芥川賞の妻と太宰治賞の夫、小説家夫婦の新婚生活は?婚約中に発した吉村昭の「おれは無一文同然だ」発言が事実通りで…

2024年3月9日(土)12時30分 婦人公論.jp


作家の吉村昭さん(写真提供:新潮社)

『星への旅』で太宰治賞を、『戦艦武蔵』や『関東大震災』で菊池寛賞を受賞した吉村昭と、『玩具』で芥川賞を受賞した津村節子。小説家夫婦である2人は、どのようにして結ばれて人生を共に歩んだのか、そして吉村を見送った後の津村の思いとは。今回は、吉村からの熱烈な求婚の末に結ばれた2人の新婚生活の様子を、長男の吉村司さんの言葉と一緒にご紹介します。

* * * * * * *

結婚後、吉村が無一文だと判明


結婚してからわかったことは他にもあった。

吉村が結婚のときに持って来たのは、弁当箱と小さなお釜とヤカンだけだった。吉村は前述の自伝的小説で、こう描写する。

〈「おれは無一文同然だ」
と、圭一は婚約中に春子に告げた。そして、春子も納得したようにみえたが、結婚後春子の告白によると、それが事実通りであることに唖然としたという。〉(『一家の主』ちくま文庫)

言葉の綾ではなく、実際無一文だったのだ。新婚のアパートに持ち込んだのは、〈お釜、薬罐、大型の弁当箱各1個と3000冊の書籍〉だと、吉村は随筆にも書いている。その書籍を売って引越し費用にあてていた。

正真正銘の無一文だとわかり、津村は驚いたと同時に不安にかられただろう。さらに無一文の上に、経済観念もゼロに等しいと指摘している。

〈結婚当初、池袋に住んでいたとき財布の中に110円しかないというのに、50円の地下劇場でやっているチャップリンのモダン・タイムスがまた見たいといい出し、帰えりに残金10円也で油揚を2枚買って夕食のおかずに焼いて食べた。空っぽの財布を振ってみせ、明日からどうするの、といったら、お前も一しょについて来たくせに文句をいうな、とすましていた。〉(「週刊サンケイ」昭和34年11月22日号)

こんなはずではなかったということがこれだけあれば、「結婚サギ」と書かれても仕方ないのかもしれない。


『吉村昭と津村節子——波瀾万丈おしどり夫婦』(著:谷口桂子/新潮社)

大変な男と結婚してしまった


吉村は「ペテン」と題した随筆にこう記す。

〈結婚したらばこちらのものだし、その上で徹底的に教育してやればよいのだ、と私は彼女の言葉など眼中になかった。〉(『味を追う旅』河出文庫)

吉村は世話女房との結婚を切望していた。そのために気難しさも、ものぐさであることもすべて隠し通した。結婚してしまえば、と考えていた。

一方の津村にしてみれば、大変な男と結婚してしまったという思いだろう。

どこかですり替わったのではないか、と津村は『さい果て』に書いているが、すり替わったのは風貌だけではない。流浪の旅の果てに、ここで死んでしまおうかと言うに至るまでの心の動きが、津村の自伝的小説にある。

〈章子は放浪の旅の間に、この男に添う限り、決して平穏な家庭生活は望めぬだろうということを、骨身に浸(し)みて思ったのだった。それと同時に、そんな旅の間中、常に充ち足りた嬉しげな様子をしていた桂策と、ただ一日も早く帰京してアパートに落着きたいと思い暮していた自分との相違を、嫌と言うほど感じさせられた旅でもあった。〉(『重い歳月』文春文庫)

求婚が激しかっただけに裏切られたような気がしたという記述もある。

さい果てへの旅で境地に至った


よく、価値観の相違というが、行商の旅に出る前から、この男と添い遂げられるだろうかという不安があったのだ。それがさい果てへの旅で頂点に達した。

ふと「死」という言葉が口をついて出る境地に至ったのではないか。

津村が当時を思い返して述懐する。

「そのときお腹に司がいたわけですから。ここで死んでしまおうと言っても、子供を抱えたまま死ぬことになる。私が死にましょうかと言ったら、吉村は黙って海を見ていました。彼は死ぬ気なんてなかったから」

吉村は一年ぐらい北海道を旅するつもりだったと、共に芥川賞、太宰治賞を受賞した後の夫婦対談(「旅」昭和54年7月号)で語っている。

「根室の先の花咲では、借りられるような店なんてないんです。だからみかん箱を並べて、戸板を置いて、そこにセーターを並べて売っていました。私がネッカチーフをかぶっていて、その上に雪が積もって真っ白になっていた。それを見て吉村は、俺はお前に一生借りができたなと言いました。苦労をかけて悪いなと思ったんでしょうね」

