『光る君へ』藤原道長の嫡妻・源倫子はどんな人?6人の子供を出産、90歳の長寿をまっとうした生涯

2024年2月19日(月)8時0分 JBpress

今回は藤原道長の嫡妻で、その栄華を導き支えた、黒木華が演じる源倫子(みなもとのともこ、または、りんし)の生涯を取り上げたい。

文=鷹橋 忍 


宇多天皇の曾孫

 源倫子は、康保元年(964)に生まれた。康保3年(966)生まれの藤原道長より、2歳年上である。

 父は、益岡徹が演じる宇多源氏の左大臣源雅信。母は、石野真子が演じる中納言藤原朝忠の娘・藤原穆子だ。穆子の父・藤原朝忠は、三十六歌仙の一人に数えられる歌人でもある。

 さらに、祖父は宇多源氏の祖である敦実親王、曾祖父は宇多天皇、曾祖母は醍醐天皇の生母・藤原胤子という、高貴な家系に生まれた。

 歴史物語である『栄花物語』巻第三「さまざまのよろこび」によれば、倫子は后がね(后の候補者)として育てられたようである。


道長は、倫子の母親に見込まれた?

 倫子と道長が結婚したのは、永延元年(987)年12月16日、倫子24歳、道長22歳のときのことである(『台記別記』久安4年7月3日条など)。

 この当時、最初の結婚においては、夫より妻が年上であることが多かったという(服部早苗『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』)。

 倫子の道長の結婚は、いわゆる「逆玉の輿」だったといわれる。

『栄花物語』巻第三「さまざまのよろこび」には、倫子と道長の結婚の経緯が描かれている。

 道長がどのように倫子を知ったのかは記されていないが、道長は倫子に恋をし、求婚した。

 しかし、倫子の父・源雅信からは、「誰があんな青二才を、婿に迎え入れるものか」と猛反対されてしまう。

 当時、道長の父である段田安則が演じる藤原兼家は、一条天皇(坂東巳之助が演じる円融天皇と、吉田羊が演じる詮子の子)の摂政となっていたが、五男(嫡妻の子としては三男)である道長に政権の座が回ってくる可能性は低かった。源雅信からみれば、道長では不服だったのだろう。

 ところが、倫子の母・穆子が道長を「この君ただならず見ゆる君なり」と評価し、雅信の反対を押し切る形で二人の結婚を進め、実現に至ったという。

『栄花物語』の記述が正しいとすれば、穆子の人を見る目は確かだったといえよう。

 周知のとおり道長は、最高権力者として、摂関政治の頂点に立つことになるのだから。

 倫子との結婚により、宇多源氏の高貴な血統と、経済的支援や政治的後見を手に入れた道長は、栄華への道が大きく開けた。


未曾有の「一家三后」

 道長は結婚してからしばらくの間、倫子や源雅信と穆子、同母妹らが住む「土御門殿」に通っていたようである。

 だが、まもなく倫子の両親と同母妹は一条殿に本宅を移し、土御門殿には道長・倫子夫妻と、二人の間に誕生した子どもたちが居住した。

 倫子は多産で、結婚の翌年である永延2年(988)に、見上愛が演じる長女の彰子、正暦3年(992)に渡邊圭祐が演じる長男の頼通、正暦5年(994)に妍子、長徳2年(996)に教通、長保元年(999)に威子、寛弘4年(1007)には、44歳で最後の子となる嬉子を出産している。

 倫子の産んだ男子は、2人とも関白に就任した。

 女子4人のうち、紫式部が仕えることになる彰子は一条天皇の中宮に、妍子は三条天皇の中宮に、威子は後一条天皇(一条天皇と彰子の子)の中宮となった。

 四女の嬉子は敦良親王(のちの後朱雀天皇)と婚姻し、親仁親王(のちの後冷泉天皇)を産んだが、出産の2日後に19歳で亡くなっている。

 寛仁2年(1018)に威子が中宮に立后された際に、彰子は太皇太后、妍子が皇太后であったため、三后を道長と倫子の娘が占める、未曾有の「一家三后」を成し遂げている。

 道長が、

 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

(この世を、我が世と思う。望月(満月)が欠けることもないと思うから)

 という、かの有名な「望月の歌」を詠んだのは、威子の立后の儀式が終わったあとに催された、土御門第での酒宴の席である。


臣下女性初の准三宮に

 道長の日記である『御堂関白記』には、倫子が道長とともに、内裏を行き来したり、寺社を参詣したり、遊びに出かけたりした、などの記載が頻繁にみられる。『御堂関白記』における倫子の登場回数は、300回を超える。

 倫子は娘の入内に付き従ったり、出産に立ち会ったりするなど娘をサポートし、秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』長和3年(1014)2月9条によれば、内裏が火災した際に、牛車に乗って駆けつけたりもしている。

 道長にとっては、頼りになるパートナーであったことだろう。

 倫子は、寛弘5年(1008)には従一位に叙され、長和5年(1016)には、道長とともに后に准ずる准三宮となり、后と同じように年官・年爵・封戸などの経済特権を得ている。

 臣下女性が准参宮とされたのは、倫子が初めてであった(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』 第四章 東海林亜矢子「正妻源倫子 ◎妻として、母として、同志として」)。


御幸ひ極めさせたまひにたる

『栄花物語』巻第八「はつはな」では、45歳の倫子を、「大勢の子をお持ちだが、20歳くらいにみえる。小柄でふっくらとしており、とても愛らしい容姿で、髪も黒々しており気品が漂い美しい」と賛美している。

 道長も倫子を、「娘である姫君たちに劣らないほど、若々しい。なんといっても髪が美しい」と満足そうな笑みをたたえて、絶賛したことが綴れられている(『栄花物語① 新編日本古典文学集 31』校注/訳 秋山虔 山中裕 池田尚隆 福永進)。

『栄花物語』が事実を語っているとしたら、倫子と道長の夫婦仲は良好だったのではないだろうか。

 万寿4年(1027)、その道長と倫子は死に別れる。倫子、64歳のときのことである。

 道長が死去してからも、倫子は長い年月を生き続け、天喜元年(1053)6月に、90歳の長寿をまっとうした。

 歴史物語である『大鏡』第五巻「太政大臣道長」では、倫子を「御幸ひ極めさせたまひにたる(幸せを極めた)」と称している。

 現在のところドラマの道長は、まひろ(紫式部)に心を寄せているが、今後、倫子に対しては、どのような感情を抱いていくのだろうか。

 できるならドラマの倫子も、幸せを極めたといわれる人生を送って欲しいと、願うばかりである。


【源倫子ゆかりの地】

●仁和寺

 真言宗御室派の総本山。京都市右京区にある。

 創建は仁和4年(888)。平成6年(1994)に、世界遺産に登録された。

 倫子の曾祖父である宇多上皇は、仁和寺で落飾している。

 倫子の御願により、寛弘7年(1010)、観音院潅頂堂が建立された。

『御堂関白記』長保元年(999)7月29日条には、倫子が仁和寺で、父・源雅信の7周忌の法事を営んだことが記されている。

筆者:鷹橋 忍

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