最愛の人が我が子を抱くことなく旅立ち『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子は悲しみのどん底に…「彼女の苦境をふっとばしたい」と服部良一が決意したこととは【2025編集部セレクション】
2025年4月17日(木)12時30分 婦人公論.jp
穎右と結婚をして子供を産み、家庭に入ることを決意したシヅ子でしたがーー(写真提供:Photo AC)
2024年上半期(1月〜6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年2月2日)
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NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく「シヅ子は穎右と結婚をし、子供を産み、家庭に入ることを決意した」そうで——。
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箱根へ
将来を約束した笠置シヅ子と吉本穎右は、晴れて一緒になる日を夢見て、互いに忙しい日々を過ごしていた。
エノケンとの初共演「舞台は廻る」を終えたシヅ子は、1946(昭和21)年5月に穎右と、マネージャーの山内義富と三人で箱根に静養に出かけた。
そこで穎右は来月早々、大阪に戻って、シヅ子とのこと、これからの仕事のことを「なるべく早く適宜に処理します。あとのことは、どうかよろしくお願いします」と山内に頼んだ。
その後、準備を整えた穎右は大阪へ帰ることに。6月16日、シヅ子は山内とともに、琵琶湖まで見送った。
湖畔の宿で一夜を過ごし、翌朝、大津駅での別れ際、穎右は「では、ちょっと行ってくるさかい……秋には東京へ帰れるやろ」と車窓から手を振った。
しかし、それが永遠の別れになるとは、シヅ子も穎右も思ってもいなかった。
この頃、すでに穎右は、学生時代に患って完治していなかった結核が再発していたのである。
穎右の子を宿す
それからのシヅ子は多忙を極めた。「スウィングの女王」の完全復活に、戦前からの贔屓、戦後になってからのファンが喝采を送っていた。
9月18日から、有楽町・日劇で、シヅ子をメインにしたレビュー・ショウ「スヰング・ホテル」(作・演出・金貝省三、音楽・谷口又士ほか)が開幕した。
『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(著:佐藤利明/興陽館)
共演は、戦前から活躍していたハワイ生まれの日系ダンサーで歌手のヘレン本田、戦前の日活京都のトップスターだった深水藤子、そして、シヅ子の後輩でもあるSKDの星光子。
この華やかなステージが千秋楽を迎えたのが10月7日。
この頃、シヅ子は妊娠に気づく。穎右の子を宿していたのだ。シヅ子は、穎右と結婚をして、子供を産み、家庭に入ることを決意したのである。
さて、服部良一もまた音楽家として多忙な日々を送っていた。
1946年3月、コロムビアから柴田つる子と岡本敦郎の「青春プランタン」(作詞・サトウ・ハチロー)、5月にはエノケンと池真理子の東宝映画主題歌「幸運の仲間」(同)、7月には二葉あき子と近江俊郎の「黒いパイプ」(同)、11月には藤山一郎の「銀座セレナーデ」(作詞・村雨まさを)と次々とレコードをリリース。
特に「黒いパイプ」と「銀座セレナーデ」は大ヒット、服部はレコード、舞台と大忙しだった。
ジャズ・カルメン
この頃、服部は、名作オペレッタをジャズ・ミュージカル化しようと音楽的な野心を燃やして、東宝のプロデューサーに提案。
それが1947(昭和22)年1月28日からの日劇公演「ジャズ・カルメン」として実現した。
この時、シヅ子は妊娠6ヶ月だった(写真提供:Photo AC)
演出は宝塚歌劇を育てた白井鐡造、振付はベテラン舞踊家・益田隆。
カルメン(笠置)、ホセ(石井亀次郎)、エスカミリオ(林伊佐緒)、ミカエラ(服部富子)、ラスキータ(暁テル子)のキャスティング。
服部の自伝「ぼくの音楽人生」(93年・日本文芸社)から引用する。
「そのころ、笠置君は、吉本興業の社長の子息で早稲田の学生だった吉本穎右君と相思相愛の仲になっていた。先方の親の反対で正式結婚は難行していたが、状況は好転していた。結婚を前にして、最後の舞台では、はなばなしくカルメンを演じたいという彼女の懇望に、ついにハラボテ・カルメンとなって日劇に現われたわけである。」
服部渾身の「ジャズ・カルメン」は、もともと1946年9月に上演予定で準備が進められていたが、東宝の組合ストライキで延期になっていた。
穎右は、身重な身体ではもしものことがあったらと心配、しかし主治医・櫻井先生が楽屋に詰めて、何かあればすぐに対応することで、シヅ子も出演を決意。カルメンを演じることへの情熱が湧き上がってきたのである。
この時、シヅ子は妊娠6ヶ月だった。
最愛の人との別れと新たな生命
シヅ子は、石井亀次郎のドン・ホセを向こうに回して、ジャズ・アレンジされた「ハバネラ」や「闘牛士の歌・トレアドール」をスウィンギーに、パワフルに熱唱した。
とはいえ舞台の袖では主治医・櫻井先生、マネージャーの山内が固唾を飲んで見守る毎日だった。
このカルメンの上演中、穎右は上京の予定だったが、それも叶わずに、シヅ子は臨月を迎えた。しかし穎右は、治療の甲斐もなく、1947年5月19日、23歳の若さで旅立ってしまった。
シヅ子は深い悲しみのどん底に突き落とされてしまった。最愛の人・穎右が我が子を抱くことなく亡くなってしまったのだ。
シヅ子は病室の机に穎右のポートレートを飾り、穎右が着ていた浴衣を部屋にかけ、最愛の人を思いながら6月1日。女の子を産んだ。愛娘・亀井ヱイ子である。
シヅ子は愛娘のためにも、穎右のためにも、そして自分のためにも、泣いてばかりではいけない。一日も早くステージにカムバックしようと決意した。
早速、シヅ子は服部良一に、いつもの明るい笑顔で「センセたのんまっせ」と頭を下げた。
そこで服部は「彼女のために、その苦境をふっとばす華やかな再起の場を作ろうと決心した」(「ぼくの音楽人生」93年・日本文芸社)。
何か明るいもの、心ウキウキするものをと、笠置シヅ子の新曲を書くことにした。
※本稿は、『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(興陽館)の一部を再編集したものです。
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