尾上菊之助、三代揃った襲名への思い「父が菊五郎のままというのも、傾いてて歌舞伎役者らしい」
2025年3月10日(月)11時30分 婦人公論.jp
「一年間稽古に専念させてもらおうと先延ばしにしたところ、祖父が病気になってあっという間に亡くなってしまったんです」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは——。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第37回は歌舞伎役者の尾上菊之助さん。今年5月に八代目尾上菊五郎を襲名する。俳優一家に生まれ、芸の道をきわめてきたが、その道のりにはさまざまな出会いがあった——。(撮影:岡本隆史)
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1年待たずに襲名していれば……
端正な美貌で観客を魅了し続ける歌舞伎界の貴公子、尾上菊之助さん。近頃は女方や二枚目ばかりでなく、時代物や世話物の立役へと、その役どころの広げ方は目を見張るばかり。
そうした菊之助さんもいよいよ今年5月に八代目尾上菊五郎を襲名し、長男の丑之助さんが菊之助を六代目として継ぐことになる。
そして、現・七代目菊五郎さんはと言えば、前代未聞! あえて改名せずにこれまで通りの菊五郎。「永年名乗ってきた菊五郎の名を、今さら変える気はないね」と記者会見で胸を張るのを映像で見て、内心「音羽屋っ」と声を掛けたくなった。
——私もやはり最初は戸惑いましたね、同じ名前が並び立つということに。
でも初代さんから代々の菊五郎は、時代の移り変わりに従って、創意工夫して適応してきましたので、父が菊五郎のままで行くという前代未聞のことをするのも、傾(かぶ)いてて、歌舞伎役者らしくていいなと思ったんですよ。
襲名って、本当にいろんなことを考えさせられますね。
第1の転機はやはり、私が前名の丑之助から菊之助になる襲名だったと思います。18歳の時でした。
父は私の学業優先で、そんなに芝居に多く出させないで、長い目で見てくれていましたね。私が15歳の時、祖父(七代目尾上梅幸)と父と『三人道成寺』(『京鹿子娘三人道成寺』)を踊ったんですが、その時の祖父は70を超しているんですね。でも孫のために三代で『道成寺』を踊ろうと企画して、そのために毎日のようにお稽古をしてくれました。
いざ舞台に立つと緊張の連続で、道行から最後まで一段踊るというのは本当にとんでもないことなんだなと思いながら、祖父や父に食らいついていく、という気持ちで毎日やっておりましたね。
それで17歳の時に、菊之助を襲名しないかと祖父から言われたんですが、果たしていきなり歌舞伎座で出し物(主演)ができるだろうかと、決断に踏み切れなかった。そのため一年間稽古に専念させてもらおうと先延ばしにしたところ、祖父が病気になってあっという間に亡くなってしまったんです。
一年待たずにその時襲名していれば、祖父にも菊之助になった自分の姿を見せられたのに、という悔いが残りました。
1996年5月菊之助襲名。披露の演目は『弁天娘女男白浪』の弁天小僧と『鏡獅子』で、観ていて歌舞伎座に清々しく爽やかな風が吹き込むような気がしたものだった。
——まだ大学に入ったばかりで、身体も完全に出来上がってませんし、あとで自分の姿を映像で見てみると、なんでこんなにまずいんだろう、って打ちひしがれて。それに気づかされたのが菊之助襲名でしたね。
でも、父に「襲名は、皆さんが御神輿をかついでくださるから、その上で芝居をすればいいんだよ」と言われて、『弁天小僧』の「浜松屋」は(十二代目市川)團十郎のおじさまが南郷(力丸)、(十七代目市村)羽左衛門のおじさまが日本駄右衛門に出てくださったので、その雰囲気に乗っかって……上手い方とやると、自分以上の力が出るものなんですよね。
今回、倅の丑之助が菊之助になるわけですが、6年生で襲名になるので、学校にほとんど行けないんです。なんでこんな時に、お父さんは18歳で、しかも17歳の時に1年延期してもらったじゃない、って。ちゃんと知ってるんですよ。(笑)
でも最近、父と3人で鼎談みたいなことをしたことがあって。
私は父に対してすごい緊張感があるので、芸のこととかあんまり訊けないんですけど、丑之助が父に「小さい時はどういう人に歌舞伎を教わりましたか」とか、「好きな役は何ですか」とか訊いたら、本当に真剣に答えてて。あぁ、孫には何でも答えるんだな、と思いました。(笑)
現地の空気を感じる大切さ
第2の転機は蜷川幸雄演出の現代演劇との出会いだという。2000年、『グリース』のオレステス役で、実の姉である寺島しのぶが演じる姉のエレクトラと激しく抱き合う場面を間近で観て、衝撃を受けた覚えがある。
——そうでしたね。すごく刺激的でした。平幹二朗さん始め、麻実れいさんとか素晴らしい現代劇の俳優さんとご一緒させていただいて、いろんな体験をしました。
たとえば歌舞伎だと映像や口伝(くでん)がいろいろあって、どうすればその役にさっとなれるかという方法論がたくさんある。でも現代劇だとその方法論を自分で確立しないといけないので、あの時は本当に迷いましたね。
でもありがたいことに、稽古に入る前に蜷川さんがギリシャへ取材に連れて行ってくださって、現地の空気を役者が感じることの大事さを教わりました。野外劇場で、「あそこで声を出してみるか」っていきなり本読みが始まったりとか、刺激的でしたね。
蜷川さんに言われてハッと思ったことは、まず心情から出てくる台詞で方法論を確立する、ということ。それまでとは逆の方向だから難しかったです。まず心から言葉が出てこないと薄っぺらになるということを、厳しく言われましたね。でも、それで歌舞伎に戻って勉強しなおしてみると、結局、古典歌舞伎の型というのは、心情から出てきた言葉であり、形であって、つまりは同じことなんだなと思い当たりましたけどね。
筆者の関容子さん(左)と
そして菊之助さんから次なる蜷川演出への熱望は、パリからロンドンへの国際電話で伝えられる。
——今の團十郎さんがその前名の海老蔵を襲名したのが2004年で、その公演がパリのシャイヨー宮でありましたよね。私もそれに参加していて、そこから蜷川さんに電話したらロンドンでキャッチしてくださって、歌舞伎でシェイクスピアの『十二夜』をぜひ演出していただきたい、ってお願いしました。実現したのが翌年7月の歌舞伎座ですから、早かったですね。
そこで痛感したことは、自分の古典の引き出しの中身の薄さでした。蜷川さんに「ここ歌舞伎だったらどうやるの?」って訊かれても、咄嗟に答えられない。すると父や先輩の役者さんが助けてくれて、蜷川さんとコミュニケーションを取ってくださいました。
この時、蜷川さんは、初めて歌舞伎の国へ留学するつもりで来た、と言っておられて、その時、いくつになっても挑戦し続ける、進化し続ける精神、というものを私は勉強しましたね。
<後編につづく>