「卵を1日30個食べていた」体重50kgのガリガリ少年→100kg超の“伝説のボディビルダー”に大変身…山岸秀匡(51)が語る、ボディビルを始めた経緯
2025年4月20日(日)12時10分 文春オンライン
世界最高峰のボディビル大会「ミスター・オリンピア」に日本人で初めて出場した伝説のボディビルダー・山岸秀匡さん(51)。現在はジムの経営などを行いながら、ボディビル界の発展に貢献している。
山岸さんは、子どもの頃から「強い身体に憧れがあった」という。いったいどんな子ども時代を過ごし、どのような経緯でボディビルを始めたのか。どんなトレーニングを経て、ボディビル界のトップに上り詰めたのか。話を聞いた。(全2回の1回目/ 2回目 に続く)

◆◆◆
日常生活では、筋肉がありすぎて困ることもある
——間近で見ると、すごい筋肉ですね。
山岸秀匡さん(以下、山岸) 体重が100キロ以上あったときは、筋肉が重くて常に疲れてましたね。あと、素早く行動できなかった。
あるとき、ジムの駐車場で車のトランクを開けてカバンを出していたら、おばさんに「なんでそんなにゆっくり動いているの?」と言われたことがあって。
自分では気付かなかったんですけど、それを言われて「たしかにゆっくり動いているな」って。自分も、アメリカのボディビルダーを見たときに「ゆっくり動いているな」と思ったことがあったので、「自分もそのくらい(筋肉が)大きくなったんだな」と思いました。
——日常生活では、筋肉がありすぎると逆に困るんですね。
山岸 そうですね。だけどボディビルでは、筋肉があればあるほど良いので。
小学生の頃から「強い身体になりたい」と思っていた
——山岸さんは、子どもの頃から筋肉質だったのですか。
山岸 小学生の頃から腹筋が6つに割れていて、「マッチョ」と呼ばれるタイプの子どもでした。生まれつき、筋肉がつきやすい身体だったんです。
——遺伝的な部分もあった?
山岸 親父の腕も、今の私の腕のように血管が浮き出ていましたね。トレーニングらしいトレーニングをしてないのに。腕相撲も物凄く強くて、子ども心に「すごい身体をしているな」と思ってました。
私は4人きょうだいの長男なのですが、下の3人は母親に似て細身なんです。なので、私だけ親父の遺伝子を受け継いでいます。
——小学生の頃は何か運動をしていたのですか。
山岸 小学校3年生から6年生までは、少林寺拳法をやっていました。ジャッキー・チェンやブルース・リーに憧れていて、「強くなりたい」と思っていたんです。中学では別の格闘技をやりたかったので、柔道部に入りました。
——強さへの憧れがあったと。
山岸 その頃から「強い身体」になりたいと思っていましたね。
「部室でベンチプレスの台を見てうれしかった」高校からウェイトトレーニングを始めたワケ
——ウェイトトレーニングをするようになったのはいつ頃から?
山岸 高校からです。ラグビー部に入って、部室にあったベンチプレスでトレーニングをするようになりました。
もともと、ベンチプレスに憧れがあったんですよ。プロレス雑誌の後ろのページによく広告が載っていて、それを見ていたので。だから、部室でベンチプレスの台を見たときに本当にうれしかったですね。
——ちなみに、ラグビー部に入った理由というのは?
山岸 ドラマ『スクール☆ウォーズ』に影響されましたね。ただ中学までは、筋肉はあるけどガリガリで、いわゆる「細マッチョ」だったんです。だから体重も50〜60キロしかなくて。
でもラグビー部に入ってからはとにかく体重を重くしないといけないので、ご飯をたくさん食べるのはもちろん、ウェイトトレーニングもしたほうが良いなと。それで、部室にあったベンチプレスを使ったり、スクワットをするようになったんです。
高校を卒業するころには、体重が20〜30キロ増えていた
——実際に体重は増えたのですか?