司が補足して言い添える。

「食事のときに行商の話をすると、親父はやめてくれと言いました。要するに、辛いんですよ。おふくろにそういうことをさせたというのが」

結婚後も小説を書き続けた津村


北へと流れ歩いた行商の旅でも、二人は同人雑誌評が載る「文學界」だけは買っていた。

反対に吉村の側に立ってみると、結婚して想定外だったのは津村が結婚後も小説を書き続けたことだろう。

津村の才能をもちろん認めてはいたが、結婚して家庭に入り、子供が生まれたら小説どころではないはずだ。典型的な世話女房型だと確信していたので、まめまめしく世話を焼いてくれる専業主婦になるだろうと予想していた。

「主婦でない妻」という題で、吉村は次のように記す。

〈結婚は私の方から申込んだが、妻は小説を書きつづけることに理解をもってくれるなら、という条件をつけた。私は、あっさりとその条件をうけいれた。なにを夢のようなことを言っている、家庭に入ればそんな気持は失せるはずだ、とたかをくくっていた。〉(「別冊文藝春秋」昭和51年9月号)

小説を書かせるという約束は、その予測の上に成り立っていたのだ。ところが津村は、子供が生まれても小説を書き続ける。

吉村が団体事務局に勤めていた当時のことだった。ある日の夕方帰宅してアパートのドアを開けると、おんぶ紐で赤ん坊の司を背負った津村が、茶箪笥の上に原稿用紙をひろげて、立ったまま万年筆を走らせていた。赤ん坊を寝かせると泣くので、仕方なく背負ったのだろう。

その姿を見て吉村は立ちすくんだ。

〈それを見たとき、「ああ、もうダメだ」と思った。そんなに一生懸命やってるのを、いくら亭主であろうと拒むことはできないじゃない。〉(「週刊文春」平成12年1月20日号)

この女は何があっても小説を書き続けると、そのとき観念したようだ。だから第二子の誕生と前後して、お手伝いを雇うことにしたのだろう。


机に向かう津村節子さん(写真提供:新潮社)

結婚までに料理修行をしていた津村


家庭生活における吉村の見込み違いは他にもあった。

婚約中に津村は、「ご飯も炊けないし、お味噌汁も作れない」と言っていた。

ところが、伊豆の新婚旅行から帰って、アパートの一室で迎えた朝の食卓には、ベーコンエッグや野菜サラダが並び、津村がとりすました表情で味噌汁を差し出した。

津村が口癖のように言っていたことは嘘だったのか。いや、嘘ではない。九歳で母親を亡くして料理らしいことも教わらず、結婚が決まるまで料理をしたことがなかったのは事実のようだ。

負けず嫌いの津村は、結婚までに密かに料理修業をしていた。料理雑誌を見て大学ノートにレシピを書き写し、ソースやドレッシングの作り方まで独学でマスターしたのだ。

〈……私の最大関心事は、「食べる」ことと「飲む」ことに集中されている。〉(『蟹の縦ばい』中公文庫)

という吉村にとって、これはうれしい誤算だろう。

後年、津村は二日に一度お手伝いと献立会議を開いていた。分厚い献立リストがあり、それを見ながら主菜と副菜を決めていく。料理に関して津村の座右の書は丹羽文雄夫人の『丹羽家のおもてなし家庭料理』(丹羽綾子著、講談社)で、津村は和洋中のおせちまで試して作っている。

日本の四季を愛で、伝統行事やしきたりにこだわった吉村は、食事も和食を好んだのではないかというイメージがある。ところが意外なことに、ステーキやタンシチュー、レバーやいくら、キャビアといった洋食や高カロリーのものが好物だった。

「くいしんぼう亭主」というタイトルで津村が記している。

〈そんな男を亭主に持ったために、私はのべつまくなし、食事のことに追われている。かれは朝食が終ると、昼は何を喰おうかなァ、と言う。昼食が終ると、晩めしは何がいいかなァ、と言う。夕食がすむと、明日の朝は何が喰いたいのかなァ、と言うのである。〉(『風花の街から』毎日新聞社)


妻、津村節子さんにお酌をしてもらう吉村昭さん(写真提供:新潮社)

吉村が外食したときには


編集者らと外で会食した吉村は、帰宅すると、「今夜の献立は何だった?」と必ずきいた。それが好物のものだと、一食損をしたような気分になったらしい。

〈亭主は丈夫で留守がよい、と言うが、わが夫は毎日家にいて、三度三度の食事と晩酌を楽しみにしているので、手のかかることこの上ない。〉(「別冊文藝春秋」昭和51年9月号)

なんのためにお手伝いがいるのだと言いながら、吉村が望んでいたのは愛妻の手料理だった。

「君は、小説さえ書いていればいいのだ」と言われて結婚した津村にとっては、これほどの誤算はなかったかもしれない。

※本稿は、『吉村昭と津村節子——波瀾万丈おしどり夫婦』(新潮社)の一部を再編集したものです

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