32歳で美術家と結婚、アフガニスタンに長期滞在も…「仕事だけにはなりたくない」鶴田真由55歳が“旅”を続ける深いワケ

2025年4月25日(金)7時10分 文春オンライン

 昨年末に急逝した俳優・中山美穂のお別れの会が、今週火曜(2025年4月22日)に都内で行われた。会には俳優の鶴田真由も参列している。鶴田は中山と、いまから33年前の1992年にドラマ『誰かが彼女を愛してる』(フジテレビ系)で共演していた。参列に際して応じた報道陣の囲み取材では、中山との共演時の思い出として、《すごく物静かだけど内に強いものを秘めた神秘的な魅力のある女優さんだなと思って。私はまだそんなに自分から声をかけられるような立場ではなかったんですけど、すごく憧れの思いを持って見ていたのを思い出します》と語った(「スポーツ報知」ウェブサイト2025年4月22日配信)。


1988年、高校3年生で俳優デビュー


 鶴田はきょう4月25日に55歳の誕生日を迎えたが、中山は彼女より学年は一つ上とはいえ、生まれたのは3月1日と、1ヵ月あまりしか違わない。ただ、鶴田が高校3年生だった1988年に俳優としてデビューしたときには、中山はすでにトップアイドルだった。ドラマで共演したのは、鶴田が大学卒業を控えてようやく俳優としてやっていこうと決意した時期であった。それだけに、共演しても中山を仰ぎ見るような気持ちでいたのだろう。



鶴田真由〔2016年撮影〕 ©文藝春秋


 鶴田のデビュー作は、当時人気を集めていた男性アイドルグループ・光GENJI主演のドラマ『あぶない少年Ⅱ』(テレビ東京系)だった。《初めに真由がテレビに出たときは大騒ぎで。ほら、光GENJIのドラマとか出てたじゃない? 次の日みんなで「ねえ見た、見た?」なんて言って》とは、彼女の高校・大学の同級生で、後年、雑誌の対談で再会した雨宮塔子(当時TBSアナウンサー、現フリー)の証言だ(『FLASH』1995年2月7日号)。


 なお、鶴田は中学から大学まで成城学園で、鎌倉の自宅から都内にある学校まで電車で2時間近くかけて通った。門限は夜11時と決められていたものの、自由な校風のなかで伸び伸びとすごしていたようである。


 そもそも鶴田が芸能活動を始めた発端は、高校2年のとき、広告代理店に入ったいとこから、CMのエキストラが足りないので友達を連れて来てほしいと頼まれ、撮影に参加したことだった。この現場でいとこの上司が彼女に目を留め、ちょうど芸能事務所を開くためタレントを探していた知人に引き合わせた。ここから事務所立ち上げと同時に所属タレント1号となり、デビューしたものの、当初はバイト感覚だったようだ。


引退するか悩んでいたが…大沢たかおの助言で決意


 大学に入ってからもあくまで学業優先で芸能活動を続け、3年になって同級生たちが就職活動を始めると、自分も引退して就職しようかどうか悩んだらしい。そんな時期、オーディションに立て続けに落ちたあとで、日本石油(現ENEOS)のガソリンのCMが決まった。本人も久々につかんだ仕事とあって、気持ちを入れてやったという。


 その撮影中、スタッフや共演者と色々と話し合った。そこで「この仕事、好きなんでしょ。続けたいんでしょ。もし、真剣にそう思ってるなら、やめるなんて考えちゃだめだな」とアドバイスを受け、大学卒業後も俳優を続ける決心がついたという(『アサヒグラフ』1992年10月30日号)。ちなみにこのとき助言してくれたのはCMで共演した大沢たかおだと、鶴田はのちに明かしている(「SWITCH ONLINE」2018年8月31日配信/『ザ・共通テン!』フジテレビ、2025年4月18日放送分)。当の大沢はこのころはモデルで、鶴田には「自分は俳優はやらない」と言っていたようだが、のちにやはり俳優の道に進んだ。


トレンディドラマでブレイク…「3日以上の休みはいらない」


 CM自体も評判を呼び、鶴田はCMからトレンディドラマに出演という当時の若手俳優がブレイクするパターンに乗る。当時、事務所には「3日以上の休みはいらない」と言っていたほど、仕事が楽しくてしょうがなかったという。1994年にはフジテレビの月9ドラマ『妹よ』に出演し、さらに翌1995年、同じくフジの『正義は勝つ』でヒロインの新米弁護士役に起用された。


