紅白落選、全米デビューに「幼い娘を置いて」と批判も…「つらい。帰りたい」当時26歳の松田聖子を襲った“試練の数々”
2025年4月22日(火)12時10分 文春オンライン
〈 「歌手をやめたい」23歳で結婚→休業へ…ステージ復帰を決めた松田聖子が当時の夫についた「ひどい嘘」とは? 〉から続く
4月1日にデビュー45周年を迎えた松田聖子(63)。日本で数々のヒット曲を生み出し、トップアイドルに上り詰めた彼女は、1988年10月、26歳の頃に全米進出に挑む。しかし、そこでは数々の試練が待ち受けていた。後年にはこの頃がデビュー以来初めての「挫折」だったと振り返っている。その背景とは……。(全3回の2回目/ はじめ から読む)

◆◆◆
メイクも髪型も派手でセクシーにしてアメリカへ進出
松田聖子は1985年のアルバム『sound of my heart』で初めてアメリカでのレコーディングを経験した。同作は海外進出を見据え、全曲を英語で歌い、また先行シングル「DANCING SHOES」のプロモーションビデオも制作された。しかし、このときは十分なプロモーション体制が組めず、全米デビューはかなわなかったという(若松宗雄『松田聖子の誕生』新潮新書、2022年)。それが1988年、ソニーがアメリカのCBSレコードを買収し、日本人アーティストをアメリカ進出させることになり、そのトップバッターとして聖子に白羽の矢が立った。
1988年10月に渡米した彼女は、ニューヨークに居を構え、まずはアメリカの文化・習慣を吸収するため現地で生活するというCBS側からの条件に従い、12月半ばまですごす。その後も、日本で用事があるたび帰国しつつも基本的に拠点はNYで、ロサンゼルスやマイアミに出かけてはレコーディングを行った。日本でのレコーディングとは違い、向こうは納得がゆくものができるまでひたすらに待つという姿勢のため、全米デビューアルバム『Seiko』がリリースされたのは1990年6月と、NYに移住してからじつに2年近くかかった。
拠点をNYに移したのは、アメリカで売り出すなら、こちらの文化・習慣を身につけてもらわないとセールス的に難しいというCBS側の意向からだったらしい。言葉も渡米する前から、きちんとした英語が話せるようになりたいとの彼女の意志で、文法から徹底して学んだ。
メイクや髪型も、ナチュラルメイクで清楚な感じでは「トゥー・ジャパニーズ(日本人的すぎる)」と指摘され、日本人の感覚からすると派手でセクシーなものが求められた。日本のポップカルチャーがアメリカでもそれなりに受け入れられた現在なら、もう少し違った展開もありえたのだろうが、当時は全米デビューするにはあちらの文化に何もかも合わせないと難しかったようだ。
紅白落選、スキャンダラスな報道…数々の試練が襲う
この間、1989年には、日本では昭和から平成へと元号が変わり、のちにバブルと呼ばれる大型景気が絶頂に達するなか、世界では東西冷戦が終結した。この年は聖子にとっても大きな転機となり、夏にはデビュー以来所属した芸能事務所サンミュージックから独立し、個人事務所ファンティックを設立している。他方で、8年にわたったヒットチャートでの連続1位の記録は11月リリースの25thシングル「Precious Heart」でストップし、彼女は大きなショックを受けた。紅白にもこの年初めて落選している。
試練はそれにとどまらず、アメリカでの彼女の動向が日本にはうまく伝わらなかったこともあり、夫婦関係や幼い娘を置いてきたことがとかく憂慮されたり、向こうでの男性との交遊が取り沙汰されたりと、マスコミからの風当たりは強くなるばかりであった。スキャンダラスな報道とバッシングはその後も彼女につきまとうことになる。
こうした日本国内の反応に対し、彼女は当時、女性誌のインタビューで《日本という国はとっても難しい国で、私がこうやってアメリカからレコードを出そうということも素直に受け入れてもらえてないなという気がするんです。でも、何かの間違いで大成功しちゃったら(笑)、「やっぱりスゴいことやった」ってすべてが許されるのかもしれない。ただ、それまでの過程に対しては応援どころか、とても厳しいですよね》と心情を吐露していた(『COSMOPOLITAN』1989年11月号)。
もっとも、後年になってこのときの自身の態度を、《やっぱり、何もいわずに地味にやって、成功したときに初めて「ホラね、できたでしょ」ってみんなにいえばよかったのよね。(中略)そういう意味では、私にとって、いい教訓にはなってますけどね》と省みている(『JUNON』1995年7月号)。しかし、このときのアメリカ進出は鳴り物入りとなり、どうしても注目されざるをえなかった。
肝心のアルバム『Seiko』のセールスは、ビルボードの全米ヒットチャートで最高54位にまで入り、大成功とまでは行かないまでも失敗ではけっしてなかった。この結果について当の聖子は、《そこまでいったことは確かにすごいことだし、だけど、40位に入りたかったなという思いもあるし。でも、私と同じように新人のアーチストで、アメリカ人がいっぱいいて、(中略)その中で日本人である私が同じ土壌で戦って、そこまでいけたということは、それはすごいことだと思う。そういう点ではうれしいんです》と、喜びも半ばといった感じであった(『PLAYBOY』1990年12月号)。