山岸 高校を卒業するころには80〜90キロくらいになってたので、20〜30キロは増えました。自分で体重を増やしたいと思って実際に増やせたので、メンタル的にも大きな自信になりましたね。
——ボディビルに興味を持つようになったのも、高校からだそうですね。
山岸 ボディビルの雑誌に出合ってからですね。ウェイトトレーニングのやり方が載っていたので、見るようになって。次第に、ボディビルのコンテストの記事も読むようになったんです。
でも正直、当時は日本人のビルダーの身体をすごいとは思わなかった。一番すごいと思っていたのは、アメリカのトップビルダーでした。今思うと、その頃からアメリカのボディビルの世界に惹かれていたのかもしれません。
——高校卒業後、ラグビーを続けるつもりはなかった?
山岸 なかったですね。ラグビー自体は楽しかったけど、上手ではなかったので。高校生のときから、大学に入ったらボディビルをやろうと思ってました。
早稲田大学でバーベルクラブに入部し、全日本学生選手権で優勝
——大学2年生のときに、早稲田大学のバーベルクラブに入るんですよね。
山岸 そうです。1年間はちょっと様子を見ながら、準備をしようかなと思って、ジムでアルバイトしながらトレーニングをしてました。
大学2年でバーベルクラブに入る頃には、ボディビルをやる下地ができていたので、入部したときには「すごいやつが来た!」って驚かれましたね。
——期待の選手として迎えられた。
山岸 全日本学生選手権に出場して、2年生のときは優勝できなかったんですけど、3年生と4年生では優勝できました。
私より前に全日本学生選手権で2回優勝したのは、10年近く前に1人しかいなかったんです。だから「良い選手がいる」と評価していただいて、雑誌の表紙にも掲載されたりしましたね。
「自分より身体の大きい人ばかり」アメリカのゴールドジムで受けた“衝撃”
——アメリカでプロになりたいと思うようになったのは、いつ頃から?
山岸 大学2年生のときですね。旅行でアメリカのロサンゼルスに行って、ゴールドジムの1号店に行ったんです。
そしたら、見たことのないマシンがたくさんあって、トレーニングしている人も自分より身体の大きい人ばかりで衝撃を受けました。
当時の日本とは明らかにレベルが違いましたし、フィットネスが浸透している世界を目の当たりにして「この環境に身を置きたい」「アメリカのボディビルディング業界でプロになりたい」と思うようになりましたね。
——そこから、アメリカ行きを目指すようになった。
山岸 大学卒業後、株式会社健康体力研究所に入社するんですけど、会社の先輩達にも「3年で辞めてアメリカに行きます」って言ってました。
なんで3年と決めていたのかは覚えていないのですが、アメリカに行くためにはある程度お金を貯めないといけないと思っていたのは確かです。今考えたら、すごく失礼な話ですけど。
7か月間のアメリカ留学後、身体が劇的に変わった
——そして3年後、アメリカに。
山岸 学生ビザを使って、ゴールドジムの1号店があるロサンゼルスのベニスビーチに行きました。
ホームステイをしていたんですけど、そこの家族がすごく良くしてくれたんです。「ボディビルをやっているからたんぱく質を摂りたい」と言ったら、毎日肉料理を用意してくれて、最高でしたね。
——7か月間アメリカで過ごしたそうですが、身体は変わりましたか。
山岸 劇的に変わりましたね。日本では、日中は会社に行って、夜にトレーニングするという生活でしたが、アメリカでは食べて、トレーニングして、寝るという生活しかしてないので。
成績も、アメリカに行く前は日本選手権で8位でしたが、アメリカ留学後には3位になりました。
「すぐにプロデビューしたわけではない」プロ転向後、2年かけて80キロ→100キロまで増量した理由
——プロに転向したのは、いつだったのですか?
