「北海道」の名付け親である探検家・松浦武四郎とはどんな人?その偉業と、絵師・河鍋暁斎との意外なつながり

2024年4月23日(火)8時0分 JBpress

幕末から明治期に活躍した絵師・河鍋暁斎と、探検家、好古家、著述家の松浦武四郎。2人の偉業と交流を紹介する展覧会「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎《地獄極楽めぐり図》からリアル武四郎涅槃図まで」が静嘉堂@丸の内にて開幕した。

文=川岸 徹


探検家・松浦武四郎とは?

 蝦夷地と呼ばれていた北の大地に「北海道」という名称が付けられたのは、明治新政府が発足して間もない1869(明治2)年8月15日のこと。名付け親は松浦武四郎なる人物だ。

 武四郎は伊勢国須川村(現在の三重県松阪市)の下級武士の家に生まれ、13歳から3年間、平松楽斎に付いて儒学を学んだ。16歳の時から全国各地を旅するようになり、17歳から9年間は一度も故郷に帰ることなく各地の名所や旧跡を訪ね歩いたという。

 そんな武四郎が長崎を訪れた際、蝦夷地について気になる話を聞いた。「蝦夷地はロシアをはじめ、諸外国による侵略的危機にさらされている」と。武四郎は幕府の領地でありながらその実情がよく知られていなかった蝦夷地を調査し、対策を練るべきだと考える。

 28歳になった武四郎は、1845年(弘化2)、蝦夷地へ第1回目の探検に赴く。以降41歳までの間に合計6回の調査・探検を行い、その結果を151冊に及ぶ書物にまとめた。そこには蝦夷地、樺太(現在のサハリン)、国後島、択捉島の地理や自然のほか、アイヌ民族の文化や暮らしぶりなどが詳しく記されている。


北海道ではなく「北加伊道」

 武四郎が最後の蝦夷地探検を終えてから10年。1868年に江戸幕府は終焉を迎え、明治新政府が誕生。蝦夷地に開拓使が新設され、武四郎は「蝦夷地開拓御用掛」に任命された。任についた武四郎は、蝦夷地の新しい名前を考案。明治新政府に「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6つの案を提出した。

 選ばれたのは「北加伊道」。“加伊”とはアイヌ民族の言葉で、蝦夷地やそこに住む人たちのことを指す。武四郎は探検に協力的で、いつも道案内役を務めてくれたアイヌの人たちに敬意を払い、“アイヌ民族が暮らす場所”という意味を込めて「北加伊道」と名付けたのだ。

 だが、明治新政府は「北加伊道」の“加伊”を“海”に変え、「北海道」と命名。政府は蝦夷地をアイヌの場所ではなく、日本固有の領土とし、アイヌ民族の同化政策を進めたかったのである。

 武四郎は『近世蝦夷人物誌』という書物で、アイヌの人たちが松前藩や和人による圧制に苦しむ様子を記した。だが、出版の要望は却下。また、アイヌの人たちの暮らしが楽になるようにと場所請負制の廃止にも努めた。表向きは廃止になったものの、制度は名称を変えて事実上存続。こうしたことに失望し、武四郎は開拓使の職を辞し、従五位の地位を返上。以降、武四郎は「馬角斎」の号を用いて、著述、出版、古物蒐集に情熱を傾けることになる。


武四郎のご近所さん、河鍋暁斎

 さて、松浦武四郎の人生に、絵師・河鍋暁斎がどう関わってくるのか。それが今回の展覧会「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎」のテーマだ。

 幕末に生まれた河鍋暁斎は6歳で浮世絵師・歌川国芳に入門、9歳で狩野派に転じ、その早熟かつ天才的な画力から狩野派の師・前村洞和から「画鬼」と呼ばれた。人物画、風俗画、美人画、花鳥画、山水画、幽霊・妖怪画、戯画となんでも描くことができ、しかも筆が速くて正確。人物や生き物の一瞬の動きを巧みに捉える表現力は、海外でも絶賛されている。ちなみに現在のイギリスでの人気は日本以上と思えるほど高い。展覧会が相次いで開催され、漫画家たちは暁斎作品を参考にし、暁斎の絵を集めた“タトゥーの図案書”まで発行されている。

 そんな河鍋暁斎は、松浦武四郎と“ご近所さん”だった。明治の初め頃、暁斎は湯島に、武四郎は馬場先門の角の岩倉邸長屋に、明治6年からは神田五軒町に居住。気軽に行き来する仲だったという。

 武四郎は暁斎の画力を高く買っており、自分の書物に挿絵を描いてほしいと依頼。暁斎は明治5年に蝦夷地の探検記である『西蝦夷日誌』に、明治10年には武四郎のコレクションをまとめた図録『撥雲余興(はつうんよきょう)』に挿絵を描いた。そして明治14年、暁斎は《武四郎涅槃図》の依頼を受ける。


画中に登場する古物を合わせて展示

 本展のハイライトは、何といってもこの《武四郎涅槃図》。釈迦が入滅するときの様子を描いた「涅槃図」の形式を取ってはいるものの、驚くべき大胆なアレンジが施されている。涅槃に入る釈迦は、胸に自慢の大首飾りを、腰に愛用の煙草入れを付けた松浦武四郎の姿。その周りには本来描かれているはずの釈迦の弟子や十二支の動物たちに代わり、武四郎が集めた愛玩品が描き込まれている。

 木彫の《聖徳太子像》、富士山を眺める《西行法師坐像》、米俵に乗り小槌を持った《鉄製大黒像》、さらにはエジプト新王国時代(紀元前14世紀)につくられた《シャブティ》(死者が冥界において課される仕事を代行する人をかたどった小像)も。天上から雲に乗って駆け付けるのは摩耶夫人一行ではなく、古画から抜き出した遊女たちだ。こうした武四郎のコレクションの品々が、《武四郎涅槃図》と合わせて展示されている。

 なんとも風変りで、武四郎の洒落が感じられる涅槃図。だが、単なる“おふざけ”で終わらないのは、やはり暁斎の画力によるところが大きい。それぞれの古物の特徴を捉えながらも、そこに悲しみの表情を与え、涅槃図ならではの厳かな空気感を醸し出している。

《武四郎涅槃図》の完成に暁斎はあしかけ6年の時間を費やした。武四郎は新しく入手した古物を書き加えるように指示したり、時にはダメ出ししたりすることもあったらしい。後年、暁斎は自身の日記『暁斎絵日記』の中で、松浦武四郎を「いやみ老人」と記した。

 展覧会には、暁斎の代表作《地獄極楽めぐり図》も出品されている。暁斎の奇想天外な画力と卓越した色彩感覚を堪能できる逸品。13歳年上の武四郎が暁斎の才能に惚れ、人生の集大成といえる涅槃図を依頼したくなる気持ちがよく分かる。

筆者:川岸 徹

JBpress

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