つるの剛士、“超人気者”のきっかけは紳助ではなく河相我聞「めちゃ我聞君にアピールしました」

2025年5月26日(月)8時0分 週刊女性PRIME

50歳記念ライブは5月31日、東京・日本橋三井ホールにて開催。野久保直樹、世良公則、河相我聞などが出演予定 撮影/渡邊智裕



 おバカキャラ、将棋や釣りを愛する趣味人、子だくさんのイクメン。同級生への片想いから芸能界を志した少年は今、多彩な顔を持ち、幅広いジャンルで活躍を続けられる稀有な存在に。節目の年を迎えた記念に、下積み時代から大ブレイクの日々、今も変わらない夢を語ってもらった。

彼女の存在は僕の夢を育む原動力でした

「多感な小学生時代を過ごした大阪は、自分のベースをつくった街。うちはきょうだいが多くて母ちゃんも仕事が忙しかったから、子どもたちの面倒を見る余裕がなかったんでしょうね。僕も5人の子どもがいて、結果的に放任になっているからわかりました」

 子どものころをそう振り返る、つるの剛士。芸能界入りのきっかけは小学2年生のときに遡るという。

「隣の席に座っていた女の子が、子役の女優さんだったんですよ。京都で時代劇に出ていたりして、仕事が忙しくてあまり登校していないのに、クラスではいつも話題になっていて。

 その当時、僕は別の女の子に片想いをしていたんです。その子になんとか振り向いてほしくて必死。目立つためには、隣の席の子みたいに芸能界だ!と思って。その日からずっと芸能界を夢見て(笑)」

 そんなつるの少年は、親の転勤で東京へ引っ越すことに。

「憧れの東京に行けるけど、好きな子と離れちゃうので複雑な気持ち。でも、友達に上京の自慢もしたかったので東京に着いてすぐ大阪の小学校へ手紙を書きました。学年で3クラスあったけど、彼女は違うクラス。自分のクラスにしか書かなかったら読んでもらえない。でもそのクラスにも書いたら、なんで1クラスだけ送ってないのかとなるから3クラスそれぞれに送りました。子どもながらも姑息な手段(笑)」



 高校生になってもその子のことが忘れられず、手紙を送ったら返事が届いた。

「近々、東京に行くからお茶しようって。それから文通が始まり、写真を送ってくれたので当時のバンドメンバーに見せたら、“全然かわいくねえじゃん”って言われて。僕の中でガラガラガラッて気持ちが崩れて冷めちゃった。

 彼女と東京ディズニーランドへ行く約束をして再会したとき、僕はとても一緒にいる気分になれなくて、入場するときに“ごめん、俺帰るわ”って言って帰ったんですよ。ひどい男ですよね」

 ちなみに彼女とは一時、疎遠になるも、今ではライブに来てくれる関係だという。

「当時のことを話したら“つるちゃんが私への気持ちを言ってくれていたら、私もちゃんと考えたよ”って言われました。小学生の娘さんを連れて来たんですが、僕が好きだったころのその子に顔がそっくり! お母さんが本人なのに、僕が好きだった子が隣にいるという、不思議な感覚でした。彼女の存在は僕の夢を育む原動力でしたね」



 上京したつるのはいよいよ芸能界を目指すべく、エキストラ出演や劇団での芝居を始めた。

「高校2年生のときにレッスンを受けていた先生がめちゃくちゃ怖くて。灰皿を投げて怒鳴るような方だったんです。それで頭にきて、絶対に売れてこの先生を見返したいと頑張ってました。そうしたらある日、その先生が“おまえはこんなところにいるやつじゃない”と言って事務所を紹介してくれました」

フジテレビの目玉マークのついた紙袋を自作した理由

 そして'94年にテレビドラマ『青春の影』(テレビ朝日系)に端役で出演。このときに主演を務めた河相我聞と運命的な出会いを果たす。



「現場では、我聞くんの目に留まるようにめちゃめちゃアピールしました。9万円もする青いカラーコンタクトを入れたり、彼がドラム好きだったのを知っていたから、スティックを用意して休憩時間にタカタカとリズムを取ってアピールしまくり。そうしたら、“ドラムやってんの?”と話しかけてくれて」

