江戸幕府の老中はなぜ譜代大名が独占するのか?近代的な政府や会社組織とは全く違う「幕府」の基本原理
2025年3月14日(金)6時0分 JBpress
(歴史ライター:西股 総生)
徳川家という「家」にすぎない「幕府」
大河ドラマ『べらぼう』では、幕府の老中である田沼意次・松平武元(たけちか)らが政策について意見を交わす場面が、たびたび登場する。ご存じのように彼ら老中とは、幕府の政策を実質的に動かしていた「閣僚」のような人たちだ。
この老中の職に就くことができたのは譜代大名といわれる人たちで、石高としては5万石〜15万石クラスが多かった。江戸時代の大名としては中堅どころか、中の下くらいである。ではなぜ、老中は5万石〜15万石クラスの譜代大名にかぎられるのだろう?
皆さんは、江戸時代の大名は親藩・譜代・外様の三タイプに分かれる、と学校で習い、そう覚えているはずである。親藩とは、徳川将軍家の親戚筋にあたる家。譜代は、もともと徳川家の家臣だった家。外様は、徳川家康が覇権を握った後に従った者たちを指す。
これはこれで間違いではないのだが、こうした用語暗記方式の考え方で済ませてしまうと、幕藩体制の原理が見えにくくなってしまう。というのも、われわれが「幕府」と呼んでいる組織の実態は、徳川家という「家」にすぎず、近代的な政府や会社組織とは、基本原理がまったく異なっているからだ。
もともと戦国時代には、各地に興った戦国大名たちが滅ぼしたり、滅ぼされたりの勝ち抜き合戦を繰り返して、徳川家康が最終的な勝者となった。そうして家康が圧倒的な力で他の大名たちの頭を押さえつけて、「文句がある奴は一歩前へ」といって、本当に一歩前へ出たらたちどころに叩きつぶされるから、みんな家康の言うことをきく。
この力に「征夷大将軍」というラベルがついて、家康から嫡男の秀忠へ、家光へ……と代々受け継がれて、徳川家が他の大名家を従えているのが、幕藩体制の基本原理だ。そうした幕府が、イコール徳川家であるなら、徳川家の実務を切り回すのは徳川家の番頭さんたちである。この番頭さん・手代さんにあたるのが、譜代大名なのである。
したがって、外様大名が老中になれないのは当然で、別に意地悪をして仲間に入れてあげないわけではない。どんなに経済力があっても政治家として有能でも、外様大名は徳川家の関係者ではない「ヨソの人」だから、徳川家の意志決定や実務に携われるはずがない。
御三家を始めとした親藩大名が老中にならないのも同様で、親藩大名とは早い話、徳川家の分家だからだ。将軍家が徳川家の本家、親藩は分家だから、本家=幕府の意志決定や実務は本家の番頭さんたちの仕事であって、分家の当主が番頭さんと同じ立場になるわけがない。このあたりの原理は、「老中」を「家老」と読み替えると腑に落ちるだろう。
ちなみに、『べらぼう』で石坂浩二が演じている松平武元は館林松平家の生まれで、6代将軍家宣(いえのぶ)の孫にあたる人物だから、血筋からいえば本来は親藩大名である。ただし、館林松平家は兄が嗣いで、武元は常陸府中藩松平家に養子に出され、そちらの当主になっていたから、譜代大名ワクとして老中になったのだ。
のちに老中となる松平定信も、もともとは御三卿の一つである田安家の生まれで、8代将軍吉宗の孫であるが、長子でなかったので白河藩松平家に養子に出され、白河藩主として老中の地位に就くことになる。
武元や定信はタダの譜代大名家ではなく、同じ松平姓でも血統のよい人物として、周囲から一目置かれる立場だったわけだ。こうしたことを踏まえて、幕府内部での権力闘争を見ていると、『べらぼう』もより面白く鑑賞できるだろう。
なぜ譜代に大藩がないのか
徳川幕府の老中となった譜代大名は、5万石〜15万石クラスが多かった。江戸時代の大名としては中堅か中の下くらいだが、なぜそのクラスが老中となったのだろう?
こういう問題を考えようとすると、大きな経済力を持つ大名に必要以上の権力を持たせないため、などとうがった見方をする人がいそうである。でも、実際は単なる成りゆきの結果でしかない。
まず知っておきたいのは、30万石以上の大藩は、ほぼ親藩か外様ということである。
譜代大名で30万石以上の領地を持つのは、彦根井伊家35万石くらいなものである(正確には35万石のうち5万石は幕府御用米預地)。
では、なぜ譜代に大藩がないのかというと、別に緻密な計算に基づく政策ではない。まず、御三家を始めとして親藩大名に大藩が多いのは、家康が自分の息子達を戦略上の要所に配して、大きな領地を与えた結果である。
次に、大藩に外様が多く譜代の石高が概して小さいのは、関ヶ原の合戦に起因する現象だ。関ヶ原合戦はもともと、豊臣家五大老の筆頭だった家康が、不服従の姿勢を示した上杉景勝を討伐するために軍を発したことから始まる。この討伐軍はいわば豊臣政権軍であるから、実働部隊の主力は福島正則・黒田長政といった豊臣系大名たちになる。
ところが、討伐軍が会津に向かう途中で、石田三成らが上方で挙兵したため、これが西軍となり家康の討伐軍が東軍となって、関ヶ原での激突に至る。結果として、関ヶ原で戦闘部隊の主力となった豊臣系大名たちが、多くの恩賞(=領地)にありつくこととなった。
一方、このとき家康に敵対姿勢を示していた上杉家や毛利家は、領地を大きく削減されたものの、家康と直接戦ったわけではないので取り潰しにはならなかった。合戦に直接かかわらなかった大名(前田家など)の領地にも、家康は手出しできない。こうして各地に外様の大藩が残り、その隙間を埋めるように徳川家臣たちが配されたので、ほとんどの譜代大名は中小規模となったわけである。
幕府の老中とは要するに徳川家の番頭さんだから、譜代大名の中でも比較的有力な家が老中を出しやすい。彼らの中で、政治力があって実績を積んだ者が出世して老中になる。といっても譜代大名の石高はタカがしれているから、必然的に5万石〜15万石クラスに収まるわけである。
小藩の藩主から老中になった者も少なからずいるが、彼らは役職を歴任して出世コースを歩む中で加増を受けることになるから、結果的に老中はほぼ5万石〜15万石クラスになる。『べらぼう』に登場する松平武元も、最初は常陸府中藩2万石だったが、加増や転封を繰り返して最終的には6万石余を得ている。
なお、幕末に至って一橋慶喜が将軍後見職、松平慶永(春嶽)が政事総裁職という耳慣れないポストに就いている。彼らは親藩大名だったので、老中や大老とは別のポスト名で幕政を総覧する立場に就いたわけだ。
要するに、本家の番頭さんたちだけでは難局に対処できなくなったわけで、この時点で幕藩体制はオワコン化していたのである。
筆者:西股 総生