今はなき「九龍城砦」のリアル、アヘン窟と化した“闇”と、独自の秩序を持った“光”、そして終焉へ

2025年4月25日(金)6時0分 JBpress

(みかめゆきよみ:ライター・漫画家)


戦後の「九龍城事件」

 戦後間もない1947年、香港政庁は九龍城砦内に新たに建設された木造建築を取り壊すように通告した。しかしこれに中国政府は異議を唱えた。日本軍統治時代に城砦が取り払われているとはいえ、「特別条項」は生きていると主張したわけだ。

 香港政庁は強引に策を進め、木造建築を70軒ほど撤去したが、これに住民たちは反発し、抗議運動へと発展していった。この事件が広まると中国全域でイギリスに対する抗議デモが巻き起こった。香港政庁は争いを回避するため、九龍城砦には触れず、九龍城砦以外の地域の開発を進めていった。こうして「先進的な香港」ができあがっていったわけだが、この流れに乗れない貧困層が九龍城砦に逃げ込み、我々がイメージする「九龍城砦」を作り上げていくのである。




アヘン窟と化した九龍城砦

 1949年、中華人民共和国が成立すると、中国から香港へと逃れる難民の数が大幅に増加した。1950年の末には人口が200万人にも膨れ上がっていた。また、1966年から「文化大革命」が起こり、多くの難民が押し寄せた。九龍城砦にも多くの難民が流れ込み、違法建築がそこかしこにできあがった。香港政庁が九龍城砦の取締りに失敗して以降、城砦内はアヘンや賭博や売春が横行する危険な地域になっていた。この混乱に乗じて黒社会(いわゆるヤクザ)も押し寄せて汚職官員と裏取引をしながらアヘンや賭博でボロ儲けするようになっていったという。

 

 九龍城砦は危険なところであるという印象は、この50年代から60年代頃の印象によるものである。ストリップショーを見せる小屋が作られ客寄せをし、集めた客を賭博や麻薬、犬食へと引き込むといった手法が横行していたという。

 長野重一氏が1958年に撮影したアヘン窟の写真から当時を知ることができる。無気力に横たわる男性数名が、アヘンを炙る炎にうっすらと照らされている様子がそこかしこに見られたのであろう。九龍城砦内の東には南北に繋がる「光明街」という通りがあるが、その名の由来は昼夜問わずアヘン窟のテーブルに蝋燭の火が灯っていたからだという。名前に反して実に希望のない話である。この頃の九龍城砦は東西に分かれており、アヘンや賭博が横行していたのが東地域、西地域は善良な人々の居住区であったという。




高層マンションが乱立する「城砦」へ

 1970年代に入ると反汚職、反麻薬運動が進められた。ヤクザたちは九龍から撤退し、その際に家を売り払った。これを一部の投資家が買い上げて高層ビルに建て替えていき、「あの」九龍城砦の姿へと変わっていったのである。九龍城砦は行政の建築条例の拘束を受けなかったため、巨大かつ自由なビルを建てることができた。だがおのおのが自由に造りすぎた結果、「一度入ったら二度と出ることができない」魔窟と化してしまったのだ。

 こうしてできあがった「要塞」に、多い時は5万人が住んでいた。高さの基準もまちまち、土地の高低差もあり、1階を歩いていたと思ったら別の階にいた、なんてこともザラにあったという。通りに太陽の光はほとんど入らず、天井の無数に引かれた電線がわずかな光も遮った。香港政庁が給水栓を設置したが建物内には1箇所しかなく、住民たちは水を汲むために列をなした。

 城砦は住居だけでなく様々な店が軒を連ねていた。香港で消費される魚団子と肉団子はほぼ九龍城砦で作られていて、一流ホテルにも卸されていたともいわれている。

 また、九龍城砦といえば町医者の看板の写真をよく見かけるのではないだろうか。歯医者を筆頭に多くの医者がいたが、彼らは中国準拠の教育を受けた者たちで、香港政庁下では医師免許を取得することができなかった。ゆえに九龍城砦に集ったというわけだ。
 

 このような混沌の中にも独自の秩序があった。2回目でも軽く触れたが、城砦の中心部には学校も老人ホームも青年ホームもあった。このあたりは城砦時代の面影を残した地区であり、建物も低く、唯一光が差し込む場所でもあった。住民たちが集まる憩いの場であったのだ。


城砦の終焉へ

 独特の文化を完成させていった九龍城砦だが、終わりの時は近づいていた。1970年代から香港は大きな時代の流れにあった。1972年に米中、日中国交が回復し、国際情勢も大きく変化していった。その中で1982年にはイギリスの首相サッチャーが香港問題に大きく切り込んでいき、1984年には英中共同宣言が調印され、香港は1997年に正式に返還されることとなった。そこでにわかに巻き起こったのが九龍城砦問題である。

 香港政庁は1987年に九龍城砦を取り壊すことを発表した。住民の反対もあったが、1992年には立ち退きが完了し、1993年から1994年にかけて解体工事が行われた。そして現在は静かな公園に姿を変えた。公園内には清代の役所が復元されている。アヘン戦争以降、イギリスの植民地と化した香港が失った年月を象徴するかのようである。


 今となっては写真集などでその面影を辿るしかない。しかし九龍城砦は確かにそこにあり、そこには多くの人々の生活があった。人と人とが交わらなければ生活することは叶わなかったであろう、密度の濃い空間。我々が九龍城砦に惹かれてしまうのは、その密度によるところが強いのではないかと思う。濃密な人と人との繋がりを、現代を生きる我々も求めているのかもしれない。今もなお映画や漫画などのコンテンツを通して九龍城砦が語られているのは、人が普遍的に求めるものを今は無きその場所に求めるがゆえなのではないかと思う。

参考文献
九龍城寨の歴史 魯金著 倉田明子訳 みすず書房
香港の歴史 ジョン・M・キャロル著 倉田明子、倉田徹訳 明石書店
最期の九龍城砦 中村晋太郎 新風舎
大図解九龍城 九龍城探検隊 岩波書店
日本占領下の香港 関 礼雄著 林 道生訳 御茶の水書房
香港追憶 長野重一 蒼穹舎

筆者:みかめ ゆきよみ

JBpress

「リアル」をもっと詳しく

「リアル」のニュース

「リアル」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