祖母の代に始まった家政婦紹介所から介護事業への転換、そして障害福祉分野へ。「関わるすべての人を笑顔に」。伝統と革新を融合させる豊生ケアサービスの歴史と挑戦

2023年12月8日(金)23時14分 PR TIMES STORY


有限会社豊生ケアサービス 代表取締役 原田高行

家政婦紹介所から介護保険事業への参入、そして倒産へ。

有限会社豊生ケアサービスは祖母の代から続く洲本家政婦紹介所に端を発します。

介護保険制度がスタートするまでは介護=措置という認識(保護を受けるような認識)が定着しており、制度として介護を受けるということが当たり前ではありませんでした。

その当時は主に老人介護は病院が担うような構造になっており、「社会的入院(入院加療の必要がないにもかかわらず介護を目的に長期入院すること)」が社会問題となっていました。

当初の稼業であった家政婦紹介所も、病院に入院している高齢者に泊りがけで付き添い介護を行う家政婦を紹介するようなケースが過半数を占めており、病院が主たる取引先のような形になっていました。

その後、政府の方でも高齢化の深刻化や社会的入院による医療費の増大が問題視されはじめ、2000年の介護保険制度創設に伴い、医療と介護の切り分けの一環として完全看護が謳われ、主な取引先であった病院に家政婦の付き添いが原則禁止されました。

主要顧客を失った家政婦紹介所の多くはいち早く介護保険事業に参入するという流れが業界のスタンダードになっていたように思います。

豊生ケアサービスの本社がある洲本市では介護保険制度創設に先駆け、1998年より介護保険のモデル事業者を公募していましたが、介護保険事業は法人格を有していなければ国の認可を受けることができなかったため、私の父親が有限会社アワジファミリーサポートという有限会社豊生ケアサービスの前身となる法人を立ち上げ、無事モデル事業に参入することになりました。

介護保険等の認可事業は都道府県の認可を受けて運営ができる仕組みとなっており、収益の約9割がサービスを提供した2か月後に国保連合会より入金される仕組みとなっていますが、モデル事業の間は認可を得る必要がなく、正式に介護保険制度がスタートする2000年4月までに都道府県の認可を取る必要がありました。

しかしながら、父親は期日までに認可を得ることなく、無認可での営業を2か月間続けていた結果、収入のほとんどが国保連合会から入金されることなく、たちまち自転車操業となり、介護保険制度がスタートしてから半年後には倒産することになりました。

当初、家政婦紹介所時代から働いてくれていた家政婦さんにホームヘルパーの資格を取ってもらって訪問介護事業を運営していましたが、倒産と同時にスタッフも利用者さんも散り散りになるところを有限会社アワジケアセンターという同業他社の当初の社長であった生田氏から「絶対に会社を立ち上げて戻っておいで。その時までヘルパーさんと利用者さんは一旦うちで預かっておくから。」と言っていただき、アワジケアセンターにヘルパーさんと利用者さんを引き受けてもらうことができたおかげでスタッフと利用者さんに殆どご迷惑をお掛けすることなく会社を閉じることができました。

経済的にも苦しかった数年間。居宅介護支援事業所「豊生ケアサービス」の創業まで

無事に会社を閉じることはできましたが、銀行だけではなく高金利のサラ金からも多額の借金をしていたので、祖母の代から引き継いできた家土地も売却し、当初同居していた父親と母親は離婚。家もなくなった結果、一家離散となり、それぞれ別々の生活を歩むこととなりました。

当初の私はといえば、父親から自宅を売却したお金のうち100万円を当面の生活費としてもらい、洲本市内にある和菓子屋の倉庫の2階にある家賃2万円の部屋を借りてアルバイトをしながら生活をしていましたが、数ヵ月もすればそんな生活にも順応し、自由な生活を満喫していました。

そんな私を見かねた母親は私に

「そんな生活を続けてていいのか?ご先祖さまや先代からついてきてくれたヘルパーさんたちに申し訳ないと思わないのか?」と叱咤激励をし、その言葉を受けてようやく私も奮起して「今のままじゃダメだ」と思い始めました。

動き始めた私と母親はまったく知識もないままに、まずは会社を立ち上げてアワジケアセンターに預かってもらっているヘルパーと利用者さんを迎え入れようということで動き始めましたが、色々な人から情報を集める中で、平成18年当初の会社法改正前は一番設立のハードルが低かった有限会社でも資本金が最低300万円必要ということを知りました。

