作詞家・麻生圭子「進行性の感音難聴でほとんど聴力を失って。京都からロンドン、琵琶湖畔に移り住み8年。森林の匂い、気配、色彩、湿度を感じる生活」

2024年5月23日(木)12時30分 婦人公論.jp


カヤックの後、夫婦で湖を眺めてのんびり(写真提供:石川奈津子さん)

1980年代、「セシル」「You Gotta Chance」「最後の言い訳」など数多くのヒット曲の作詞家として活躍してきた麻生圭子さん。聴力の衰える病気が深刻化したため、エッセイストに転向。その後、結婚し、京都、ロンドンを経て、琵琶湖畔に移り住み、夫婦でセルフリノベーションした水辺の家での生活を楽しんでいるようです

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桜は水辺が似合います。少しまだ水は冷たいのですが、この季節になると、湖にカヤックで漕ぎ出す私。実は8年前から琵琶湖畔に住んでいるのです。

琵琶湖の北には有名な桜の名所があります。湖岸の崖沿いに4kmの桜並木が続いていて、沿道はこの季節になると桜渋滞が。でも地元の人たちは渋滞とは無縁。湖上の舟から眺めるのです。湖に張り出した桜の下で舟を止めれば、空から花びらが降ってくる。湖面には無数の花いかだ。桜色の天空、天の川です。

私もそっち側に行きたい。

そんな理由からカヤックを始めました。

まずはスクールで基礎的なことを教えてもらい、マイカヤックを購入。インドア派だった私が、ライフジャケットを着て、パドルを漕ぐのです。60の手習いも悪くない。鍼灸より肩凝りに効くのもうれしい誤算でした。

パドルを置き、じっと浮かんでいると、湖と一体化してくるせいか、水鳥も魚も逃げなくなるんです。360度のパノラマに心の凝りもほぐれ、しあわせかもと思えてくる。

水は辛いことを流し、美しいものを浮かび上がらせてくれるような気がします。

夜明けに向かってカヤックを漕ぎ出し、空が白んだところで、湖岸を振り返ると、桜が浮かび上がっている。霧のような桜。それは幻想的な美しさでした。


湖畔で風を感じながら一息入れる時間も大切(写真提供:石川奈津子さん)

私が住む湖西(琵琶湖の西)は、平地が少なく、背後はすぐに比良の山々(南は比叡山に続く)が迫っています。

森に入りたくて、登山靴を買って、トレッキングも始めました。もちろん初めてです。登山が得意な夫が付き添ってくれます。夫は樹木に詳しいので。名前や特徴を教えてくれます。手でふれると、樹木によって温度が違うんですよね。石もそうです。岩を伝いながら、滝を見に行ったこともあります。滝壺に足をつけて、これが本当の森林浴。そうそう、鹿の、コロコロした糞も素手で触れるようになりました。

私は、進行性の感音難聴で、琵琶湖畔に移り住んだときは、ほとんど聴力を失っていました。その代わりに、嗅覚、視覚、触覚は、若いころより敏感になったように思います。森林の匂い、気配、色彩、湿度。

失ったものを脳は補おうとする。

なくすことで増えるものがある。

音楽を聴くことはできなくなったけれど、それらに代わるものを、私は手にしたのです。


ロフトにある書斎には穏やかな光が降りそそぐ(写真提供:麻生圭子さん)

グレイヘアのショートに、ジーンズにワークブーツが日々のファッション。京都時代の私を知る人はびっくりするでしょうね。古い町家に住んで、着物を着て、お茶の稽古に通ったり、京の伝統を訪ねたりする日々だったのですから。18年間京都に住んで、日本のよきもの、歴史や文化を学ぶことができました。何冊か本も書かせてもらいました。

でも、そろそろ次に進みたい、京都を整理したい、そう思っていたときに、夫がロンドンで仕事をすることになりました。人生をリノベーションできる。

渡英を前に、ほとんどの家財道具を処分。小さなものはフリーマーケット、大きなものは友達の骨董屋さんに頼んで、オークションで売却してもらいました。

私、けっこう潔いんです。失っても、記憶は残る。それでいいじゃない、と思うんです。父が転勤族で、引っ越しが多かったからかもしれません。荷物を処分するの、子どものころから得意なんです。おとなになってからのルールは、3年間、一度も必要がなくて、美しいと思えないものは、高価なものでも処分する。勿体ないとは思いません。誰かに有効に使ってもらったほうがモノも喜ぶ。使ってこそのモノの価値。

それに荷物が減ると、私の場合は心が軽くなる、解放されるんです。そしてモノが少ないほうが、インテリアはセンスよく見える。心のセンサーも鋭くなる。

渡英は58歳のときでした。2匹の猫を連れてイギリスへ。ロンドンはテムズ川のほとりの、家具付きのアパートメントに住みました。流れる川を眺め、セント・ジェームス・パークを散歩し、アンティークマーケットに通い、このまま永住もいいなぁと思っていたら、1年で帰国することに。人生、ままならないものですね。

帰国後は、まず場所探し。テムズ川、ロンドン郊外の森を重ねられる場所探し。

琵琶湖の湖西畔に来たとき、ここだと思いました。

それから家探し。小さな家がいい。屋根裏部屋があるような、小さな小屋。窓からは、湖と森と空が見える家。

廃屋のような小屋を見つけました。蔦に覆われ、沼地のような場所に建っている小屋。でも屋根裏部屋があり、鉄枠の窓があった。夫は一級建築士です。リノベーションすればカッコよくなると確信。屋根や構造的な部分は本職に頼み、スケルトン状態から、セルフリノベーション。その間はワンルームマンションを借り、夫婦(私はときどき)で冬の湖畔に通いました。冬の湖には無数の水鳥(オオバン)が浮かんでいる。ロンドンで毎日見ていた鳥でした。

家が完成したとき、夏になっていました。琵琶湖の向こうから昇ってくる太陽、月。湖面に浮かぶ金色の道。この風景はイギリスにも負けない。

夏の夜空からは、幾千の星が降ってきます。

天の川が見えるのです。

過去も荷物も聴力も、捨てたからこそ出会えた場所でした。

<後編につづく>

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