「自分以外の何かが自分の意志を超えて画面に取り込まれているのですから…」蓮實重彦氏が考える“映画が豊かである”方法
2025年5月24日(土)7時0分 文春オンライン
〈 「1970年代の終わりから80年代の初めにかけての立教大学における映画活動は、映画史的な事件だといえるかも知れません」【蓮實重彦氏インタビュー】 〉から続く
いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちに8ミリ映画など自主映画時代について聞く好評シリーズ。特別編・蓮實重彦氏インタビューの最終回は、「撮影の映画」「演出の映画」をめぐる対話が、映画の本質に迫っていく。(全4回の4回目/ 最初 から読む)
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〈撮影の映画〉と〈演出の映画〉、監督はどこまで映画をコントロールすべきか
——先生は「映画には〈撮影の映画〉と〈演出の映画〉の2種類がある」と言われています。自主映画は監督が自分で全部やらなくてはいけないので、自主映画出身の監督は〈演出の映画〉を志すことが多い気がします。〈撮影の映画〉というのは、具体的に言うとどんなことですか?
蓮實 これは、『ショットとは何か』(講談社 2022)という最近の書物でも述べたことですが、「演出」とは、誰もが抱えているはずの意識だの、心理だの、内面だのをどのように見せるかが問われる技法であり、これは映画に限られたものではありません。演劇においても、オペラにおいても「演出」は存在しています。ところが「撮影」とは、映画だけに特有な技法です。とにかく撮ることが最初にあります。ところで、「撮る」とは時間的な体験です。撮るに従って、撮っている主体も、撮られている客体も変化する。その変化を取り込むことで撮っている主体も変化するという点が、わたくしのいう「撮影」の映画の魅力なのです。わたくしが「演出」の映画より「撮影」の映画のほうを高く評価している理由は、まさに変化しつつある現実を撮っちゃったという、自分自身に対する驚きがあるというようなことです。それに対して、「演出」の映画というものは、それがうまくいった場合には映画として面白いものが撮れるけれども、それよりは撮影、撮ることに徹した映画というのをわたくしは求めたいと思っているのです。もちろんそこに素晴らしい演出があるから撮影が生きるということはありますけど、ね。
——先生はアニメと映画は別のものだとも言われていますが、〈撮影の映画〉というのは演出の意図を越えて撮った時の状況、空気感が映り込んでいるという意味で、アニメにはない、ドキュメンタリー的な面白さがあるということですか?
蓮實 そういうことです。
——すごく分かります。僕はアニメと両方やっているんですけど、アニメの監督がよく実写を撮りたがるのはそういうことだなと思っているんです。全部コントロールできるし、しなきゃいけないアニメに対して、実写の撮影というのはその瞬間に奇跡のように起こったことがカメラに記録されていることだと思うので。それを求めてアニメの監督も、全部コントロールするのに疲れて実写を撮るのかなと。
蓮實 そうでしょうね。
——特にCGはカメラも照明も監督が指示すればいくらでも変更できるので、恐ろしいんですよ。
蓮實 本当に恐ろしいでしょうね。どこまでやるかということの判断が監督に全部任されるということですから。

——そうです。実写の場合はカメラマンが女房役でいて、その人に任せて現場で画が決まりますが、CGの場合は最後までいじれちゃうから、「本当にそれでいいの?」と問われ続けるんですよね。
蓮實 なるほど。監督があきらめたからそれが最後になったのか、それとも監督がOKと判断したからそれが最後になったかということが分からないわけですね。
——そうですね。ベストってどこで言えるんだろうという。
蓮實 でも、それはきりがないですね。
——きりがないですね。そういう意味で、映画とは別物とおっしゃるのもすごくよく分かるんです。タイプが違うものですよね。
蓮實 そう。コントロールしようと思えばどこまでもコントロールできる。でも、コントロールできるにしてはコントロールしてないところまで見えたりするので、アニメというのはどうも苦手なんです。
自分の意志を超えて画面に取り込まれているもの
——実写の場合、スタッフやキャストや天気やすべての環境の集大成なので、やっぱり映画と呼べるのは実写だという意見はすごくよく分かります。
蓮實 つまり、映画が1895年に「シネマトグラフ」として始まった時に、シネマトグラフというものが撮った後どうなるか分からないけれど撮っちゃったわけでしょう。そして、撮っちゃったことによる事件性というのがいろんなところにはじけているわけです。『列車の到着』(注1)にしても何にしても、要するに、監督が絶対にすべてをコントロールできないのが映画だと。しかし、肝心なところをコントロールしない場合は、それは監督ですらないということになるのですから、矛盾しているわけです。その矛盾をどう生きるかというのが映画であるような気がしているんですけどね。
——『列車の到着』は狙いがあって撮ってはいるんだけれども、実際にどうなるかやってみないと分からないし、だからこそその動きを見ていて面白いということですね。
蓮實 そう。だから、何度見てもドキドキする。
——それが映画の原点だし、本質だったということですか。
蓮實 そういうことです。
——監督がどこまでコントロールするべきかということで言うと、僕は自主映画の時はカメラも自分が回すし役者も素人だから、全部監督が仕切るものだと思っていたし、自分のイメージ通りになるまで何度も撮り直すことが大切でした。ところが初めて商業映画を撮った時、時間の制約もあるし、撮り切ることが最優先で妥協してOKしないといけないのかと落ち込みました。でも、それはプラン通りに撮ることに拘っていたからだと後から気づいたんです。商業映画ではプロのスタッフやキャストがいるのだから、監督はもっと頼るべきなんですね。
蓮實 でも、8ミリを撮っていらしたとき、これを全部自分が支配しているつもりだというふうに撮ってはいるけれども、例えば被写体となっている人にもそれなりの意志や配慮があるわけじゃないですか。そういうところにはある種の妥協が生まれがちなのですが、その妥協がないと、映画の真の面白さって出てこないような気がする。どこかで何か妥協した時に、それは妥協ではなくて真の決断だったかもしれないとか、そういうものがあるような気がしている。ですから、「妥協」というものに対する姿勢を映画が変えてくれたというような気がしております。
——妥協ではなく、その状況の中で現場が生んだ最高のショットでいいんですね。
蓮實 そういうことだと思います。そうした事態を全部自分が仕切れるなどと思っちゃったら、ほんとつまらないと思う。映画が貧困化してしまいます。映画が豊かであるためには、自分以外の何かが自分の意志を超えて画面に取り込まれているのですから、ひとりひとりの映画作家が、そのことを未知の現実として驚くということがあって当然だと思っています。
注釈
1)『列車の到着』 1895年にリュミエール兄弟によって作られた史上初の映画。正確には、『ラ・シオタ駅への列車の到着』。
(小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)
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