 トレンディドラマのヒロインになることは、俳優に針路を定めて以来の目標であった。しかし、それがわずか2〜3年で実現してしまった途端、鶴田は違和感を抱く。これについて本人は、《そのとき、実は自分が目指していた“目標”の中身が、全くのからっぽだったことに気づいたんです。女優としてどう演じて、何を表現したいのかという考えが当時の私には全くなかった。単純に“トレンディドラマ”というきらびやかな枠や形を追い求めてたんだ、って》とのちに顧みている(『日経WOMAN』2006年4月号)。


各地を旅するようになった理由


 ちょうど仕事を通じてスタッフやクリエイターと知り合う機会が増えた時期でもあった。そこで会った人から、突破口を見つけるべく話を聞いたりもした。なかでもスタイリストの北村道子からは大きな影響を受けたという。当時、北村はインドに毎年行っており、鶴田は自分もいま行けば色々と吸収できると思ったので「今度行くときに連れて行ってほしい」と頼み込んだ。しかし返ってきたのは「今だと思うなら、わたしを待たずに、今行きなさい!」との言葉だった。「それにインドじゃなくたっていいじゃない」とも言われた(「SWITCH ONLINE」前掲)。


 この言葉に押されて、彼女は生まれて初めて一人旅に出た。行き先には屋久島を選び、泊まった民宿で夕食の準備を手伝ったり、同宿の人たちと島を回ったりと、一人で行ったからこその経験がたくさんあったらしい。屋久島でものづくりの原点は自然のなかにあると気づくと、原点を見たからにはそこから生まれた表現を見たいと思い、さらにニューヨークへ飛んだ。そこでアートや演劇を観て回る日々をしばらく送ったという(『週刊現代』2018年6月9日号)。行きたかったインドにはその数年後、30歳のころにドキュメンタリー番組の取材で初めて訪れた。


アフガニスタンに2ヶ月滞在、直後に同時多発テロが発生


 その後も国内外を問わずあちこち旅して回っている。31歳となった2001年には、ニューヨークにしばらく滞在したあと、やはりテレビのドキュメンタリーの撮影のためアフガニスタンを6月から2ヵ月にわたって旅した。アメリカでニューヨークの世界貿易センタービルなどが攻撃された同時多発テロが発生したのは、この旅から帰国した直後だった。事件を受けてアメリカ政府は、テロ組織を支援するタリバンの支配下にあったアフガニスタンを報復攻撃する。彼女にはニュースで見るいずれの国の光景も実際に見たばかりで、強烈なリアル感を受けると同時に、無事に帰って来られたことを不思議に思わずにはいられなかったという(『InterCommunication』No.41、2002年)。


人生を充実させなければ充実した演技はできない


 旅や人と会うことは彼女にとって仕事と同じくらい大切なもので、以下の発言からすると、言わば車の両輪のようなものらしい。



〈《女優というのは自分を出す作業だと思うんですね。いわばアウトプット。同じ役でも人によって演じ方や印象が異なるというのは、演じ手の人生が演技の向こう側に透けて見えるからでしょう。ということは、人生を充実させなければ充実した演技はできないわけで、その意味でも仕事だけにはなりたくない。いろんな人と出会って、いろんなところにも出かけていきたい。そういうインプットの作業をしていかないと、女優として出すものがなくなってしまうと思うんですよ》(『婦人公論』2003年8月22日号)〉



 30歳前後のこのころは、アウトプットも充実していった時期だ。時代劇映画『梟の城』(1999年)では監督の篠田正浩、初舞台となった『真情あふるる軽薄さ2001』(2001年)では演出家の蜷川幸雄と、それぞれの分野の巨匠とも仕事をした。


32歳のときに美術家と結婚


 2002年には蜷川に師事した井上尊晶の演出で、劇作家・野田秀樹の未発表戯曲を初演した一人芝居『障子の国のティンカー・ベル』で2度目の舞台を踏む。井上も演出はこれが2作目で、このほかスタッフにもこれまでの演劇の流れとはちょっと違う新進気鋭のクリエイターが集められた。このとき、舞台美術を手がけたのが、当時ニューヨークを拠点に活動していた美術家の中山ダイスケである。鶴田は中山とこの公演の直後、同年12月に結婚した。結婚式はごく内輪だけで済ませるという慎ましやかなものだったとか。


