ヒルマ・アフ・クリントは抽象画のパイオニアなのか?時代に埋もれていた女性画家の世界を驚愕させた才能の全貌
2025年3月28日(金)6時0分 JBpress
(ライター、構成作家:川岸 徹)
死後70年を経て、世界がようやく発見した画家ヒルマ・アフ・クリント。彼女の作品は米ニューヨークのグッゲンハイム美術館で大きな評判を呼び、英ロンドンのテート・モダンなど世界各国の名門美術館が競い合うように展覧会を開催している。アジア初の大回顧展「ヒルマ・アフ・クリント展」が東京国立近代美術館で開幕した。
21世紀に、ついに大ブレイク
今春、最も重要といえる展覧会が東京国立近代美術館で開幕した。スウェーデン出身の女性画家ヒルマ・アフ・クリント(1862-1944)の大回顧展だ。「誰、それ? 初めて聞く名前」という人も少なくはないだろう。だが、勉強不足だと気にする必要はまったくない。
本展の企画を担当した東京国立近代美術館美術課長・三輪健仁氏は話す。「ヒルマ・アフ・クリントは作品やノートなどの資料をすべて甥に預け、“死後20年は作品を公開しないでほしい”と希望していたと言い伝えられています。
彼女の名は長く埋もれ、ようやく没後40年が経過した1986年に、ロサンゼルス・カウンティ美術館で行われた「芸術における霊的なもの——抽象絵画1890−1985」展でいくつかの作品が紹介されます。ただし、これもアフ・クリントの名を美術史に定着させるまでには至りませんでした。それが21世紀に入って急速に評価が高まり、現在大ブレイクしているのです」
ブレイクのきっかけは2013年にストックホルム近代美術館で開幕し、ヨーロッパを巡回した「ヒルマ・アフ・クリント:抽象のパイオニア」展。アフ・クリントの画業の全貌を明らかにする試みで、今日の評価が形成される礎となった。そして2018年、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催された回顧展「ヒルマ・アフ・クリント:未来のための絵画」で一気にブレイク。同展はグッゲンハイム美術館史上最大となる60万人以上の動員を記録した。
ヒルマ・アフ・クリントは一躍“時の人”となり、伝記やカタログ・レゾネ、関連書籍が次々に刊行。世界各国で展覧会が相次いで開催され、2019年には映画『見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界』も制作されている(日本公開は2022年。現在、展覧会開催に合わせてユーロスペースで再上映。配給:トレノバ)。そうした状況の中、東京国立近代美術館も5年前に展覧会の開催に向けて動き出したが、「その時点で、先々まで世界中で展覧会の予定が詰まっていたため、やっと今回の実現になりました」(三輪健仁氏)という。
アフ・クリントが世界を魅了する理由
時代に埋もれていたアーティストが何かのきっかけで再評価されるのは珍しいことではない。だが、ここまでの一大ムーブメントになるとは、誰が想像しただろうか。アフ・クリントが人々を魅了する理由はいったいどこにあるのか。
まずは、何はおいても「作品がもつ力」だろう。ヒルマ・アフ・クリントはスウェーデンの裕福な家庭に育ち、王立芸術アカデミーを優秀な成績で卒業。写実的な風景画や肖像画、児童書の挿絵などを手がける職業画家として活動した。一方で、アフ・クリントは知識人の間で流行していた神秘主義などの秘教思想やスピリチュアリズムに傾倒。交霊術により精霊とつながり、いわばオートマティスム的に作品を制作するなど、アカデミックな絵画とは異なる抽象表現を試みていく。
物質世界を超越し、精神的なヴィジョンを描き出すことに精力を注ぐアフ・クリント。その到達点、あるいは最大の成果といえるのが「神殿のための絵画」だ。これは自身が構想する架空の神殿を飾るために、約10年をかけて描いた193点からなる作品群。善と悪、男性と女性、物質と精神など、二元性に引き裂かれた力を結びつけ、世界のはじまりにあった「単一性」を再び実現する。そんな神智学的な概念が、抽象表現の技法を用いて示されている。
代表作〈10の最大物〉が見逃せない
今回の展覧会にあたって、「神殿のための絵画」の中で最大の大きさを誇る〈10の最大物〉が来日。高さ約3.2メートル、幅約2.4メートルの巨大な絵画10点の連作で、青、水色、オレンジ、紫、ピンクなど淡い光を放つ色面に、輪、円、矩形、螺旋形、曲線、花、葉、巻きひげなどのモチーフに加え、装飾的な文字や形象が浮かんでいる。
10点の各作品には人生にちなんだおおまかなテーマが設けられており、〈幼年期〉2点、〈青年期〉2点、〈成人期〉4点、〈老年期〉2点という構成。明確なモチーフは描かれていないが、色合いのせいなのか、〈幼年期〉2点からは生まれたてのみずみずしい印象を、〈老年期〉2点からは寂しさのようなものを感じた。
展示手法もいい。美術館では〈10の最大物〉10点の展示のために展示室1室をあてがい、ぐるりと一周、10点の作品をエンドレスに見て歩くことができるようにした。つまり幼年期から老年期までを体験し、老年期の次は再び幼年期が始まる。命の循環や輪廻を感じられる展示といえよう。
彼女は抽象画のパイオニアか?
もうひとつ、現在のヒルマ・アフ・クリント人気に拍車をかけているのが、「アフ・クリントが抽象絵画の最初の存在であるか」という論争だろう。「最近のアフ・クリント展では“カンディンスキーに先駆けて抽象絵画を描いたパイオニア”といった言葉が売り文句として使われてきた。それが人々の関心を引いていることは間違いない」(三輪健仁氏)。
近代美術史の世界では、「1911年にカンディンスキーらが青騎士展を開催し、抽象画というジャンルを誕生させた」というのが、MoMA(ニューヨーク近代美術館)も認める“正しい歴史”として定着している。だが、アフ・クリントが「神殿のための絵画」の制作にあたり、抽象表現を用いたのは1906年のこと。「神殿のための絵画」を抽象画とするならば、パイオニアはアフ・クリントということになる。
この見解が正当かどうか、論争が巻き起こっている。「女性であるため正当な評価が得られてこなかったし、現時点でも得られていない」というジェンダー論の視点での意見もあるし、「霊的なものに依頼されて描いたオカルト性の強い作品を美術史の中で語るべきか」といった声もある。
「これまでの美術史に、“スピリチュアリズムの強い影響のもとで制作されたものを美術と呼べるのか”という見方があったのは事実。神秘主義と美術の関係性を、美術史上にきちんと位置づけることはいまだに難しい問題だが、ヒルマ・アフ・クリントの登場によって美術史が書き換えられるのだとしたら、それは一体どのような書き換えなのかを含めて、今後丁寧に検証していく必要がある。日本での展覧会がこうした課題の解決を少しでも前進させることにつながればうれしい」(三輪健仁氏)。
今言えるのは、ヒルマ・アフ・クリントの作品には世界を夢中にさせるだけの「力」があるということ。彼女の唯一無二のヴィジョンは、永遠に見つめていたくなるほど神秘的だ。
「ヒルマ・アフ・クリント展」
会期:開催中〜2025年6月15日(日)
会場:東京国立近代美術館 1F 企画展ギャラリー
開館時間:10:00〜17:00(金曜日、土曜日は10:00〜20:00) ※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日、5月7日(水) ※ただし3月31日、5月5日は開館
お問い合わせ:ハローダイヤル 050-5541-8600
https://art.nikkei.com/hilmaafklint/
筆者:川岸 徹