ただの女性好き?島崎藤村、大人気となった詩集『若菜集』に綴られた、モテない男のイタい女性観

2024年5月15日(水)8時0分 JBpress

詩集『若菜集』で浪漫主義詩人として名を馳せ、その後『破戒』で自然主義文学の作家としての地位を確立した島崎藤村。五七調のリズムが心地良く女性に大人気となりますが、実生活では藤村はモテませんでした。そんな藤村の恋への思いが名詩を生んだのです。

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)


新体詩を完成させた藤村

 藤村の人生の大きな岐路は、大正3年(1914)、42歳の時に『桜の実の熟する時』という小説を書いたことだと思います。『桜の実の熟する時』は岸本捨吉という主人公が年上の女性・繁子との交際に破れ、その後出会った勝子という教え子との恋愛にも挫折して、関西への旅に出るという自伝的青春小説です。妻を失い、自分の姪を妊娠させた藤村が、つらい現実に耐えかねて逃げた先のフランスで書いたものでした。いったい藤村に何があったのでしょうか。今回はそこに至るまでの藤村と代表作について紹介したいと思います。

  初戀

まだあげ初(そ)めし前髪(まへがみ)の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の實(み)に
人こひ初(そ)めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき戀の 盃(さかづき)を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畑の樹(こ)の下(した)に
おのづからなる細道(ほそみち)は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

『藤村詩抄』所収『若菜集』より「初戀」(岩波文庫)

 明治の初期まで「詩」といえば「漢詩」のことでした。しかしヨーロッパの詩の翻訳から、徐々に新しいスタイルの「新体詩」が広まります。その一翼を担ったのが、『新体詩抄』という本です。

 編者は東京大学教授の井上巽軒、谷田部良吉、外山正一の3人で、彼らは日本人も西洋のように普段使う言葉で詩を作るべきだという運動を起こしたのです。そんななか、漢詩では決して表現できない、日本語の詩を書いた人物が登場します。それが北村透谷でした。

 しかし透谷は明治27年(1894)、25歳の若さで自死してしまいます。透谷の影響を受けて詩を作ったのが島崎藤村でした。

 明治30年(1897)に出版した『若菜集』は、若い女性を中心に称賛を浴びます。先に掲げた「初戀」はそのなかでもとくによく知られている詩です。

 遂に、新しき詩歌の時は來りぬ。
 そはうつくしき曙のごとくなりき。
(後略)

『藤村詩抄』より「自序」(岩波文庫)

 明治37年(1904)に出版した『藤村詩集』(『若菜集』『一葉舟』『夏草』『落梅集』の四卷をまとめた合本)の序文で、藤村が自ら浪漫的な言葉で回顧したように、五七調の定形律に古典として杜甫や松尾芭蕉の詩境を踏まえた藤村の詩は、新体詩のひとつの完成体となったのでした。


恋愛相手は誰でもよかった?

「初戀」で藤村は、いつの間にか少女から大人の女性に変わっていく変わり目、いつ変わったのか、誰が変えたのかということを表現しました。また、同じ『若菜集』にある「六人の処女(をとめ)」では、「おえふ」「おきぬ」「おさよ」「おくめ」「おつた」「おきく」という6人の女性の名前をタイトルにした詩を発表しています。藤村は女性好きでした。「六人の処女」は実生活ではモテなかった藤村の、恋に恋する気持ちをまさに表現した詩なのでした。書き出しはこうです。

  おえふ

處女(をとめ)ぞ經(へ)ぬるおほかたの
われは夢路(ゆめぢ)を越えてけり 
(後略)

『藤村詩抄』所収『若菜集』より「六人の処女」(岩波文庫)

 藤村は上から目線でこんな女性がいたらいい、こんな女性になってほしいと書いたのです。藤村にとって恋愛相手は誰でもよかったのではないでしょうか。五七調のリズムも心地良く、藤村の理想としたセンチメンタルな世界は女性に受けますが、上から目線で威張れば女性にモテるかというと、決してそうではありません。そこが藤村の恋が成就しない理由だったのかもしれません。

『若菜集』に続いて『一葉舟』『夏草』『落梅集』という詩集を出した藤村は、依然として人気はありましたが、その後は似たような詩ばかりになってしまい、徐々に散文に移行していきます。

 そんな時に出会ったのがドフトエフスキーの小説でした。強い影響を受けた藤村は『罪と罰』をネタ本にして、若くして亡くなった知人・大江礒吉をモデルに『破戒』を書きます。被差別民として生まれた主人公は出自を隠して教育者への道を歩みますが、ついには自我に目覚めて自ら出自を打ち明けるという、社会的なテーマを追求した小説です。日本は身分制度がなくなったとはいえ、やっぱり厳然として差別があるじゃないか。藤村はそこを見つめようと思って書いたのでした。

 明治39年(1906)に自費出版された『破戒』は、非常に高い評価を受けます。

 夏目漱石も門弟の森田草平あての手紙に「破戒読了。明治の小説として後世に伝うべき名篇也」と綴りました。

『破戒』によって文壇で認められた藤村は小説家に転身、以後、北村透谷らとの交遊を題材にした『春』、旧家の没落を描いた『家』などを出版し、自然主義文学の地位を確立していきます。

 余談ですが、『罪と罰』をパクった藤村は、明治34年(1901)に刊行した詩集『落梅集』に収録されている「椰子の實」でも柳田國男の体験をパクリました。

  椰子の實

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子(やし)の實(み)一(ひと)つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月(いくつき) 
(後略)

『藤村詩抄』所収『落梅集』より「椰子の實」(岩波文庫)

 伊良湖岬に滞在した柳田國男が恋路ヶ浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語り、それを藤村がうまく使って詩を作り、童謡としても後世に歌い継がれる名作となったのでした。

筆者:山口 謠司

JBpress

「女性」をもっと詳しく

「女性」のニュース

「女性」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