劉備の飛躍の土台となった荊州人材と、関羽・張飛たち古参の違い

2025年3月24日(月)5時55分 JBpress

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?


流浪する傭兵軍団のトップ劉備が、天下を狙える男になった秘密

 劉備は161年に生まれ、黄巾の乱(184年)に義勇軍を立ち上げてから、戦乱の中で戦い、各地を流浪していきます。よく知られたことですが、劉備が天下の一角を担う勢力となったのは、彼の晩年の頃であり、劉備は遅咲きの英雄だったといえます。

 袁紹と曹操が激突した官渡の戦い(200年)で袁紹が敗れたことで、劉備は荊州の劉表の元に身を寄せています。劉表が支配していた荊州は比較的安定した時期が長く、後漢王朝の崩壊の戦火を避けた優秀な人材が荊州に集まっていたのです。

 この隠れた人材の宝庫に劉備が飛びこんだことが、のちの劉備軍団の隆盛を生み出します。そのきっかけを作ったのは、諸葛亮を劉備に紹介した徐庶であり、当時すでに歴戦の武将だった劉備が、(当時は)実績のない天才諸葛亮を三顧の礼で迎えた劉備の謙虚さでした。

 もし、袁紹が敗れた時に、劉備が逃げ込んだ先が荊州でなければ、劉備は歴史に蜀の皇帝として名を残すことはなかったかもしれません。その意味で「優れた人材の宝庫(荊州)」に劉備が飛び込んだことは、彼と軍団の飛躍の可能性を劇的に高めたのです。


劉備の古参の部下たち、関羽、張飛、簡雍、劉琰、孫乾、麋芳、麋竺の特徴

 荊州以前から劉備に付き従って来た古参の家臣たちに、有名な人物で関羽、張飛、簡雍、孫乾、麋竺、麋芳、劉琰などがあります。彼らは劉備の傍にいた期間が大変長く、苦難を重ねた流浪の旅を劉備とともに歩みました。

 関羽、張飛が劉備と人生を共にした期間は30年を超えます。劉備の若いころからの知り合いとされる簡雍も、関羽・張飛と同じころから劉備と共に歩んでいた可能性があります。劉琰、孫乾なども、赤壁の戦い(208年)までに、10年以上劉備に付き従っています。

 一方で、突出した武力を持つ関羽、張飛以外のこれら古参の家臣たちには、ある特徴があります。劉備が天下の一角を狙うほどの勢力になったとき、実務上の役職を(実際上)ほとんど与えられなかったことです。彼らは、名目的には最上位の役職を得ながらも、実務で指揮を執るのではなく、劉備の賓客扱いだったのです。

 このことから、劉備の古参の家臣たちは、集団を組織化する技量がなく、また組織で行動することの意義をあまり体現できないタイプの人物だったと推測できるのです。


徐庶という異端者:剣客で任侠的な人生から、学究の徒に変わった人生

 よく知られていることですが、荊州で髀肉の嘆をかこっていた劉備に、臥龍としての諸葛亮を紹介したのは徐庶という人物です。諸葛亮のことを伝え、なおかつ三顧の礼で迎えることを劉備に勧めたのも徐庶です。

 徐庶との出会いが劉備になければ、その後の飛躍もなかった可能性があります。注目すべきことに、徐庶という人物は特殊な経歴を持っています。人のかわりに仇討ちをして逮捕され、処刑前に仲間に助けられたことで何かを感じ、剣を置き学究の徒になり、諸葛亮と知り合っているのです。

 徐庶は207年前後に、新野に駐屯していた劉備を訪ねています。しかし、もし徐庶が諸葛亮たちと同じように、人生の最初からほぼ学究の徒か、徹頭徹尾の組織人だったとしたら、傭兵的な軍団の劉備たち(関羽、張飛など)に近づけなかったのではないでしょうか。

 徐庶が無法者のような前半生を送りながら、その途上で学問の道を志したことから、劉備とその主従のような任侠集団的な感覚を肌で持ち、学者や官僚などの知識人との間を取り持つことができたと推測できるのです。

 劉備主従の結束はあまりに固く、任侠的な感覚を伴うものだったことで、初期の彼らには知識人が本格的に交わることができなかった。例えば、劉備が公孫瓚の元にいた時期に一緒にいた田豫という人物は、2年後には劉備とたもとを分かち、公孫瓚⇒曹操陣営で組織人としての人生をみごとに全うしています。

 田豫は戦闘指揮官、行政官として極めて優秀な人物として事績を残しています。彼が能力不足だったとは考えにくく、194年前後の劉備軍団には、大成するために「何かが欠けている」と田豫は判断したのではないでしょうか。

 徐庶という戦国の世における任侠集団(劉備たち)と感覚を同じくする人間が橋渡しとなり、なおかつ諸葛亮の「天下三分の計」という将来への設計図、大戦略ができたことで、初めて荊州を含めた知識人、組織人への求心力を持つことができたと推測できるのです。

【劉備が獲得した主な荊州人材】

・龐統・馬良・向寵・魏延・霍峻・伊籍・楊儀・蔣琬など

 これらの人材は、のちに軍事行政において蜀の中心的な役割を担う者たちとなりました。これらの組織的な実践力は、荊州に入る以前の劉備軍団には完全に欠けていたものだと判断できるのです。


現代企業、急成長するベンチャー企業にも必要な「人材の集積地」

 現代企業においても「人材の集積地」は非常に重要な意味を持ちます。書籍『GAFA 四騎士が創り変えた世界』(東洋経済新報社)の著者スコット・ギャロウェイは、同著で急成長した4社の共通項8つのうち、その一つに「地の利」を挙げています。

 この「地の利」とは、毎年一流の人材を輩出する全米でも有名大学の近くに拠点を持ち、毎年最優秀の人材を採用できていることを意味します。新進気鋭のベンチャー企業でさえ、「人材の集積地」を利用することは、急成長を維持するために不可欠なことなのです。

 一方で、いくら人材の集積地にいても、実際に最優秀の人材を吸引できるような魅力が企業側になければどうしようもありません。劉備陣営でいえば「人材の橋渡し役(徐庶)」「未来の壮大な事業計画(諸葛亮)」の両輪があって、初めて一流の人材を確保できたのです。

 荊州に次いで、益州でも劉備軍団は優秀な人材を確保できました。しかしその成果は、諸葛亮を筆頭に、優れた人材に対する求心力を持つ集団に生まれ変わったことで実現できたことなのです。これは現代企業の人材採用にも、大きく共通するテーマだと思われるのです。

筆者:鈴木 博毅

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