山岸 2002年、28歳くらいのときですね。当時、プロになるためには、アジア選手権優勝・世界選手権の決勝進出(6位以内)・日本選手権の優勝という3つの条件のうち、2つをクリアしないといけなかった。
アメリカへ行ったときはまだ何もクリアしてなかったのですが、日本に帰ってきた年に世界選手権の6位に入って。その翌年にアジア選手権で優勝して、プロ転向の申請をしました。
でも、すぐにプロデビューしたわけではないんです。2年間は準備期間として、プロで闘える身体づくりをしていました。プロ転向時は80キロほどだったんですが、そこから100キロまで増量しましたね。
1日のノルマとして、鶏肉1キロ、卵30個を食べていた
——もちろん、脂肪ではなく筋肉を増やさないといけないわけですよね。
山岸 そうです。とにかく食べて、がんがんトレーニングをすることで筋肉を肥大させる。当時は1日のノルマとして、鶏肉1キロ、卵3キロを食べていました。
——卵3キロというと……。
山岸 30個です。すごい量ですよね。鶏肉1キロは、200グラムを5回にわけて食べるので、それほどの量じゃないんですよ。ボディビルダーにとって1日5食は普通ですし。
——卵と鶏肉はどうやって食べていたのですか。
山岸 卵は白身も含めて飲んでました。10個を3回にわけて。鶏肉は油を使わずに焼いて食べていたので、パサパサしていて食べるのがつらかったですね。
卵も鶏肉も「まずい」と思いながら無理やり食べていたので、身体に良くなかったなと思います。見るだけで吐きそうになるくらいだったので、身体が栄養を吸収しないんですよ。
結婚してから、妻がいろいろと工夫して料理してくれるようになって、調理方法やおいしく食べることの重要性を実感するようになりました。同じ栄養を摂るなら、おいしいと思って食べたほうが、身体が栄養を吸収してくれるんです。
世界的に有名なトレーナー・ミロシュの指導
——ボディビルダーにとっては、トレーニングはもちろん、食事も大事だと。
山岸 プロになってすぐの頃はあまり成績が良くなかったので、世界的に有名なトレーナー、ミロシュ・シャシブに指導してもらうために、2006年にアメリカに行ったんです。
ミロシュにコーチングしてもらうようになって指摘されたのも、食事のことでした。
当時は全体的な筋肉量が圧倒的に足りてなかったので、それを改善するために食事に対する考え方や食事のタイミング、トレーニングとの組み合わせ方などをイチから教えてもらいましたね。
「ボディビルは筋肉を大きくした状態で身体を絞らないといけない」ミロシュ流トレーニングの効果は…
——アメリカでは、具体的にどんな食事をしていたのですか?
山岸 ボディビルは筋肉を大きくした状態で身体を絞らないといけないので、ミロシュからは炭水化物の量を増やすように指導されて。アメリカでは、ライスやポテト、パスタ、あとはライスケーキ(お米のお菓子)をひたすら食べてましたね。
もちろん日本にいたときも炭水化物を摂取していたんですけど、コンテストが近づいてくると、体脂肪を落とさないといけなくなるので、炭水化物を摂るのが怖くなるんですよ。そうすると、体脂肪は落ちるけど身体が細くなってしまう。
——ミロシュ流の効果のほどは?
山岸 炭水化物をたくさん摂りつつ物凄い量のトレーニングをこなしていたので、筋肉量がどんどん増えていきましたね。
日本人もオリンピアに出られると証明できた
——その結果、2007年にボディビル界最高峰の大会「ミスター・オリンピア」への出場権を日本人で初めて手に入れるわけですね。
山岸 自分がボディビルを始めた大学生の頃は、「ミスター・オリンピア」は目標ではなくて夢でした。当時は「オリンピアに出る」「ボディビルでプロになる」と言っている人は、“どうかしている”と思われていましたから。
でも私が初めて、道筋を立ててトレーニングすれば日本人もオリンピアに出られる、というのを証明できたと思います。
——ただ、2007年12月にロサンゼルス空港で逮捕されてしまいます。
山岸 当時はオリンピアの出場権を獲得して、すべてがうまくいっていたので、怖いものがなかったというか。慢心があったのかなと思います。それが、2007年の年末に起きたトラブルにつながっているのかなと。
撮影=松本輝一/文藝春秋
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(「文春オンライン」編集部)
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