群ようこ68歳にしてお茶を習う。御菓子を二口で、畳半畳は三歩で。面倒だからずっと薄茶点前のお稽古のみ。同じ茶道でもそれぞれで
2024年5月3日(金)12時30分 婦人公論.jp
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文化庁の生活文化調査研究事業(茶道)の報告書によると、茶道を行っている人が減少する中、平成8年から28年の20年間で70歳以上の茶道を楽しむ人は増加し続けているという。人生100年時代の到来で、趣味や習い事として茶道に触れる機会が増えていると考えられる。そんな中、68歳にしてお茶を習うことになった、『かもめ食堂』『れんげ荘』などで人気のエッセイスト・群ようこさん。群さんが体験した、古稀の手習いの冷や汗とおもしろさを綴ります。茶道の魅力に夢中になっていくものの、覚えることの多さに失敗も続く群さん。それでも、恥をかくのもお稽古のうちと、諦めることができるようになったのは——。
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人前で恥をかく
とにかく茶道に関しては、何も知らないので、習っていそうな周囲の人に片っ端から聞いて、情報を得ようとした。
ある人は興味があって、一度、椅子に座り、テーブルでお点前をする「立礼(りゅうれい)」のお稽古を体験入学した経験があるが、先生が好きになれそうにもなかったので、お稽古に通うのはやめたといっていた。人との相性はあるので、それは仕方ないだろう。
茶道とは一見関係なさそうな、パンキッシュなファッションの人が、中学、高校と習った経験があったり、いかにも習っていそうな、きちんとした立ち居振る舞いの人が習っていなかったりして面白かった。その彼女は、
「他の人が見ている前で、恥をかくのはいやだ」
といった。マンツーマンではなく、他の誰かが同じ室内にいて、じーっと自分たちのことを見ているというのがどうしてもいやだという。お稽古事というのは、先生と一対一で習うのも大切だが、他の方が習っている様子を知るのもとても重要だと思う。
私が子どものときにピアノを習っていた先生は、近所に住んでいた外交官の奥様だったのだけれど、レッスン室はご自宅の応接間で、次の生徒さんたちは同じ部屋のソファに座って、私が習うのを見学していた。もちろん叱られるのも見られているし、間違ったところも全部聞かれていた。
三味線のときは、他のお弟子さんたちは控えの間で待機しているため、お稽古部屋は師匠と私のマンツーマンだったが、もちろん弾いているのが聞こえる。間違えたところもみんなわかってしまう。その方が間違えたとしても、そこは間違えやすいところなのだろうし、自分も気をつけなければと思った。逆にまだ習っていない曲をお稽古されているときは、そのように弾くのかと勉強させていただいた。
できなかったら恥ずかしいという気持ちもわからないではないし、私もできれば恥はかきたくないが、恥をかくのもお稽古では必要なのだ。
こんな私でも、なるべくなら人前で恥はかきたくないが、失敗しても、やっちゃったものは仕方がないと諦められるようになった。年齢を重ねて図々しくなったのだろうが、情けないなあと苦笑するだけである。多くの場合、それで済むのである。
できないからお稽古しているのであって、こんな不肖の弟子で師匠には申し訳ない気もするけれど、どうしても恥をかくのはいやだという人は、お稽古事には向かないのかもしれない。
『老いてお茶を習う』(著:群ようこ/KADOKAWA)
流派が違う
そして習った経験がある人、今、習っているという人にいろいろと聞いてみた。私とは違う流派で習っている人は、
「畳半畳を三歩で歩くようにといわれています」
といった。私が教えていただいているのは裏千家なのだけれど、半畳は二歩で歩くようにと師匠からいわれている。畳の縁を越して入るときには右足、出るときは左足を守るようにと教えていただいた。しかし三歩となると、その法則が崩れてしまうので、流派によってそれぞれ作法が違うのだろう。
他にも、
「御菓子を二口で食べるようにといわれているのが辛い」
といっている人もいて、そこまで厳しいのかとびっくりした。たしかに御菓子のなかには、何度も懐紙の上で切っていると、ぽろぽろと崩壊してくるものもあって焦るのは事実である。
私はなるべく御菓子は味わって食べたいので、小さい干菓子などはともかく、主菓子のある程度の大きさがあるものは、正直、二口で食べるのはもったいなくて、ゆっくりと味わいたい。
この話を師匠にしたら、
「昔は御菓子が今よりも小さかったかもしれないので、それも可能だったのでは」
とおっしゃった。たしかに干菓子などは小ぶりなもの、薄いものが多いので、二口で食べられる。しかし現代の大ぶりな主菓子を無理をして二口で食べたりすると、口の中がいっぱいになってしまうし、ほっぺたもふくらんで、あまり見た目はよくないような気がする。
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二口で食べられる小さな主菓子のみを出すという方法もあるかもしれないが、いただく側からすると、図々しいかもしれないけれど、ちょっと物足りないなと思ってしまう。それも教える師匠の方々の考えの違いなのだろう。
私の師匠は、
「食べづらかったら、かぶりついてもいいですよ」
といってくださるので、遠慮なくかぶりつかせていただいている。食べづらいもの、大きめのものを二口で、といわれたら、困ってしまうし、年齢も年齢なので喉に詰まらせてしまう可能性もある。
薄茶のときは、飲んだ後に左の手のひらに茶碗をのせ、口をつけた場所を、右手の親指と人差し指で拭くのだけれど、
「私は親指と薬指で拭くようにいわれていました」
という人もいた。どれが正しいというわけではない。小唄と三味線を習っているときも、同じ曲でも師匠によって、多少のアレンジが加えられていた。和物のお稽古は、師匠の教えが第一なのだと感じたのだった。
7、8年間、ずっと薄茶点前ばかりをお稽古しているので、周囲の人から、
「いったい何のためにやっているのか」
といわれているという人もいた。その理由をたずねると、薄茶、濃茶とお稽古が進んでいくと、お点前が複雑になってくるので、このままでいいかなと思っているそうだ。
「濃茶の仕覆の紐の扱いなんて、とても面倒くさそうだし」
たしかに先輩方の濃茶のお点前を見ていると、そう感じることはある。それでも彼女はずっとお稽古に通い続けているのだから、茶道は離れ難い魅力があるものなのだろう。
「『拝見ありで』といわれると、棗を帛紗で清めなくちゃならないから、心の中で『チッ、面倒くさい』と舌打ちしちゃうんですよね」
といったので笑ってしまった。
お稽古には必ず着物で行っているという若い人は、
「行くと必ず、先輩や師匠が着付けを直してくださるのがとてもありがたいのですが、直されないことがなくて、お稽古に行くたびに、それがずっと続いているんです。どれだけひどい格好で道中を歩いているのかと悩んでいます」
といっていた。
どういう状態であれ、自分で着ているところが立派である。何度も着ていれば慣れてくるし、私も着物を着ても、今日はここが変だというところがいつもある。
帯を締めるときの癖でたれが長めになったり、手が短くなったりと、完璧だと満足したことなど一度もない。まあ、こんなものでいいか、と外に出ていく。
その方も直してくれる親切な方々が行き先にいらっしゃるのだし、そんなものでいいんじゃないだろうか。お稽古に着物で通っていることを褒めてあげたい。
※本稿は、『老いてお茶を習う』(著:群ようこ/KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
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