劉備軍団と蜀軍、そのクライマックスの219年までを支えたのは誰か?
2025年1月30日(木)5時55分 JBpress
約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
草鞋を売っていた少年が、天下の一角に名乗りを上げる
三国志で蜀の皇帝となる劉備が、貧しい家の生まれであることはよく知られています。184年の黄巾の乱で討伐軍として挙兵、猛将関羽と張飛という左右の武将とともに、乱世の中を流浪しながら各地で戦います。
各地での勇戦もむなしく、劉備軍団は長期間にわたってうだつが上がらない状態を続けます。198年からしばらく、劉備は曹操の配下であったこともあります。その劉備と彼の軍団が日の目を見るのは、208年に諸葛亮を迎えてからです。諸葛亮の天下三分の計と呉との同盟で、天下分け目の戦いとなった赤壁で勝利。
劉備軍団の飛躍は、赤壁の戦いのあとも続きます。209年から始まる新たな局面では、荊州南部から本格的な攻略を開始。以後10年近く、破竹の勢いで勢力を広げ、劉備が219年に漢中王になるまで劉備軍団の勢いは続きます。
209年から211年は、劉備軍団が飛翔し始めた期間
208年に赤壁の戦いで曹操軍を破った呉軍と劉備軍は、それぞれの思惑を胸に赤壁後の動きを始めます。劉備軍団は諸葛亮の天下三分の計を元に、209年に荊州南部を占領。
【劉備と孔明、赤壁後の歩み】
208年:赤壁の戦いで呉と同盟、曹操軍を破る
209年:劉備が荊州南部を占領
211年:劉璋の招きで益州に進軍し、214年に益州を占領
214年:成都攻略の過程で、蜀の軍師龐統が流れ矢で戦死
217年:劉備軍が下弁へ侵攻するも、魏の曹洪軍に敗れる
218年:漢中の魏軍と対峙、219年に黄忠が夏侯淵を斬って勝利(定軍山の戦い)
219年:益州、荊州、漢中を支配して天下三分の計の基盤が成立
219年7月:劉備が漢中王となり、8月に関羽が魏の樊城へ攻撃開始(樊城の戦い)
219年10月:このときまで関羽は快進撃を続け、曹操は一時遷都を検討する
219年11月:呉の呂蒙が関羽を攻略、12月には関羽と息子関平が敗死
何名かの有能人材を失いながら、209年以降約10年間にわたり、劉備軍団は大敗をせずに着々と勢力を拡大しています。214年には諸葛亮と並び称された逸材の龐統が戦死しますが、彼の戦死でも劉備軍団の勢いは止まらず、拡大を続けていきます。
208年から211年に、劉備軍団に加入した者は誰だった?
劉備軍団の知略における最初の飛躍が、諸葛亮の加入にあったことは疑いありません。208年の彼の加入が、呉との同盟と赤壁の戦いにおける勝利につながりました。しかし、これは「抗戦」的な要素が強く、209年以降の荊州南部攻略戦から先は「進軍」的な要素が強い展開になっています。
その意味で、208年以降は「武力と知力」の両面で、劉備軍団に新たなエンジンとなる人材が加入したと考えられるのです。以下、知られている人物で209年から211年に加入した人々を一覧にしてみます。
【武力としての加入者】
霍峻(208年)
黄忠(208年末)
孟達(211年)
魏延(211年)
【知力としての加入者】
楊儀(208年)
龐統(210年)
法正(211年)
この211年までの期間からやや外れて加入した人材に、馬超(214年)呉懿(214年)黄権(214年)がいます。黄権は劉備軍団の214年以降の侵略戦争で活躍しており、のちに夷陵の戦いで劉備が敗北すると、魏に亡命をした名指揮官です。
クライマックスの219年の直前に、その叡智や武力が消失した蜀人材は誰か?
劉備軍のクライマックスまでの快進撃は、前半の「劉備の入蜀」と後半の「漢中攻略」の2つに分かれています。その2つの展開に参加することができた新加入の人物は、武力では「霍峻、黄忠、孟達、魏延」であり、知力では「楊儀、法正」の二人です。龐統は214年に流れ矢で戦死しており、そのために劉備軍団の後半での急成長に参加する前に世を去っています。
龐統に関して重要な点は、龐統死後も劉備軍団は快進撃を続けることができた、という事実でしょう。龐統の死と入れ替わる形で、黄権が劉備軍団に加入したのも非常に大きく、漢中攻略には黄権の活躍があったことは見逃せません。
武将の霍峻は守備的な役割で活躍した人物であり、劉備軍団の占領地拡大の最前線で活躍した人物ではありませんでした(但し219年死去)。また、楊儀は劉備死後に活躍する人材で、219年までの期間での活躍はほとんどありません。
すると以下の候補に絞られます。
〇武の人材:黄忠、孟達、魏延
〇知の人材:法正
孟達、魏延の2名については、劉備の存命中の活躍はほとんど記録にありません。その点を考えると、武の人材で209年から219年の躍進を支えた人材は「黄忠」であり、知略で劉備軍団の躍進を生み出したのは「法正」であることがわかります。
劉備軍のクライマックスまでの飛躍は、知の法正と武の黄忠の活躍で生まれた
武の黄忠は、前半の入蜀では「龐統、法正」の軍師とともに戦い、後半の漢中攻略では「法正と黄権」を軍師として戦っています。その意味で、211年から219年直前までの劉備の大躍進を支えたのは、武の黄忠と智の法正だといえるでしょう。
読者の中には、張飛の存在を無視できないのではと考える方もいると思います。ご存じのように、張飛は入蜀と漢中攻略の両方で武将として活躍しています。しかし、張飛は219年時点での健在で、219年の関羽の敗死のときは健康などに問題はなかったはずです。
そのため、219年の蜀軍団瓦解の始まりに、張飛は無関係だと判断されます。一方で、黄忠と法正は、翌220年に共に病死しています。病で死の1年ほど前から、自己の能力を発揮できない状況であったなら、蜀の快進撃が219年の関羽の敗北で完全に停止したことも頷けます。
黄忠は、劉備との成都攻略戦でも「勇猛ぶりは劉備軍団で一番」で
法正もその知略は、諸葛亮に認められており、221年から始まる
武の黄忠、知の法正の二人は、恐らく219年の後半には、病で共
組織が拡大する過程で、アクセルの役割ができる者と、ブレーキの役割ができる者のバランスが非常に重要になります。このバランス感覚を持っていた二人、黄忠と法正が最前線で活躍できなくなった時点で、蜀からは「漢中攻略までを支えた力」が消失していたのです。
そのことに気付かず、単なる武力を誇る関羽が突出してしまったこと、その突出を止めることができなかったことが、蜀の大躍進を完全にストップさせ、諸葛亮の天下三分の計を永遠に夢物語にしてしまったのです。もし、黄忠と法正の二人があと数年健在であれば、蜀はまったく違った歴史を生み出した可能性があるのです。
筆者:鈴木 博毅