。
換言すれば、日本側ははじめから四島一括返還の立場であったが、ソ連側が応じたのは歯舞、色丹の引き渡し提案であり、日本側は国後、択捉も要求したものの、結局物別れに終わった経緯がある。
であるが故に、その後、塗炭の苦しみと辛抱強い交渉を重ね、歯舞、色丹だけではなく、国後、択捉を含めた四島の帰属の問題が交渉のテーブルに乗っていることをロシア側に認めさせるまで押し返してきたのだ。
■ロシアに領土問題を認めさせた東京宣言
領土交渉の歴史を簡単に振り返ってみよう。
1956年の日ソ共同宣言締結後、ソ連政府は長らく日ソ間での領土問題の存在さえ、認めようとしなかった。漸く1973年の田中角栄総理との首脳会談の際、ブレジネフ書記長は田中総理に迫られて領土問題の存在を口頭で認めた。しかしながら、ソ連政府が領土問題の存在を文書で認めるのは、1991年の両政府間の共同声明を待たなければならなかった。
こうした日本側の長年にわたる息の長い粘り強い働きかけの結果として得られたのが、1993年10月、エリツィン大統領訪日の際に合意された東京宣言だ。
ボリス・エリツィン氏(写真=大統領報道情報局/CC BY-4.0/Wikimedia Commons)
同宣言は、四島の名前を明記し、領土問題がこれら四島の帰属の問題であるとの位置付けを明記した画期的なものだ。
そして、「この問題(領土問題)を歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する」とまで規定させたのだ。
まさに、この規定こそは、日本固有の領土である北方四島が不法に占拠されているという「不正義」を解決する必要を明確に意識したものなのである。
■沖縄よりも大きい択捉、国後島
ちなみに、二島返還で決着させることは、4分の2、すなわち50%のゲインでは決してないことを認識しておく必要がある。北方四島全体の面積は5000平方キロを超える。しかし、歯舞諸島と色丹島の面積は両者を合わせても350平方キロに過ぎない。四島全体の1割にも及ばないのだ。
外務省が国内広報用に2014年3月に作成した「北方領土」というパンフレットには、興味深い記述がある。
「択捉島は日本最大の離島でもあり、国後島は二番目に大きな離島です」
佐渡はもちろん、沖縄よりも大きいのだ。択捉、国後の意義がよく理解される記述だろう。そして、当時の外務省はそうした二島の重要性を十分に認識していたことを示してもいる。
面積だけの問題ではない。終戦時の人口を見ても、北方四島全体に1万7000人を超える日本人居住者がいた中で、国後、択捉にも合わせて1万人以上の日本人が暮らしていた。これらの人々が生まれ育った郷里からソ連兵によって武器をもって追われた不条理を正さなければならない話なのである。
写真=iStock.com/panchro gelatin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/panchro gelatin
■「4」から始めるのと「2」から始めるのではまったく違う
加えて、ロシアの原潜が遊弋(ゆうよく)し米国本土をミサイルで狙える距離にあるオホーツク海。米ソ冷戦期にはソ連原潜の聖域と目されてきた水域だ。そのオホーツク海への出入口を扼(やく)する択捉、国後島の戦略的重要性は、火を見るよりも明らかだ。
むろん、領土交渉は相手があってのものだ。交渉担当者としては、日本の主張通り、四島がすべて返ってくるとのシナリオだけではなく、他のシナリオをも念頭に置きつつ頭の体操をしておくべきことは言を俟(ま)たない。同時に、「4」から始めて妥協点を探るのと、「2」で始めるのとでは、迫力も交渉上のポジションも全く変わってくることを踏まえなければならない。
実際、安倍政権の「柔軟な」までの交渉姿勢を見てとったロシアは、歯舞、色丹の二島についても、これは日本の主権を認めた上での「返還」ではなく、主権はロシアにあるという前提での「引き渡し」に過ぎないとの主張まで展開してきた。まさに、「二島返還」でさえ覚束なくなってしまっているのだ。
■外務省には粒ぞろいの人材がそろっていたが…
長年日露関係の最前線に立ち、外交上のやり取りや経緯に通暁していた外務官僚こそが「総理、ちょっと待ってください。二島返還を急ぐことが本当に国益にかなうのでしょうか? 択捉と国後を見捨てていいのですか?」と声を上げるべき立場にあったのだ。実際、省内の心あるロシア専門家等からは、「何故ここまで一方的に譲歩しなければならないのか」「これまでの積み上げを水泡に帰すのか?」との声が上がっていた。
第二次安倍政権の後半期、特に2016年12月の長門会談をはじめ、日露交渉が本格化した際の外務省事務当局のライン、すなわち、事務次官、政務担当外務審議官、欧州局長のいずれもが国際法局(旧条約局)出身者だったことは特筆に値する。のみならず、同局で担当官だけでなく、首席事務官、課長どころか局長まで務めてきた者もいた。
外務省にあって条約局は、国際法に通暁し法律的に筋を通すことで知られてきたエリート集団だ。地域担当の地域局が、目の前の相手国との関係を慮って政治的な妥協に走りがちなことを戒める役割を担ってきたのが条約局であった。