 意気投合し、スタジオで一緒に練習する仲に。

「同い年だったから話しやすくて、スタジオ帰りに彼の家にいつも寄ってはファミコンをして泊まることがどんどん増えて、いつの間にか僕の荷物だらけになって、同居することに(笑)」

 河相には夜の付き合いも教わった。

「芸能人が集まる飲み屋さんによく連れて行ってもらいました。とあるバーにはMr.Childrenのみなさんがよく来ていて。今でも彼らとは仲がいいですよ」

 河相のラジオ番組に友達として呼ばれて普通におしゃべりしていたら、ディレクターから“面白いから来週からコーナーをやって”といきなり言われて人気者に。

「ラジオ局の前に出待ちが集まるようになって、我聞くんの事務所の社長さんが誘ってくれたんですが、そこに入ったらみんなイケメン俳優ばかりだから僕は埋もれちゃうと思って辞退して、今の太田プロにお世話になることになったんです。

 大阪時代からとにかくテレビに出たい一心。当時、テレビといえばフジテレビ。東京に着いたらそのまま母ちゃんを連れて局前に行きました。どうすれば中に入れるかって考えながら正門のそばで観察していると、フジテレビの目玉マークのついた紙袋を持って入っていくから、あれを持っていれば中に入れるんだと思って。

 それで紙袋とカッティングシートを東急ハンズで買って、目玉マークを作って紙袋に貼り付けて、その紙袋を持って局の正門に入っていったら警備員さんにピピー!って笛を吹いて、叱られた(笑)」



 それから数年後、'07年にバラエティー番組『クイズ!ヘキサゴンⅡ』(フジテレビ系)でついに大ブレイク。番組から生まれたユニット「羞恥心」で一躍おバカタレントの代表格となり、国民的人気に。社長室で表彰状を授与され、涙が止まらなかったという。

ずっと子どもたちに夢を与えていきたい

香田晋さんなど、先におバカキャラで成功された方々はいらっしゃいましたが、羞恥心という漢字が読めなかった僕ら(上地雄輔野久保直樹)を島田紳助さんがグループにして、可愛がっていただきました」 



 当時のことは、忙しすぎて記憶がないという。

「でも、33歳で4人目の子どもが生まれる自分がキャーキャー言われることに危機感を覚えていました。それで、注目されているうちに将棋や釣りなどの趣味も前面に出すようにしたんです」

 おバカキャラで一世を風靡したが、今ではイクメンの顔であり、6月には、育児に関する本も出版する。

「仕事がピークのときに育休を取り、いろいろと知る機会ができました。今は男性が育休を取りやすくなったけど、制度化は違う気がするんですよね」

 '23年から大学で児童心理学を学び、3月に認定心理士の資格を取得した。

「めちゃくちゃ心理学にハマって、視力が落ちるほど今では本の虫です。お子さんの気持ちは人それぞれで、家庭環境や教育方針も違う。育児について講演会に呼んでいただくのですが、真剣に育児を学ぼうとしているお父さん方からいろいろご相談をいただくので、きちんとお答えできるようにもっと勉強しないと。先生だなんてとんでもない」

 今年で50歳、芸能活動も30周年を迎え、5月31日には記念ライブを開催する。

「22歳のとき出演した『ウルトラマンダイナ』はいまだに世代を超えて愛されています。僕はオーディションに受かったときに、一生、ウルトラマンとして生きることを決意しました。ドラマが放送終了してからの成長こそが、ヒーローの姿だと思っています。『チャギントン』も15周年を迎えたし、ずっと子どもたちに夢を与えていきたいですね」

 おバカキャラからイクメンまでを体現する彼は、優しさと強さを兼ね備えているのだ。

取材・文/山本 航 撮影/渡邉智裕

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