三国志の戦犯といえば…蜀の劉備軍団のジョーカー、孟達と劉封のトホホな運命
2025年1月31日(金)5時50分 JBpress
約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
211年に加入した、黄忠とは異なるもう一人の武将「孟達」
前回の記事で、劉備軍団の飛翔を助けた人材は、208年から211年に間に加入した者ではないか、との推論を元に考察を重ねました。結論として、武の黄忠、智の法正がその後の約10年間の領土拡大、蜀帝国の成立に向けた連勝を生み出したと判断しました。
一方で、211年には蜀と劉備軍団の命運を大きく左右する(マイナスの意味で)、最大の悲劇を誘発する人材が加入しています。それは武将の孟達です。孟達は法正と同郷で、二人はほぼ同じ時期に劉璋陣営から、劉備陣営に鞍替えしています。
この孟達は、劉備陣営の拡大期の後半から活躍します。特筆すべきは、219年に行われた上庸攻略戦で、途中派遣された劉封と李厳らとともに、魏の上庸太守を降伏させ、この瞬間、劉備は挙兵以来最大の領土を獲得したことになりました(わずか数カ月で崩壊するが)。
ここまで振り返ると、孟達は劉備陣営に幸運をもたらす人物に感じます。しかし、この最大版図を数カ月で消滅させたのも、まさにこの孟達だったのです。
219年8月から始まる、関羽の猛攻と悲劇の序章
この年7月、劉備は漢中王となり、関羽は前将軍、張飛は右将軍、馬超は左将軍、黄忠は彼らと同格の後将軍に任命されます。過去、最大版図となった劉備勢力。この219年7月の瞬間が、劉備軍団の栄光と幸福の絶頂でした。
そして翌月の8月、関羽が悲劇へつながる行動を開始します。魏の曹仁が守る樊城へ攻撃をかけたのです。曹操が救援に派遣した于禁は関羽に降伏し、魏軍は漢水の氾濫で沈没。関羽の勝利に呼応する盗賊たちが跋扈し、曹操は一時遷都を考えるほどでした。
しかし、魏の司馬懿の「関羽が目的を達成するのは、呉の孫権が望まないこと」という視点からの謀略で、魏は呉に秘かに使者を送り、関羽の背後を突くことを提案します。呉の孫権はそれに乗り、呂蒙を派遣。
一方の関羽は、樊城を攻略する兵力が足りず、上庸を占領した孟達と劉封に兵士の派遣を依頼しました。しかし、孟達と劉封の二人はこれを断ってしまいます。この結果、樊城は陥落させることができず、呉軍に背後を突かれた関羽は、219年の12月には敗死します。
関羽は上の立場の者には丁寧でも、下の立場の者を軽んじたことで、関羽に蔑ろにされた者たちの裏切りもありました。しかし、孟達と劉封の二人の援軍拒否は、関羽の敗北に直結し、わずか5カ月程度で劉備の陣営は最大版図から転げ落ちることになりました。
孟達はその後、魏に亡命してしまい、劉封は魏軍と孟達の攻撃で敗北したのち、蜀の成都で罪に問われて死罪となります。関羽を救援しなかったこと、また孔明が「劉封の豪勇は2代目の劉禅には管理できない」という指摘も劉封の死罪に関連しているとされています。
211年に法正とともに加入した孟達。法正は過去9年間の劉備軍団飛躍の立役者となるも、恐らく219年の後半には体調や病で能力が発揮できず、漢中を攻略した劉備本体の武人たちも、9年間の連戦で疲労の極にあり、とても対処できなかった。
法正と黄忠が亡くなる1年前、219年後半は最大版図を達成したと同時に、劉備軍団の本隊が疲弊の極みにあったのです。
関羽の219年8月からの樊城攻撃は無謀極まりなく、その上で運命を転換する可能性のあった孟達からの派兵拒否で、関羽自身の命とともに蜀帝国の夢は永遠に叶わぬことになったのです。もしあと数カ月関羽が攻撃を待っていたら、事態は変わったかもしれませんが。
蜀の拡大は219年の11月で完全停止した
三国志ファン、関羽のファンからは孟達と劉封は完全に“戦犯”扱いされています。これは当然としても、一方で過去9年間劉備本体が戦い続けていてことを考えると、劉備が漢中王になった翌月の魏の樊城への侵攻は、あまりに無謀であったというのも事実でしょう。
同時に、過去9年間の連勝と領土拡大を支えた人的逸材である、法正と黄忠が亡くなる1年前の情況では、劉備陣営に新たな戦端を開いて勝利を完遂する余力はとてもなかったはずです。劉備と諸葛亮たちが、天下を統一する夢は、この数カ月の無謀で一挙に失われました。
別の視点で考えると、樊城に攻撃をしかけた関羽陣営は、漢中攻略までの劉備陣営とは異なるメンバーで、直近の難しい局面を乗り越えてきた者たちではなく、本拠地を守護していた立場で数年間を過ごしています。その意味で、拡大を達成した本隊にあった「なんらかの人的な叡智とチームワーク」が、樊城を攻略する蜀軍には存在しなかった。
蜀軍本隊の過去9年間の栄光を見て、関羽を含めたほかの蜀軍も「おれたちは強い」と勘違いしたのかもしれません。もちろん、関羽の武勇はそれまでの人生での戦闘で証明されてきました。しかし、関羽はそれ以前の戦いで、領土を拡大して保った戦闘はなかったのです。あくまで戦闘要員で、軍師の要素を兼ね備えた形では、本格的に活躍していないのです。
孟達は、魏軍に寝返ったあと、蜀に再度寝返ろうとして敗死
孟達は魏の亡命したあと魏で重宝され、2代目の曹丕の時代までは優遇されていました。ところが曹叡の時代になり、蜀との国境防備で大軍を預かる孟達へ疑いの目を向けることが魏内で多くなり、それを察した孟達は迷います。そこに目をつけた諸葛亮は、孟達に手紙を送り、手紙を読んだ孟達は裏切りの算段をしていきます。
蜀軍に寝返ることで、魏内での疑惑の目から逃れるつもりだったのです。曹叡は疑惑に対処しようとしませんでしたが、孟達の叛意を見抜いた司馬懿の電光石火の進軍で、孟達はあっけなく敗死。諸葛亮の魏への侵攻作戦もつぶれてしまいます。
本記事では「ジョーカー」というトランプの札の意味を、内部にいる敵の側の勢力、もしくは状況を悪い意味で逆転させてしまう存在、として使いました。その点、孟達はまさに蜀と劉備軍団の悪い意味でのジョーカーとして機能し、2つの機会をことごとく崩壊させています。
211年に加入した法正は、劉備を漢中王に押し上げた知略を発揮した一人でした。一方で、同じ年に加入した孟達は、その法正がいなくなるほぼ同時期に(正確には亡くなる1年前から)、蜀を崩壊させる反転者となってしまったのです。
孟達に関わる失敗には、上庸攻略時に「孟達とそりが合わない劉封」を派遣してしまった劉備の失敗も含まれています。劉備にとっても、たった1つの人事が自分の帝国を崩壊させた、悔やみきれない痛恨の瞬間だったのです。
筆者:鈴木 博毅