当初の私たちにそんなお金を用意できるはずもなく、色んな人に頭を下げて借入のお願いをして回りましたが、資産も信用もない私たちに300万円ものお金を貸してくれる人が居るはずもなく途方に暮れていたところ、母親の姉の夫から声がかかり、「出世払いでいいから頑張れ」と無償で300万円を貸していただくことができました。

そんなこんなで、無事資本金を手に入れ、晴れて「有限会社豊生ケアサービス」を立ち上げることができました。

豊生ケアサービスの名前の由来は、当初300万円の資本金を貸してくれた親戚の名前「豊次郎」から1文字を拝借して命名させていただきました。

300万円の資本金を融資してくれた豊次郎氏

アワジケアセンターに会社立ち上げを報告したところ、預かってくれていたヘルパーさんと利用者さんを快く戻していただき、やっと私たちの第一歩が始まりました。

その後は小規模ながらも少しずつ歩を進め、平成13年にはご縁で来ていただけることになったケアマネジャーさんを迎え入れて介護計画を策定する事業である居宅介護支援事業所を設立。豊次郎さんからお借りしていた300万円も3年目には利子をつけて完済することができました。

事業規模の急激な拡大。経営の難しさに直面した豊生ケアサービス

当初の会社運営は殆ど母親が切り盛りしており、絵にかいたようなボンクラであった私は少しずつお給料もとれるようになり、設立当初の緊張感もどこかに吹き飛びボウフラのような日々を送っていました。

そんな中、平成19年に転機が訪れます。

地域の民間企業では比較的大手のケアサービス三原という訪問介護事業所が詐欺に遭い、事業所を閉鎖するという情報が舞い込んできました。

当初の私は自分が助けてもらったようにその会社の利用者さんとヘルパーさんを一時的にうちで預かってはどうかと社内のスタッフに持ちかけましたが、絵にかいたようなボンクラであった私の言葉に耳を貸すスタッフは居らず、口をそろえて「やめておけ」と言われました。

ボンクラながら意地だけは強かった私はそんな言葉に耳を貸さず、単独でその企業の西嶋社長のもとを訪れ、父親の会社が倒産した際にアワジケアセンターにしてもらったようにウチにヘルパーさんと利用者さんを預けないかと提案した結果、一部は他事業所に流れはしましたが、そのときの豊生ケアサービスの約2倍の規模を誇るケアサービス三原のヘルパーさんと利用者さんを受け入れることになり、豊生ケアサービスの事業規模は約2.5倍程度まで膨れ上がりました。

しかしながら、一気に2.5倍まで膨れ上がった規模の会社のマネジメントができるスキルが当初の私にあるはずもなく、約2年程度でほとんどのスタッフと利用者が離れ、最終的にはほぼ合併前の規模感まで縮小することとなりました。

そのときはじめて経営者として自己研鑽の重要性を痛感しました。

その後、少しずつ経営者としての自覚を持ち始め、学びを深めるとともに会社の経営にも携わるようになり、平成21年には規模感に応じて社屋の移転、平成22年には新規事業として通所介護(デイサービス)事業所の立ち上げと、順調に規模を拡大していきます。

平成22年に立ち上げた「究極の自立支援型デイサービス ほほえみ」

試練を乗り越えた先に待っていた事業譲渡でのトラブル

平成27年には隣市にあった「しあわせの菜の花畑(以下、菜の花畑)」という老人ホームの管理人であった奥村氏という方より、菜の花畑を無償で事業譲渡したいという話が舞い込んできました。

平成19年の失敗以降は順調に新規事業を軌道に乗せてきた自信もあり、二つ返事で受けたいところでしたが、色々な失敗からかなり慎重になっていた私は奥村氏に相当慎重に条件等の聞き取りをしていたように記憶しています。また、当初の菜の花畑の財務状況や人材の情報も全てオープンにしていただき、会話も全て録音をして、万が一にもだまされることがないように最善を尽くしていました。

最終的に譲渡したい理由は

「奥村氏が親の介護のために実家のある大阪に戻りたいが後任が居ないので他社に譲りたい」といったことで間違いなさそうだと判断した為、無償譲渡である旨を明記した契約書面を作成し、締結した上でその話を受けることにしました。

