『光る君へ』藤原道長の半生、両親、2人の妻、摂関政治の中心に躍り出るまで

2024年1月15日(月)8時0分 JBpress

文=鷹橋 忍 写真=フォトライブラリー

 今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、吉高由里子演じる紫式部ともに、もう一人の主役ともいうべき、柄本佑演じる藤原道長の半生を取り上げたい。


道長の両親は?

 藤原道長は、康保3年(966)に生まれた。

 紫式部の生年は、天禄元年(970)、天延元年(973)年、天元元年(978)など諸説あるが、仮に天延元年生まれとして計算すると、道長の方が7歳年長である。

 父は、段田安則が演じる藤原兼家(929〜990)だ。道長誕生時は、従四位下左京大夫で、まだ公卿ではなかった。

 母は、摂津守藤原中正の娘である、三石琴乃が演じる時姫(生年不詳〜980)だ。兼家には何人もの妻妾がいたが(山中裕『藤原道長』)、時姫は兼家の嫡妻だった。

 時姫は、天元3年(980)正月、道長が数えで15歳のときに亡くなっている。


異母兄の母は、『蜻蛉日記』の筆者

 道長は、兼家の五男で(時姫が産んだ子としては三男)である。

 同母の兄に、井浦新が演じる藤原道隆(953〜995)と、玉置玲央が演じる藤原道兼(961〜995)が、同母の姉に吉田羊が演じる藤原詮子(962〜1001)と、安和元年(968)に冷泉天皇(950〜1011 在位967〜969)の女御となる藤原超子(生年不詳〜982)がいた。

 他にも、上地雄輔演じる藤原道綱(955〜1020)と藤原道義という異母兄が二人と、木村達成演じる居貞親王(後の三条天皇/冷泉天皇と藤原超子の子)の妃となる藤原綏子(974〜1004)という異母妹がいた。

 なお、異母兄・道綱の母は、『蜻蛉日記』(藤原兼家との結婚生活などを綴った21年間の記録)の筆者として知られる。

 道長の誕生時の主な家族の年齢(数え年)を挙げると、父・兼家は38歳、同母兄の道隆は14歳、道兼は6歳。同母姉の詮子は5歳、異母兄の道綱は12歳であった。


天皇の外戚に

 道長の父・藤原兼家は、4歳年上の次兄・藤原兼通(925〜977)よりもはじめ官位が上であったが、坂東巳之助演じる円融天皇(959〜991 在位969〜984)の摂政であった長兄の藤原伊尹(924〜972)が死去すると、兼通が関白となった。

 貞元2年(977)、兼通は橋爪淳演じる藤原頼忠(924〜989)を関白とし、兼家を治部卿に左遷して、亡くなった。

 摂関の地位から遠ざけられた兼家だったが、兼通の没後、ドラマでも描かれたように、貞元3年(978)8月に娘の藤原詮子を円融天皇の女御として入内させ、10月には右大臣に任じられた。

 詮子は天元3年(980)6月に、円融天皇の唯一の子となる皇子懐仁を産んだ。のちの一条天皇(980〜1011 在位986〜1011)である。

 永観2年(984)、円融天皇は退位し、本郷奏多が演じる花山天皇(冷泉の皇子/968〜1008 在位984〜986)が17歳で即位。円融天皇と藤原詮子の子である皇子懐仁が、皇太子に立てられた。

 この花山天皇は、寛和2年(986)6月、突然に出家・退位する。

 代わって懐仁親王が7歳で即位し、一条天皇となり、天皇外祖父となった兼家は、摂政に任じられた。

 道長、19歳のときのことである。

 摂政となった兼家は一族の地位の向上に邁進し、道長も天皇の外戚として、急速に昇進していった。


嫡妻・源倫子とは、母親に気に入られたおかげで結婚できた?

 道長は永延元年(987)12月16日に(『台記別記』久安4年7月3日条など)、黒木華が演じる源倫子(964〜1053)と結婚した。道長は22歳、道長より2歳年長の倫子は24歳だった。

 倫子の父は、益岡徹が演じる左大臣源雅信(920〜993)、母は中納言藤原朝忠の娘・藤原穆子(931〜1016)。

 曾祖父は宇多天皇(867〜931 在位887〜897)、曾祖母は醍醐天皇(885〜930 在位897〜930)の生母・藤原胤子(生年不詳〜896)という貴種の家系であり、藤原兼家の五男で、このとき従三位左京大夫であった道長より格上だった。

 宮廷貴族社会の歴史を編年体で叙述した歴史物語『栄花物語』の「さまざまの悦び」(『日本古典全集 基本版 第5』所収)によれば、倫子の父・源雅信は、道長を婿とすることに猛反対していたが、倫子の母・藤原穆子は道長を「なかなかの人物」と評価し、雅信の反対を押し切る形で、二人の結婚を進めたことが記されている。

 だが、なぜ、道長が倫子と結婚できたのかは、あきらかではないという(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

 倫子は二男四女の子を出産している。


次妻・源明子は醍醐天皇の孫

 倫子との結婚は道長の運命を切り開くことになるが、道長にはもう一人、瀧内公美が演じる源明子という次妻がいた。

 明子は醍醐天皇の孫で、左大臣源高明(914〜983)の娘である。

 幼少期に、父・高明が安和2年(969)の「安和の変」により失脚したため、叔父の盛明親王(928〜986)に養育された。

 盛明親王の没後は、道長の同母姉・藤原詮子に迎えられ、愛育されたという。

 明子は、四男二女の子を産んだ。


道長、政権の中心に躍り出る

 道長の父・藤原兼家は、正暦元年(990)5月、道長の長兄・藤原道隆に関白の座を譲り、同年7月2日に62歳で死去した。

 その道隆も、「長徳の大疫癘」と呼ばれる疫病が大流行するなか、長徳元年(995)4月10日に死去し、道隆に代わって関白に就任した道長の次兄・藤原道兼も同年5月8日に、この世を去ってしまう。

 疫病は、猛威を振った。道長は正暦2年(991)9月に権大納言となっていたが、道長よりも上位にあった朝廷の人物は、三浦翔平演じる藤原伊周(974〜1010)を除いて、ほぼ全員が命を落とした。

 伊周は道長の長兄・藤原道隆の嫡男で、道長の甥である。

 一条天皇が政権を託したのは道長だった。

 5月12日、道長に「内覧」の宣旨が下された。

 内覧とは、天皇に奏上する文書や、天皇から宣下される文書を先立って内見する役目のことで、関白に准じるとされる。

 関白ではなく、内覧だったのは、大臣ではなかったためだと考えられている。

 道長が内覧に任じられたのは、道長の同母姉で、一条天皇の生母である藤原詮子が、道長を強く推したからだという。『大鏡』(文徳天皇の代から後一条天皇の代(850〜1025)のまでことを描いた、紀伝体の歴史物語)には、このとき詮子が一条天皇の寝所にまで押しかけ、涙とともに説得したとの説話が記されている。

 こうして道長は政権を射止め、同年6月19日に右大臣に任じられた。

 道長の栄光の日々が、幕を開けた。


藤原道長ゆかりの地

●土御門第跡

 藤原道長の邸宅の跡地。もともとは、源雅信(道長の嫡妻・源倫子の父)の邸であった。

 一条天皇の中宮で、紫式部が出仕した藤原彰子(道長の娘)は、ここでの後一条、後朱雀両天皇となる皇子を出産している。

筆者:鷹橋 忍

JBpress

「藤原道長」をもっと詳しく

「藤原道長」のニュース

「藤原道長」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