江戸幕府はなぜ「泰平の世」を実現できたのか?初代家康から5代綱吉までで考える、政策や体制だけではない理由とは
2025年2月5日(水)6時0分 JBpress
(歴史ライター:西股 総生)
「泰平の世の実現」と世代との関係
1603年(慶長8)に徳川家康が征夷大将軍となって成立した江戸幕府は、長きにわたった戦国乱世を終わらせて、泰平の世をもたらした。家康がなぜ覇権を手にすることができたか、という議論は、これまでにも様々に試みられてきたが、本稿では少し違った観点から、「泰平の世はなぜ実現したのか」を考えてみたい。
まず、初代家康から綱吉までの5代の将軍について、生年—将軍就任年—没年を一覧にしてみた。A〜Eに示したのは、この間に起きた大きな事件である。
1.家康 1542(天文11)—1603(慶長8)—1616(元和2)
2.秀忠 1579(天正7)—1605(慶長10)—1632(寛永9)
A.関ヶ原合戦 1600(慶長5)
3.家光 1604(慶長9)—1623(元和9)—1651(慶安4)
B.大坂夏の陣 1615(慶長20)
C.島原の乱 1637〜38(寛永14〜15)
4.家綱 1641(寛永18)—1651(慶安4)—1680(延宝8)
D.由井正雪の乱 1651(慶安4) ※正雪は1605年(慶長10)生
E.明暦の大火 1657(明暦3)
5.綱吉 1646(正保3)—1680(延宝8)—1709(宝永6)
一般に歴史を考える場合、おおよそ20年を1世代と見なす。家康が将軍になってから、5代目の綱吉が没するまで106年であるから、この原則がきれいに当てはまっていることがわかる。ここで、上記の一覧から見えてくるのは、「泰平の世の実現」とジェネレーションとの関係だ。
まず、家康が生まれた1542年(天文11)は種子島に火縄銃が伝来する前年であるから、戦国真っ盛りといってよい。また、秀忠が生まれた1579年(天正7)といえば、織田信長が天下統一に驀進していた頃である。
3代家光は、生まれながらにして将軍の座を約束されていたといわれるが、大坂の陣が起きたのは彼が11歳の時である。周囲には戦国乱世を生き抜いてきたベテランたちも多かっただろう。その家光は、30代半ばで将軍として島原の乱に対処することになる。
島原の乱では、廃城になっていた原城に立て籠もった一揆勢が頑強に抗戦し、幕府側は大軍で城を囲みながらも攻めあぐねた。一揆勢がかくも善戦できたのは、関ヶ原や大坂の陣の時代に実戦を経験していた地侍の生き残りが、戦闘を主導していたからである。
対するに、4代家綱が生まれたのは島原の乱の後であり、大坂の陣からもすでに四半世紀が過ぎていた。1651年(慶安4)には、家光の死を契機として由井正雪が争乱を企てたとされるが、未然に鎮定されている。この時、家綱は10歳だから、家光が大坂の陣に遭遇したのと同じ年頃ということになる。
5代将軍となる綱吉(家綱の弟)が生まれたのは1646年(正保3)だから、由井正雪の乱はおそらく本人の記憶にはないだろう。代わりに彼は11歳で明暦の大火に遭遇している。この大火では、江戸城や周辺は丸焼けになっているから、その惨状は綱吉少年の心にも深く刻まれたはずである。つまり綱吉にとっては、戦争ではなく都市の治安問題が政治的な原体験となっていたわけだ。
「戦争を知らない世代」が社会の中心になってゆく
3代家光から5代綱吉までの間に起きたことを、もう少し補足してみよう。島原の乱が起きる前年の1636年(寛永13)には、伊達政宗が69歳で没している。また、綱吉が生まれる前年の1645年(正保2)には、宮本武蔵が71歳で世を去った。武蔵は、若い頃に足軽として関ヶ原を経験し、老いてからも浪人として島原の乱に参戦している。
政宗も武蔵も、この時代としては長生きをした方といってよい。島原の乱から1640年代、元号でいうなら寛永の後半から正保の頃というのは、戦国合戦を実際に経験してきた世代の生き残りたちが、天寿を全うしてゆく時期だったのである。
島原の乱を境として、日本国内で大規模な戦乱が起きなくなる現象は、幕藩体制の確立、幕府による統制の徹底、といった観点で語られることが多い。けれどもその背景には、実戦を経験した世代が世を去り、「戦争を知らない世代」が社会の中心になってゆく、という現象もあったことがわかる。
幕府転覆を企てたとされる由井正雪にしても、1605年(慶長10)の生まれであるから、家光と同世代だ。戦国時代の体験談を大人たちから聞いて育ちはしただろうが、正雪本人には実戦経験はなかっただろう。そして正雪以降、天一坊のように将軍御落胤を騙る者は現れても、幕府転覆のための武力蜂起を企てる者は、もはや現れなくなる。
もともと戦国時代というのは、目的を達するためには武力を用いる時代だったから、領土・財産でも権益でも、欲しいものがあれば力ずくで奪うのが当たり前。酒に酔った武士が喧嘩をしても、村同士が農地の境や水利をめぐって争う場合でも、たちどころに槍や刀が出てくる。
そういう時代を生きてきた人たちは、何かあったら反射的に刀の柄に手がかかって、心理的にも戦闘モードに入る。いったん実力行使となったら、どう行動すればよいかは、考えなくても体が覚えている。
1630年代(寛永年間)くらいまでは、そういう価値観・行動原理をもった人たちがまだ残っていて、組織やコミュニティのベテランとして頼りにされていた。ところが、1650年代以降になると、もはや「戦争を知らない世代」が社会を動かすようになって、武力によって問題を解決しよう、という価値観・行動原理が失われてゆく。
仮に、20歳で島原の乱に参加した人がいたとすると、綱吉が5代将軍となった1680年(延宝8)には62歳となっているから、当時であればお迎え待ち年代といってよい。綱吉治世の代名詞ともいえる元禄年間(1688〜1704)ともなれば、島原の乱を経験した世代すらも死に絶える。悪名高い「生類憐れみの令」も、本当はそうした世相を背景として理解すべき政策なのである。
ちなみに今年(2025年)は、第2次大戦が終わった1945年から数えて80年にあたる。終戦を大坂夏の陣に重ねるなら、80年後にあたるのは1695年=元禄8年となる。綱吉が金銀貨の改鋳策を打ち出したり、中野に犬小屋を建てたりした年だ。元禄の若者にとっての関ヶ原や大坂の陣は、令和の若者にとってのシベリア出兵や第2次大戦に等しかったのだろう。
「泰平の世」が実現し維持されてゆくために必要なのは、政策や制度・体制といったトップダウンの要素だけではなかった。人々の価値観や行動原理の変容といったボトムアップの要素も重要であり、そのためには世代交代という時間のかかる手続きが不可欠だったのだ。「世の中の変化」を考えるときに、頭に入れておきたいことである。
筆者:西股 総生