個性的な櫓が木造復元された津山城の最大の魅力とは?堅固な石垣、城全体が巨大な迷路と化した鳥肌ものの縄張

2025年4月25日(金)6時0分 JBpress

(歴史ライター:西股 総生)

はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は、岡山県津山市にある津山城について、研究者ならではの見方をご紹介します。


堅固な石垣で丹念に覆い尽くした津山城

 津山へは、岡山からJR津山線の各駅停車で1時間半ほど。うまく快速に合わせられればもう少し速いけれど、津山線には特急も急行もないから、山あいの小さな集落を縫うように、コトコト揺られて行くしかない。

 でも、その分、備前と美作との距離を「量」として実感できる。何より、狭い谷がぱあっと開けて、津山の街が見えてきたときの有難味というか、ワクワク感みたいなものは独特のものがある。なるほど「美作の小京都」と呼ばれたわけが腑に落ちる。その小京都の真ん中の小高い丘を、堅固な石垣で丹念に覆い尽くしたのが、津山城である。

 津山城を築いたのは森忠政という人だ。忠政は、織田信長の小姓として有名な森蘭丸の弟で、関ヶ原合戦の戦功によって信濃松代12万石から加増されて、18万6千石余をもって美作に入り、元和2年(1616)までかかってこの城を築いた。

 森家は、斎藤道三・織田信長・豊臣秀吉に仕え、武勇で鳴らした家である。忠政は、この家の6男であったが、上の兄たちが本能寺の変やら小牧長久手の合戦やらで次々に討死したため、森家を継いで松代に封じられていたのである。津山築城に足かけ12年を要しているのも、駿府城・丹波篠山城・名古屋城・江戸城などの天下普請や大坂の陣に、相次いで駆り出されていたためである。

 天下普請というと、徳川幕府が外様大名を消耗させるために動員したイメージで考える人がいるかもしれない。でも、普請役とは本来は軍役の一種であるから、重要な城の普請役を課されるというのは、築城の手腕を見込まれてのことである。この時代の武将にとって、堅固な城を手際よく築くスキルというのは、武勇の重要な構成要素に他ならなかった。

 そんな森家が築いた津山城は、見るからに金城鉄壁。盆地の真ん中にある丘の全体を石垣で覆っているから、反り返った高石垣が雛壇状に重なって見える。城内に歩を進めてみると、本丸までは枡形につぐ枡形の連続で、城全体が巨大な迷路と化している。 

 二ノ丸から本丸に入る表鉄門の付近など、枡形の連鎖だけでも充分堅固なのに、横に隠し虎口が忍ばせてあって、本丸の裏口から狭い通路が続いている。表鉄門の突破をはかる敵に対して逆襲部隊を繰り出して、横合いから突き崩す仕掛けである。これは分かると鳥肌ものだから、ぜひ現地で自分の目で確かめてほしい。

 天守の回りを囲って天守曲輪とし、電子回路みたいな迷路にした執拗さにも恐れ入る。森家の石高から考えて4000〜5000くらいの兵力で守る前提なのだろうが、それだけの守備兵が配置されていたら、とても攻略できそうもない。 

 津山城の本丸には、備中櫓という個性的な姿の櫓が木造復元されていて、観光パンフやポスターには備中櫓が大きくあしらわれている。市や観光協会としては、せっかく復元したのだからウリにしたい、という事情はわからなくもない。でも、この城の最大の魅力は石垣と縄張の凄まじさなのだから、もっとそちらが伝わる工夫をしてほしいものだ。

 そんな森家の治世も、元禄10年(1697)には継嗣を得られず、4代95年で断絶してしまう。跡には松平家が10万石で入って、維新まで9代を治めた。

 久しぶりに津山城を訪れてみて、筆者には石段の美しさが印象に残った。城が廃墟となって森家の武勇も過去のものとなり、血腥さを感じさせるまでの精緻な縄張も浄化されて、ただ風だけが石段を吹き抜けているのである。

筆者:西股 総生

JBpress

「魅力」をもっと詳しく

「魅力」のニュース

「魅力」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