 鶴田は父親が美術関係の仕事をしていたこともあって、幼いころから展覧会に連れて行ってもらうなど美術に親しみ、大学でも西洋美術史を専攻した。卒論は、画家ゴッホの晩年の作品と精神状態の関係をテーマに提出している。それだけに、美術家と結婚したのは自然な流れと思わせる。ただ、夫とは何かにつけて着眼点が違うようだ。


 鶴田は卒論のテーマからもうかがえるように、昔から人間の弱さや不安定さに興味を抱いていた。そのため、映画を観ていても、どうしても登場人物の心の動きを追ってしまい、細かいところまでは見ていないらしい。本人いわく《だから夫と映画を観ていると、夫が『ああ、あそこで置いたコーヒーカップがここでつながるのか!』なんて言ってても、私は『コーヒーカップなんて置いてあった?』ってピンときていなかったりして(笑)。『なんでそこを見てないの?』って夫に巻き戻されたりする》というようなことがよくあるとか(「ESSEonline」2024年12月21日配信)。そう語りつつも、夫婦でそれぞれ注目するところが違うことを楽しんでいるようだ。


 夫の中山は、2007年に東北芸術工科大学の教授となり、2018年からは学長も務める。教え子である画家の近藤亜樹が制作した短編映画『HIKARI』(2015年)では、作品の一部を成す油絵によるコマ撮りアニメーションで鶴田が声優の一人として参加した。


女優をやっているかどうかは「わかんないですね」


 鶴田は25年ほど前の対談で、20年後、30年後も女優をやっていると思うかと訊かれ、《わかんないですね。やってるかもしれないし、やってないかもしれない。ほかにもっと違う表現方法が見つかったとすれば、そちらに進むかもしれません》と答えていた(『週刊朝日』1999年11月5日号)。


 結果からいえば、鶴田はいまなお俳優を続けながらも、ほかのジャンルの人たちと積極的に交流して、さまざまな表現を模索している。とりわけ写真は、旅に出るたびに撮っているうち、どんどんのめり込み、プロの写真家などと組んで展覧会や写真集を手がけるようになった。10年ほど前からは花の写真を撮り始めた。昨年(2024年)と今年には、自身の手になる蓮の花の写真と詩を、調香師の沙里が手がけた香りを組み合わせて展示するという試みも行っている。


 俳優としては、40代以降も話題作に出演を続ける。ドラマ『マルモのおきて』(2011年、フジテレビ系)では、芦田愛菜・鈴木福演じる幼い双子と生き別れた母親を演じたのが印象深い。一昨年(2023年)のNHKの連続テレビ小説『らんまん』では印刷所の経営者夫婦を奥田瑛二とともに演じている。鶴田は若手時代、朝ドラヒロインのオーディションを何度も受けてきただけに、このときの出演には感慨深いものがあったようだ。


 昨年にはWOWOWのドラマ『誰かがこの町で』で法律事務所を経営する弁護士を演じた。あるニュータウンで20年ほど前に起こった複数の事件を背景に、物語が進むにつれ、自身のある過去と向き合う決心をするという重い役どころであった。今月21日にスタートした出演ドラマ『あなたを奪ったその日から』(関西テレビ制作・フジテレビ系)も、北川景子演じる主人公が幼い娘を事故で亡くし、その事故を起こした会社の社長に復讐すべく相手の娘を誘拐するというシリアスなもので、鶴田は大森南朋演じる社長の元妻を演じる。初回では登場はなかったが、どのような演技を見せるのだろうか。


「軽やかに時代の波に乗っていきたい」


 鶴田はつい最近のインタビューで「未来像は描かない」と断言し、《この激動の時代、10年後に社会やエンターテインメント業界がどう変わっているのかわからない中で、将来を想像しようがないと思うんです。だからこそ、こうあるべきというこだわりは捨てて、軽やかに時代の波に乗っていきたい》と語っている(「週刊女性PRIME」2024年12月15日配信)。


 彼女のなかには“いま”しかないということなのだろう。だからといって刹那的になるのではなく、そのときどきで興味を持った人と会ったり、場所に出かけたりして新たなものを取り込み、前向きな姿勢を崩さない。最近の彼女の演技を観ていると、セリフ以外の端々からもそれぞれの役が背負ったものを感じさせられることが増えた。それもかつて語ったとおり、絶えずインプットを続け、人生を充実させているからに違いない。


(近藤 正高)

文春オンライン

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