県への指定の申請や市役所の担当課への挨拶、入居者家族への書面の送付、関係機関への運営会社変更の案内等、引継ぎの手続きも順調に進み、いよいよ引き渡しが3日後に迫った平成27年3月27日に事件が起こりました。

奥村氏より電話があり、急に親会社の社長が無償での譲渡に異を唱え始め、無償譲渡ができなくなった。譲渡にあたり即金で1000万円を用意してもらわなければ譲渡しないと言っているとのことでした。

当初、しあわせの菜の花畑は株式会社日宅という会社が運営しており、その親会社である株式会社ユービーという会社の代表が異を唱えてきたというカタチです。

こちらの言い分としては、無償譲渡で契約書を交わしているので急に条件を変えられても飲めない旨を伝えましたが、契約書の文言には「施設の什器備品は無償で引き継ぐものとする」と記載されており、「運営権」については全く触れられていないと指摘され、内容を再確認したところ、その通りの内容になっていました。

ここにきても自身の詰めの甘さに涙が出そうになりました。

    当初の契約書

当初、経営は少しずつ安定してきていましたが、すぐに1000万円も用意できるはずもなく、入居者や関係機関等にもすべて告知してしまっていたので、ここでウチが手を引くと関係機関や取引先に対してせっかく積み上げてきた豊生ケアサービスの信用が地に落ちてしまうとも考え、どうしていいか全くわからず目の前が真っ暗になりました。

とは言え、引き渡しは3日後、契約書の締結も3月30日までに済ませなければいけなかったので、とにかく動かなければいけない。でも、何をしていいかわからない中、以前に遊び仲間が主催した飲み会で知り合った摂津法律事務所の関谷弁護士の存在を思い出しました。

すぐに名刺を探して電話をかけ相談したところ、今日来てもらえれば詳しく相談に乗れるとのことだったので、すぐに淡路島から大阪の千里丘まで車を走らせ、事の顛末を伝えました。

その際に、最初に交わした契約書やこれまでの録音内容も確認してもらいましたが、録音は法人としての決裁権のない人の発言なので根拠としては弱い。契約書にも「什器備品を無償譲渡」とは書いてるが「運営権」については触れられていないので、運営権に対しては請求される可能性があるとのことでした。

それでも、やれるだけやってみると言っていただいたので、当初一人で悩んでいた私にとって、その関谷弁護士の存在はとても心強い存在であったと記憶しています。

次の日の3月28日、株式会社日宅の田邊部長とその他役員が豊生ケアサービスに来るとの連絡があり、すぐに関谷弁護士に連絡を入れたところ、迎えに来てもらえれば何とかするとのことだったので、すぐに千里丘まで車を走らせ、関谷弁護士と共に豊生ケアサービスの相談室で作戦会議を開き、臨戦態勢で迎え撃つことになりました。

先方は田邊部長と役員1名、先方の顧問弁護士の3人で来所され、豊生ケアサービスの相談室で関谷弁護士と先方の弁護士の掛け合いが始まりました。

目の前で弁護士同士が主張をぶつけ合ってるシーンはドラマでしか見ることがなかったので、今思うと貴重な経験をしました。

結論、こちらからの提案としては「基本的には無償譲渡で話が進んでいたので1000万円は飲めない」「ここで手を引くことになれば豊生ケアサービスの社会的信用が下がることになるのでそうなった場合は何らかの形で訴えることになる」と言った線を押して、100万円なら支払う用意はあるという落としどころで提案したところ、先方がその話を飲んでいただくこととなり、無事一件落着となりました。

その後は、しあわせの菜の花畑改め、住宅型有料老人ホームの指定を取得し「ほほえみの郷」として生まれ変わり、豊生ケアサービスの収益の主軸として活躍してくれています。

ほほえみの郷でのワンシーン

児童向けサービスをオープンし、新たな挑戦へ

障がい者福祉の方にも歩幅を広げ、平成30年には初めての児童向けサービスとなる「放課後デイサービスふくまろ」をオープンさせました。

放課後デイサービスふくまろは、障がい特性をもつ児童を学校終わりや休みの日にお預かりをし、その人に応じた療育を提供するサービスになりますが、その事業を通じて、障がい者の持つ集中力や潜在能力といった可能性に気づかされることになりました。

