ナイトクラブの崩落事故で死亡した元中日・ブランコ 現役時代から際立っていた“日本愛”と、叶わなかった“恩返し”計画とは
2025年4月18日(金)18時0分 文春オンライン
中日、DeNA、オリックスの3球団でプレーしたトニ・ブランコ氏が4月8日、出身地のドミニカ共和国(以下ドミニカ)で発生したナイトクラブの屋根の崩落事故で死去。43歳だった。
「事故では少なくとも218人が死亡、189人が負傷。ナイトクラブでブランコ氏は、2012年から西武やオリックスで4年間プレーしたエステバン・ヘルマン氏(47)と一緒だった。建物の異変を察知したブランコ氏がヘルマン氏を突き飛ばし、彼は間一髪、崩落から逃れたそうです」(スポーツ紙記者)
一時は米ナショナルズに在籍したものの、メジャーでは無名。日本に渡ったのは09年のことだった。
「中日のバッテリーチーフコーチで渉外担当を兼ねていた森繁和氏が中南米と太いパイプを築いており、ドミニカのウインターリーグでブランコ氏を“発掘”した」(同前)

「来日当初から、日本文化を学ぼうという意識がとにかく強かった」
中日1年目に本塁打王と打点王の二冠を達成。12年オフに移籍したDeNAでも、初年度に首位打者と打点王のタイトルを獲得した。NPB通算本塁打は181本。スラッガーとして名を馳せたが、心根はきわめて優しかった。
「森氏の教えもあって、来日当初から、日本文化を学ぼうという意識がとにかく強かった。外国人選手だけでなく、日本人の後輩のチームメートにも声をかけて、バッティングのコツを丁寧に教えるなど、よく面倒を見ていました。誰からも慕われる助っ人でした」(中日OB)
「もっとハングリーになれよ。バットで稼いで一緒に成功しようぜ!」
当時、中日はドミニカのウインターリーグに若手選手を派遣していた。ブランコ氏は派遣された選手をドミニカでの自宅に招き、もてなした。失敗続きで自信を無くしていた選手には、
「もっとハングリーになれよ。バットで稼いで一緒に成功しようぜ!」
と語りかけ、プロの矜持を呼び覚ましたという。
16年オフにオリックスを自由契約となりNPBを去ったが、引退後、祖国に豪邸を建てた際には“恩人”の森氏を新築祝いに招待した。
「21年オフには北海道の独立リーグ球団と契約し、選手兼監督として復帰すると発表された。しかし結局、入国ビザが発給されず断念。ただ本人はもう一度日本で、指導者として後進を育てたい気持ちが強かった。『ドミニカとのパイプ役にもなりたい』と、日本球界への恩返しを熱望していたのです」(前出・OB)
最後まで、日本への恩義と仲間への気遣いを忘れなかったブランコ氏。息子のトニ・ブランコ・ジュニア(19)はいま、パイレーツ傘下でメジャー昇格を目指している。
(「週刊文春」編集部/週刊文春 2025年4月24日号)