1972年の日中国交正常化当時、日本外務省条約局長であった高島益郎氏は、国際法と条約に従った正論を押し通したと言われる。そして、それが故に、時の周恩来中国総理から「法匪(ほうひ)」と呼ばれ、遂には「こういう有能な人物が欲しい」とまで言わしめたという、まことしやかな逸話が語り継がれてきた。
■安倍総理に「二島返還は違う」と諫言すべきだった
仮にそのような条約局のDNAが生きていたのであれば、日露領土交渉の展開は違ったものになっていたのではないか。彼らこそ、若い担当官時代から日露交渉に深く関わっており、四島返還という日本の従来の主張が歴史的にも国際法上も正当であることを省内外で繰り返し主張してきた面々だった。
にもかかわらず、レガシー作りに勤しむ政治指導者に対して意見具申することが何故できなかったのか、というのは国民からすれば正当な問いかけだろう。
交渉に深く携わってきた省内幹部からは、「局長、外審、次官と上に行けば行くほど、安倍総理に話を合わせてしまう」とのぼやきを聞かされたこともある。そこには「法匪」の背骨も矜持もなかったのだろうか。領土問題こそは国益の根幹をなす問題であり、国家存立の根源だ。辞表を出してでも総理を諫めるような気概は過去のものとなってしまったのだろうか。
■二島返還を確保するためのコスト
彼らが担当官の時に上司の条約局長であったのが、ロシアに対する冷徹な観察と厳しいアプローチで知られてきた故・丹波實元ロシア大使だった。前記の東京宣言を含め、着々と布石を打ち、歴史の不正義を正すべく四島返還で領土問題を解決すべく精魂を傾けてきた侍だった。
数十年にわたって営々と築き上げてきた成果が一顧だにされることなく、1956年の共同宣言のラインにひきずり戻されてしまった領土交渉。どのような気持ちで後輩の交渉を見守っていたのだろうか? 泉下の丹波大使に聞いてみたい気がする。
そして、二島返還を確保するためのコストが、国後、択捉の「切り捨て」と並んで、日露の「共同経済活動」だった。海産物の共同増養殖、温室野菜栽培、島の特性に応じたツアーの開発、風力発電の導入、ごみの減容対策などがパイロット・プロジェクト候補として日露両政府間で合意され、早期実施、具体化に向けて協議が進められてきた。
だが、こうした事業は、その内容にかんがみ、政府だけで推し進められるものでは到底なく、関連企業の協力が不可欠だ。
ところが、共同経済活動を進めるべく「君側の奸」から参加を強く呼びかけられた日本企業の間にさえ、表面上は長期安定政権の要請を尊重しながらも、「実際のニーズや経済実現性がないものを、何故ここまで苦労してやらなければならないのか?」と訝り納得できないとする声が少なからずあったと聞く。腰が引けていた企業が多かったのは否定できない。
■「二島返還でも構わない」という誤ったシグナル
対露交渉を巡る、このような不作為と進言を躊躇う怯懦な姿勢こそが、日本外交の闇を象徴した例の一つのように思えるのである。
山上信吾『国家衰退を招いた日本外交の闇』(徳間書店)
安倍政権後のロシアとの国家間の関係に目を転じれば、これ以上保守色の強い政権はないであろう安倍政権が、二島返還で構わないとのシグナルを送ってしまった以上、今後の政権が本来の四島返還要求に立ち戻ることは至難の業である。実際、その後の岸田政権も石破政権も、北方領土交渉については腫れ物に触るかの如くである。
ロシアに獲られた領土回復の難しさは、2014年にクリミア半島を失ったウクライナのその後の対応が如実に示している通りだ。2022年に二度目の侵攻に遭ったウクライナは、漸く戦って取り返そうとしているものの戦況は芳しくない。
翻って、戦争に負けて不法占拠された北方四島。現行憲法下の日本には、戦争に訴えて取り返す道はない。だからこそ返還を実現するためには、長い期間にわたっての忍耐と粘り強い交渉が必要なはずである。もともと百年単位の長期戦を覚悟した上でなければ、臨めない交渉なのだ。
こうした国際政治の現実や相場観、歴史の流れに通じている外務官僚こそが、プーチン大統領との交渉に前のめりになる安倍総理に「再考してください」と声を上げるべき立場にあったのである。後付けのタラレバ論と片付けてはならない。多くの国民が霞が関の官僚に期待してきた役割は、そこにあると信じるからである。
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山上 信吾(やまがみ・しんご)
前駐オーストラリア特命全権大使
1961年東京都生まれ。東京大学法学部卒業後、1984年外務省入省。コロンビア大学大学院留学を経て、2000年在ジュネーブ国際機関日本政府代表部一等書記官、その後同参事官。北米二課長、条約課長を務めた後、07年茨城県警本部警務部長という異色の経歴を経て、09年には在英国日本国大使館政務担当公使。国際法局審議官、総合外交政策局審議官(政策企画・国際安全保障担当大使)、日本国際問題研究所所長代行を歴任。その後、17年国際情報統括官、18年経済局長、20年駐オーストラリア日本国特命全権大使に就任。23年末に退官し、現在はTMI総合法律事務所特別顧問等を務めつつ、外交評論活動を展開中。著書に、駐豪大使時代の見聞をまとめた『南半球便り』(文藝春秋企画出版部)、『中国「戦狼外交」と闘う』(文春新書)がある。
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(前駐オーストラリア特命全権大使 山上 信吾)