  「臨床美術」の手法により、障がい児童の潜在能力を引き出す取り組みを

   取り入れた放課後デイサービスふくまろでのワンシーン

コロナ禍を機に新たな事業「福祉」と「食」の事業実現へ

平成28年以降は、経営者が学び合うことを目的とした兵庫同友会という場で積極的に経営の勉強をしてきたこともあり、全事業部順調に成長を続けてきましたが、2020年に始まったコロナ禍では通所系事業と訪問系事業の利用控えにより、売り上げは激減し、赤字に転落しました。

元々、私は1つの事業に依存する経営に対して危機感を覚えており、豊生ケアサービスがメイン事業としている介護事業も例外ではないと考えていました。

コロナ禍という外部環境の変化によって、飲食事業や観光業等がほぼ機能不全になることなんて殆どの人が想像もしてなかったと思います。

介護事業については、今後働き手不足の問題や高齢人口がピークアウトした後、将来的に縮小していく可能性は充分想像の範囲内であったので、豊生ケアサービスも何とか事業の柱を他に作っていきたいと考えていたところに、ちょうどコロナ禍によって売り上げの減少幅が事業再構築補助金の要件と合致したこともあり、ピンチをチャンスへと捉えて以前から実現したかった「福祉事業」と「淡路島の食」を掛け合わせた

SHIMA DELI事業の実現に踏み切りました。

   「福祉」と「淡路島の食」を掛け合わせたSHIMA DELIの外観

淡路島の「地産地消」を満喫できる「SHIMA DELI」の運営

SHIMA DELIでは、【食材から器に至るまで地産地消】をキャッチフレーズとして、淡路島で活躍する農家さんの農作物や陶芸家さんの器を通して淡路島の魅力的な「食」の感動を提供しています。デリカテッセン調の店舗では、約20種類の中から好みのお惣菜を購入していただくことができ、2階部分にあるイートインスペースでは淡路島で活躍する陶芸家さんの個性豊かな陶芸作品たちを自由に使って店舗で購入したお惣菜を盛り付けて楽しんでいただくことができます。

食事は味覚で楽しむものですが、一緒に食べる人や雰囲気、器などで同じものを食べても全く違う感動を与えることができると考えており、SHIMA DELIではそういった体験を通じて淡路島の食材から器に至るまで満喫していただきたいという想いで運営しています。

器も含めて地産地消。淡路島の「食」の魅力を器も含めて感じてもらいたい

障がい者就労支援「ふくまろ給食室」で地域と障がい者の架け橋へ。

バックヤードでは「ふくまろ給食室」という就労継続支援B型事業を運営しており、厨房業務や盛り付け業務等の業務フローを細分化して障がい者の特性に応じた部分を担ってもらうことで、障がい者が持つチカラを活かして活躍できるような取り組みを実践してます。

   集中してお弁当の盛り付けに取り組む利用者様

また、一般の就労継続支援B型事業では「働く場の提供」を目的としていますが、ふくまろ給食室では「できることを増やして一般就労に繋げる」といった、就労継続支援B型事業からの「卒業」を目的とした事業運営をしています。

しかしながら、障がい者の一般就労に於いては課題もあり、多くの障がい者はマルチタスクが苦手なケースが多く、逆に一つのことに集中すると一般就労者よりもはるかに集中的かつ継続的に作業に取り組んでくれたりしますが、多くの中小企業ではマルチタスクで一連の業務をさせようとして障がい者就労の定着に繋がらないといった悩みをよく耳にします。

障がい者の持つチカラを最大限に発揮してもらい、定着してもらうためには業務の細やかなマニュアル化や業務フローの細分化と言った仕組みの工夫が必須だと思います。地域の中小企業に対しても障がい者の特性や仕組みづくりの理解を促し、ふくまろ給食室が地域の中小企業と障がい者の架け橋となることで地域の中小企業の人員不足の軽減に。

また、地域の障がい者がもっと活躍できる社会の一助になることが豊生ケアサービスの経営理念でもある「関わるすべての人を笑顔に」を実現する一歩になると確信しています。

豊生ケアサービス企業理念


行動者ストーリー詳細へ
PR TIMES STORYトップへ

PR TIMES STORY

「障害」をもっと詳しく

「障害」のニュース

「障害」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