娘の沙也加ぐらいの年の子がいると、寂しさを覚えた
このときの経験について、その後も彼女の発言は揺れ動く。帰国直後のインタビューでは、NYでの生活について《いままで見えなかったものが、すごく、こう、パーッと開けたような思いがしたんです。自分のキャリアという面でもそうですけど、人生? 女として? そういうことを考える時間も持てた。普通の人として生きられたし、普通の生活もできましたから、すごーくよかった。何をしたいかということが、はっきり見えてきた》と、芸能界に入ってからというもの日本ではもうできなくなっていた普通の生活ができたとポジティブに捉えてみせた(『朝日ジャーナル』1991年1月4・11日号)。
東京とは違ってNYでは気楽に外出できるとあって、レコーディングの待ち時間のあいだなどよくあちこちを歩いた。だが、街に娘の沙也加ぐらいの年の子がいると、そちらにばかり目が行ってしまい、寂しさを覚えたという。そういうこともあって、アメリカ滞在中は常に孤独感を抱えていたのもまた事実だった。
デビュー以来初めての「挫折」
全米デビューまでの段取りも、けっして彼女の意向に沿うものではなかった。だからこそ、思ったような結果を残せなかったことに内心忸怩たるものがあったのだろう。のちには、次の発言にあるとおり、デビュー以来初めての「挫折」だったとも断言している。
〈《日本にいたときは、つらいと感じたり、自分を振り返る時間もなかったから、初めての挫折でした。つらい、帰りたいと思いました。(中略)行ったからにはやらなきゃという気持ちもあるんだけれど何をしたいのかまるでわからないんですよ。プロデューサーも曲もすべて決められていて、ただ言われるままにこなしていくだけの状態。それが本当に私にふさわしいのか、私のやりたいことなのかを考える暇もなく物事が進んでいく中で、『SEIKO』という全米デビューアルバムはできました》(『COSMOPOLITAN』2002年2月号)〉
そもそもこのときの全米進出は、企業の政治的な思惑から始まったものだった。そんな形でデビューしても成功しない、《向こうのスタッフが“このアーティストを手がけたい”って思ってくれない限り、結局は何も起こらない》と聖子は身をもって思い知ることになる。そして《今度もしアメリカでやるのなら、自分でデモテープ作って、レコード会社に“聴いてください”って持っていって、それで気に入ってくれて“このアーティストと契約したい”と思ってもらわないとダメだなって感じた》という(以上、引用は『JUNON』1996年7月号)。こうして彼女はアメリカへの再挑戦を期すと、1994年頃からプロデューサーのロビー・ネヴィルと組んでデモテープを作り始めた。それをレコード会社に持ち込むうち、A&Mレコードが挙手してくれたのだった。
聖子の原点は、福岡在住の高校生だった1978年、CBS・ソニーと集英社の女性誌『セブンティーン』が主催する「ミスセブンティーン・コンテスト」に、桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌ったデモテープを応募したことにさかのぼる。これで書類審査を通り、出場した九州大会で優勝したものの、父親の猛反対で本選を辞退していた。しかし、九州大会での歌唱を録ったテープを、CBS・ソニーのプロデューサーだった若松宗雄が聴いて才能を見出したことから、一転して歌手への道が拓かれたのだった。こうしたデビューまでの経緯を思えば、聖子が再度の全米進出を目指しデモテープづくりから始めたのは、原点回帰だったともいえる。
このときネヴィルと制作したアルバム『Was It The Future』(1996年)は、クラブシーンで好成績を収めたものの、彼女はのちに《当時のアメリカのミュージックシーンを意識しすぎて、セクシーさが強調された「松田聖子」らしからぬ作品になってしまった……》と省みている(『COSMOPOLITAN』2002年2月号)。
「もっと私らしい音楽をやるべきじゃないか」
それまでアメリカに受け入れてもらうため、必死になってアメリカ人のようになろうとしていたが、そんなことは土台無理だと、2度目の全米進出で気づいたという。そこで《今はアメリカの音楽をマネするんじゃなく、もっと日本人にしかできない音楽、私らしい音楽をやるべきじゃないか、という気がしています》と考えを改めた(『COSMOPOLITAN』1998年6月号)。その上で、2000年代以降も海外に向けて作品をつくり続けている。
2020年代に入って、1970年代後半から80年代にかけての日本の都会的なポップスが「シティ・ポップ」と呼ばれ、海外でも人気を集めている。そこには同時期に聖子に多くの楽曲を提供した松本隆や松任谷由実、大滝詠一らの手がけた曲も含まれる。そう考えると、新たな形で彼女が世界的アーティストとしてリスペクトされる日も近いのではないだろうか。
〈 娘の芸能界入りを反対していた理由とは…「彼女は本当にすごいんです」松田聖子(63)が語っていた親子の“大きな違い” 〉へ続く
(近藤 正高)