五代友厚はどのようにして「薩摩スチューデント」を選抜したのか?使節団の使命と知られざる辞退者の存在

2025年1月22日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


五代友厚の留学生計画と開成所

 元治元年(1864)5月ごろ、五代友厚は長崎においてグラバーとも相談しながら、密航留学生の派遣計画も盛り込んだ上申書を作成した。その中で、五代はどのように留学生を選抜しようとしていたのか、探ってみよう。

 五代の計画では、藩校の造士館から留学生を選抜することになっていたが、実際には、同年6月に新たに設置された開成所の生徒から、多くの留学生が選ばれることになった。開成所とは、薩英戦争によって、海軍力の圧倒的な差を痛感したことを契機として、欧米列強に対抗できる軍事技術・諸科学および英学・蘭学の教育機関として設置されたのだ。

 開成所では、薩摩藩の富国強兵策を推進するにあたり、根幹ともなる陸海軍事力の強化、それを駆使できる人材育成に重点が置かれた。そこでの教授科目として、海軍・陸軍の砲術、兵法、築城など軍事の専門科目を中心に、天文、地理、数学、測量、航海、器械、造船、物理、分析、医学などの諸科学、それに加え、英語・オランダ語などが開講された。

 その教授陣容には、驚くべき人材が含まれていた。例えば、蘭学者の石河確太郎をはじめ、英学者の前島密やアメリカから帰国した中浜万次郎など、他藩の大家が多数招聘されているのだ。変わったところでは、海援隊士の沢村惣之丞も数学を教授している。なお、前島密はこの段階で、大久保利通の知遇を得ている。


石河確太郎と開成所の設置

 石河確太郎について、簡単に触れておこう。大和国高市郡の出身であり、集成館事業を興した島津斉彬に見出され、その事業に参加した。しかも、斉彬の信任が篤く、その中核を担ったのが石河だったのだ。石河自身も、開成所でも教授を務めたが、元治元年10月に側役の大久保利通に上申書を提出している。

 その中で、石河は組織、カリキュラム、教官と学生の選抜基準などの改革案を示すとともに、具体的な氏名を挙げながら、生徒を留学生に推薦している。石河の後押しによって、開成所から多くの留学生を輩出したことは間違いないのだ。

 ところで、開成所の設置にかかわった藩要路は誰であったのだろうか。確かなことは分からないが、大久保利通が設置にかかわる、具体的な意見書を出していることから、中心にいたことは間違いない。

 当時、島津久光と藩政の中心にいた小松帯刀は京都にいたため、決裁くらいにしか関われなかったはずである。なお、大目付の町田久成は、学頭(総責任者)の職である開成所掛に就いており、大久保と一緒に全体を構想したとするのが妥当であろう。

 なお、開成所の生徒数は70名ほどで、造士館から選抜されたエリートであった。能力に応じて3段階に分けられ、まずは語学から講義が始まった。当時は蘭学の時代が続いており、英語の専修者は10名足らずであった。また、生徒には給与が出ており、このあたりはユニークである。これは、藩としての期待の大きさを物語っていよう。


薩摩スチューデントの使節団とその使命

 五代の上申書をベースに、薩摩スチューデントが結成された。総勢は19名であるが、厳密に言うと、使節4名と留学生15名に大別される。使節一行の4名を紹介しておこう。正使の新納久脩(大目付、全権)、寺島宗則(船奉行、政治外交担当)、五代友厚(船奉行副役、産業貿易担当)、堀孝之(通弁、通訳担当)であった。また、町田久成は留学生であると同時に、督学という留学生全体を束ねるポジションにあった。

 この使節の使命は、五代の上申書をベースに組み立てられたものであるが、以下の4点にまとめることができる。

①薩摩藩をはじめとする大名領にある港を外国に開き、そこで自由に交易できるように、イギリス政府に協力を求めること。

②富国策を実現するために、外国市場を調査し、薩摩藩として必要な製造用機械などを購入すること。

③強兵策を実現するために、必要な軍艦・武器などを調査・購入すること。

④将来に向けて、必要な西洋知識を受容するために留学生を同行させ、現地で諸々の手配をして監督すること

 五代は②③にあたる機械買い付けや商社設立などに奔走し、寺島は①にあたる外交交渉に心血を注ぎ、町田は④にあたる留学生全般を扱った。


知られざる留学生辞退者の存在

 留学生は15名で、開成所から多数が選ばれている。特定の家柄、年齢からではなく、幅広く選抜されている。そして、思想的にはあえて攘夷思想が強い上級家臣が含まれた。実は当初、このメンバーのほかに3名が候補となっていた。

 その内の1名、町田猛彦は出発直前に変死しており、一説には、自殺とも言われているが、病気のために渡航を断念したというのが真相らしい。もう2名は、上級家臣の島津縫之助と高橋要で、留学を恥辱とまで考えており、強硬に辞退を申し入れたのだ。

 しかも、島津久光が自ら説得したにもかかわらず、翻意せずに外されている。久光にたてつくとは、にわかに信じ難いが、狂信的なほどの即時攘夷の信奉者であったかも知れない。なお、この時、上級家臣である畠山義成も辞退していたが、久光の説得に応じて翻意している。こちらの対応こそ、普通のものであろう。

 督学である町田久成を除く上級家臣5人中、3人が辞退を申し入れ、実際に2名が外れている。ここからも、五代の門閥層の攘夷家を加える意義が分かるのだが、結果として実を結ばなかった。

 ちなみに、辞退した2名のその後の経歴は分からない。ここが、人生の大きな分岐点であったことだけは確かなようだ。薩摩スチューデントの多くは、帰国後、日本の近代化に大いに貢献した人材となったのだが、そのことについては、いずれ取り上げてみたい。

筆者:町田 明広

JBpress

「命」をもっと詳しく

「命」のニュース

「命」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