西村修さんと藤波辰爾が「和解」した「奇跡の1・31」秘話…妻・恵さんが夫の思いを明かす「藤波さんにはちゃんとした格好で会いたい」
2025年3月9日(日)10時33分 スポーツ報知
西村修さんの妻・恵さん(中央。左は葬儀委員長を務めた三沢威氏)
2月28日に亡くなったプロレスラーで文京区議会議員の西村修さん(享年53)の告別式が8日、東京・文京区の護国寺でしめやかに営まれた。
式には文京区の成沢広修区長、タレントの山田邦子、せんだみつお、プロレス界からは藤波辰爾、渕正信、武藤敬司、新崎人生、天山広吉、小島聡、永田裕志、後藤洋央紀、SANADA、KENSO、征矢学、ジョー・マレンコらが参列した。
西村さんは1990年4月に新日本プロレス入門。93年8月から米国武者修行。95年10月に帰国し藤波辰爾の自主興行「無我」旗揚げ戦に出場した。以来、2人は師弟関係となり、2001年9月のなみはやドーム大会で藤波&西村はIWGPタッグ王座を奪取。西村さんは06年1月に新日本プロレスを退団。同年6月に藤波も新日本を去り、秋に2人は「無我ワールド・プロレスリング」を設立した。しかし、西村さんが07年10月に退団。当時、マスコミを通じて藤波を批判した。以来、2人は絶縁状態となりリング上はもちろん、リング外でも会うことはなかった。
西村さんは24年4月にステージ4の食道がんが判明。すい臓、肝臓などへ転移する過酷な闘病生活を続けながらリングに上がり続けた。しかし、今年1月31日に出場を予定していた後楽園ホールで行われた「ジャイアント馬場没25年追善興行」を体調悪化で欠場を余儀なくされた。大会をプロデュースした木原文人リングアナウンサーが代わりに藤波に参戦を打診。長男LEONAの尽力もあり藤波は恩しゅうを超え受諾し西村さんの代わりにリングに上がった。
西村さんは2月28日早朝に体調が急変し午前7時56分に「食道がん」で急逝し、2人が再会することはかなわなかった。ただ、「1・31」で2人がつながったことで通夜、告別式に藤波は参列し、告別式では弔辞を読み上げた。2人をつなげた「1・31の奇跡」。西村さんの妻・恵さんが取材に応じ、思いを明かした。
西村さんと恵さんは2011年6月に結婚した。
「夫って本当にプロレスの話を私には、あまりしないんです。私もプロレスには詳しくなかったので、藤波さんとの話も軽く聞いてはいましたけど、本当に1月31日の試合の時ぐらいに夫からすごい詳しく聞きまして」
そして西村さんは、自身が欠場し藤波が参戦した「1・31」後楽園ホールに恵さんへ行ってくれることを頼んだ。
「自分は入院したんで行けないので『行ってほしい。藤波さんにありがとうと謝罪の旨を伝えてほしい』と言われました。実は、藤波さんからも病院へ行きますよと言われていて、夫も会いたかったと思うんですけど病院のパジャマが…あと管がすごいいろいろつながっていたのも『藤波さんにそんな姿ではお会いできない。失礼になるから。ちゃんとした格好で会いたい』と言っていて」
夫の思いを託された後楽園ホールへ恵さんは、6歳の息子と来場した。席は全席完売だったのでバルコニーから夫が出るはずだった試合で闘った藤波のファイトを観戦した。そして試合後、バックステージで藤波と対面する。
「初めてお会いして。どんな方かもわからなかったですし、夫の話でいろんなことがあった事も知っていたので私からすると、会ってくれるのかもわからなかったんです、(後楽園ホールへ)行きましたけど、もしかしたら会ってくれないかもしれないですし、そういう心配もありましたけど」
そんな不安は取り越し苦労だった。藤波は快く恵さんと会った。夫の謝罪を伝える恵さんへ言葉をかけた。
「本当に優しく…『そういうことはまったく気にしてないからこの試合に出たんだよ。いつでもお見舞いに行くし。本人に会いたい』って本当に言ってくださって。行ってよかったなと31日に思いましたし、感謝でいっぱいでした」
奇跡の出会いを振り返った恵さんの瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。再会はかなわず2月28日朝に夫は亡くなった。
「3月4日に退院も決まっていたので、本人も退院すれば、きちんとした服で会えるっていう意識があったと思うんです。それがかなわなかったのは残念だったんですけど、ずっと気にしていたことだったみたいだったので…1月31日の試合のおかげで夫はたぶん、本当に安心したと思います」
藤波への弔辞は恵さんと葬儀委員長を務めた新日本プロレスの三沢威トレーナーの願いでもあった。
「私の希望でもありましたし葬儀委員長やってくださった三沢さんとも話をしたんですけど、本人が喜びますからとお願いしましょう、とお願いさせていただきまして、快く引き受けてくださって…」
天国の夫の思いを受けた弔辞。藤波はこの言葉を贈った。
「無我と共に歩いた君のプロレス人生。その人生の最後の時まで誇り高く生き抜いた君に無我をささげます」
(福留 崇広)