イチローでも、松井秀喜でもない…少年時代の大谷翔平が「打ち方をマネしていた」“意外なバッター”とは?《世界のオオタニの知られざる秘話》

2025年4月21日(月)12時10分 文春オンライン

〈 「ふざけんな」「だからバカ野郎なんだよ」栗山英樹大谷翔平に激怒→大騒動に…“世界のオオタニ”が監督から厳しく𠮟責された“本当の理由” 〉から続く


 今や世界的なスター選手となった、ドジャースの大谷翔平。そんな大谷と一対一で向き合い、取材を続けているのが、ベースボールジャーナリストの石田雄太氏だ。大谷は石田氏の取材に対して、どんな言葉を紡ぎ、どんな思いを語っているのか。


 ここでは、石田氏の著書 『大谷翔平 野球翔年 I 日本編2013‐2018』 (文春文庫)より一部を抜粋して紹介。少年時代の大谷翔平がバッティングのマネをしていた、意外な選手とは?(全2回の2回目/ 初めから読む )



大谷翔平選手 ©文藝春秋


◆◆◆


最後のチャンスで「全国」という大海へ泳ぎ出た、中学生の大谷


 低学年のバンディッツから、高学年のパイレーツに入って、さっそく試合に出た。6年生のときには、岩手県で大谷のボールを打てるリトルの選手はいなかったのだという。


 バッターとしてもホームランを量産。県大会のホームランダービーでは、各チームで4番を打つ中学1年の選手たちが力んで、15スイング中3本が最高だという中、6年生で11本のホームランを打ってみせた。試合でも、大谷が打席に入ると外野手だけでなく、内野手も下がって守った。大谷の打球が強すぎて、危険だったからだ。


 水沢リトルは、大谷が5年生のときに東北大会へ初出場。準決勝まで進んだものの、あと一歩で2チームに与えられる全国大会への切符を逃した。そして、6年生のときにはベスト4で敗れてしまう。リトルリーグの試合に出られるのは12歳までなのだが、大谷は中学1年まで試合に出ることができた。


 その最後のチャンスで、水沢リトルはついに東北大会を勝ち上がり、全国大会への出場権を勝ち取る。大谷は水沢から岩手へ、岩手から東北へ、そして全国という大海へ、初めて泳ぎ出たのである。


「やっぱり僕はたいしたことないんじゃないかなと」


「全国へ出るという目標をもって練習してきて、それを達成したときは今までで一番と言っていいくらい嬉しかった。5年生、6年生のときにはすごく悔しい思いをして、そういう悔しい経験がないと嬉しい思いもできないんだということを知ることができました。


 ただ、全国大会には出ましたけど、千葉のチームに1回戦で負けましたし、相手のピッチャーが僕よりもいい球を投げていて、相手の4番バッターが僕よりもいい打球を打っていた。その1回戦で負けた相手が次の試合であっさり負けて……そういう現実を見せつけられたら、やっぱり僕はたいしたことないんじゃないかなと思いました。


 僕はしょせん、狭い範囲で野球やっているんだな、岩手では大谷、大谷と言われても、そんなの、それこそ小さな枠組みの中の話で、全国にはもっともっと上がいるんだなと思い知らされました」


少年時代の大谷翔平がマネしていた意外な選手とは?


 大谷が小学5年生だった2005年、プロ野球の世界では、千葉ロッテマリーンズが日本シリーズを制した。そして6年生になる2006年の春には第1回のWBCが行なわれ、イチローがチームを引っ張って日本代表は世界一に輝いた。大谷が中学1年で全国の舞台に立った2007年には、松坂大輔がレッドソックスへ入団し、日本中を大騒動に巻き込んだ。


「イチローさんも松井(秀喜)さんもそうでしたけど、子どもの目には、国内のスーパースター、トップの人たちが大リーグへ行くという流れが映っていましたし、大リーグのほうが大きく見えましたね。


 でも、自分がそこを意識したのは、実際に大リーグの球団から欲しいと言ってもらえてからの話で、あの頃は、マリーンズの今江(年晶)さんのマネをしてました。打つほうでは今江さんのタイミングの取り方にハマってたんです(笑)。


 ピッチャーのほうは、松坂さんのワインドアップでした。ホークスの斉藤和巳さんやファイターズのダルビッシュ有さんのマネもしましたね。パソコンが家に来てからは、それこそずっとYouTubeを見てましたし、いろんな人の投げ方を見ながら、ああでもない、こうでもないと考えてました。で、何かが閃いたら障子をあけて、窓に映る自分を見ながら、フォームをチェックするんです」


 トップレベルの日本人選手がメジャーへ行き、WBCで日本代表が世界一になり、インターネットを通じて世界中の野球を覗くこともできる——大谷はそんな環境で育ってきた。高校時代に160kmを投げ、いったんは高校からのメジャー行きを公言して世の中を驚かせ、プロでは“二刀流”に挑んでその名を全国へ轟かせた。


「僕は“羽生結弦世代”」


 プロ2年目にはベーブ・ルース以来、96年ぶりという“同一シーズンの2桁勝利と2桁ホームラン”を達成し、2015年は“投手三冠”に輝くなど、今や1994年生まれを代表する存在となっている。


「いやいや、だから僕は“羽生世代”ですって。これは真面目な話です。だって、国内だけですから……北海道だけですよ。明らかにそうじゃないですか。ねぇ、僕は羽生世代ですよね。


 羽生君は、確実に自分の世界を持ってます。受け答えを聞いていても、自分の価値観みたいなものを持ってるでしょ。僕にはそういうところがないんで……羽生君は自分のことを言えるけど、僕は恥ずかしくて、とてもそういうことは言えません」


 でも、いずれは大谷世代になるのでは——。


「それは、僕が決めることじゃないから(笑)。そんなの、羽生君が『自分は羽生世代だ』って言っているようなもんじゃないですか。そういうことを羽生君は絶対に言いませんし……だから僕は、『羽生世代だ』って言うんです」


 野球を始めてからずっと、大谷翔平は“今日、できることをした”という小さな自信を積み重ねて、ここまできた。その自信が岩手から東北、東北から日本への道を作り、今、彼を世界への扉の前に立たせている。


 いずれ大谷がメジャーの舞台でトップに上り詰める日が来ても、彼は「僕は羽生世代です」と繰り返すだろう。しかしそのときにはきっと、羽生結弦がこう言ってくれるに違いない。「僕は大谷世代です」と——。


(石田 雄太/文春文庫)

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