武市半平太の昇進と失脚の萌芽、京都留守居加役への抜擢と、山内容堂による土佐勤王党・弾圧の開始

2025年5月28日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


武市半平太の帰京と大抜擢

 文久2年(1862)12月23日、武市半平太を含む攘夷別勅使の一行は着京した。25日、武市はこの間の働きを評価され、上士・留守居組に昇進した。辞令曰く、「其方儀、御留守居組入仰付けられ候也、御自分儀、当分御当地へ御差留仰付けられ、探索御用仰付けられ候也」(「武市瑞山在京日記」)とあり、名実ともに土佐藩の重役となったのだ。

 文久3年(1863)1月21日、山内容堂は大坂に到着した。そして、他藩との交渉で藩士の出過ぎた議論の禁止を命じる沙汰書を発布し、25日には上京を果たした。一方で27日、武市と平井は毛利定広の臨席の下、肥後藩士宮部鼎蔵・河上彦斎、対馬府中藩士多田荘蔵、津和野藩士福羽美静(ふくばよしず)、水戸藩士住谷七之允・大胡聿蔵(だいごいつぞう)、長州藩士中村九郎・佐々木男也・久坂玄瑞・松島剛蔵・寺島忠三郎・井上馨らと東山翠紅館に会して、時事を盛んに議論したのだ。

 武市は藩の重役である一方で、過激な即時攘夷派グループとも昵懇であり、勢い反幕府的な態度を継続して示していた。このため、容堂は警戒の念を強めたが、武市はそうしたことに余り注意を払おうとはしなかった。


久坂玄瑞らによる三事強請と武市の役割

 文久3年2月9日、中山忠光は攘夷決定を関白鷹司輔煕・中川宮に迫ったが、はっきりしない態度に激怒した。そして、四奸二嬪排斥運動で失脚中の岩倉具視・千種有文を斬首すると息巻いたため、久坂玄瑞はさすがに過激に過ぎると考え、武市半平太に相談した。

 武市は久坂に対し、「三士(久坂玄瑞・寺島忠三郎・肥後藩士轟木武兵衛)早天関白殿(鷹司輔煕)に到り、言路を開き、期限を定め、人材を挙ぐ、三事を建言し、行わざれば則ち餓死す」(「隈山春秋」)を提案した。すなわち、ハンガーストライキを伴う言路洞開・攘夷期日決定・人材精選の三事の強請である。

 2月11日、久坂・寺島・轟木は関白鷹司輔煕邸を訪ね、言路洞開・攘夷期日決定・人材精選の三事を強請した。正親町実徳・三条西季知・橋本実麗・豊岡随資・滋野井実在・東園基敬・正親町公董・姉小路公知・壬生基修・中山忠光・四条隆謌・錦小路頼徳・沢宣嘉も、大挙して関白邸に押し掛けて、その実現を強く求めたのだ。

 これには堪らず、鷹司関白は急ぎ参朝して、事情を闕下に伏奏して、孝明天皇に対して天裁(天皇の裁決)を懇請した。議奏三条実美・阿野公誠、武家伝奏野宮定功らは勅を奉じて、将軍後見職徳川慶喜の旅館に臨み、速に攘夷期日の決定を命令した。政事総裁職松平慶永・京都守護職松平容保と、当時は幕政参与的なポジションにあった山内容堂は急ぎ慶喜の許に参集し、夜を徹して議論して奉答書を提出したのだ。

 奉答書の中で、慶喜は攘夷実行の期日を将軍の江戸帰還後20日、さらに「4月中旬」という回答を明示した。ここに、武市の発案から攘夷実行等が確定したのだ。さらに、新たな機関として、国事参政・寄人の設置にも発展しており、武市の存在感の大きさがうかがえる。


容堂による土佐勤王党・弾圧の開始

 文久3年1月29日、容堂は身分をわきまえずに国事に奔走したとして、平井収二郎らを叱責した。『寺村左膳日記』によると、「夕方御酒後、軽絡者平井収二郎・小幡孫二郎両人召出、昨日同様御叱り遊ばさる」とある。

 翌2月1日、平井の他藩応接役を罷免した。これに対し、武市は容堂に面会し、容堂の行動を諌めるが取り上げられなかった。平井の免職は、即時攘夷派にとって、ひいては武市にとって、大きな痛手となった。さらに、2月25日、間崎哲馬と平井収二郎は京都藩邸に自訴し、中川宮に令旨を懇請した顛末を陳べて、服罪の態度を取った。その後、弘瀬健太も同様の行動をして、容堂からの沙汰を一緒に待った。

 この事態に対し、武市や平井は薩摩藩の姦計が背景にあると判断した。平井は、「至誠を以て二藩に当るも、是に於て薩人意の如くならずを以て、遂に我を忌み、反って我を朝野に謀り、長土之暴論と為し、久坂玄瑞・武市半平太・余輩数人、実に被之標的と為る也」(「帰南日記」)と日記に記した。

 これによると、土佐藩(土佐勤王党)は至誠をもって薩摩藩・長州藩と対応したが、ここに至って、薩摩藩士の意向のようにならないことから、ついに我々を憎み、我々に対して朝廷と在野で謀をめぐらし、久坂玄瑞、武市半平太、平井収二郎ら数人がその標的となってしまったと、憤慨したのだ。

 加えて、松平春嶽は容堂に対し、土佐勤王党の連判状に吉田東洋暗殺者3名が含まれることを報知した。こうした圧倒的に不利な状況下で、武市は上岡胆治を使者として土佐に派遣し、託した同志への密書の中で、薩摩の奸謀に陥ったのは遺憾であると表明した。


武市の大抜擢と失脚の萌芽

 文久3年3月15日、武市半平太は京都留守居加役に大抜擢され、格式「馬廻」に処せられた。これは、土佐藩において大名直臣の格式である。役料650石と言えば、武市にとっては思いもよらぬ大出世であったのだ。その人事を実行した容堂の真意としては、武市への期待とともに、土佐勤王党との隔離策であったことは間違いなかろう。

 3月23日、武市は土佐から取り寄せた連判状を容堂に提示した。千屋菊次郎の日記「再遊筆記」には、「吹山、老公に謁す、初めて宿志を述べ、同志の旨趣始めて通ず、君臣問(間)の疑い稍解く」とある。武市が容堂に初めて本音を語って、容堂の疑いがようやく晴れたとしているが、実際には真逆である。なお、容堂は武市に焼却を指示しており、これは武市をかばった温情だったかも知れない。

 4月1日、容堂は間崎・平井を京都より藩地に檻送・投獄した。4日、武市は薩長両藩和解に関し、容堂の指示を受けるため京都を出発し、8日、帰藩途上の容堂に伊予・土佐の国境で追いつき、対面を果たした。そのまま、同行して帰藩した。なお、朝廷から武市召命の連絡がはいったものの、容堂は拒否している。いよいよ、武市に対する弾劾が目前に迫ったのだ。

 次回は、武市と容堂の関係に焦点を当てながら、容堂の策略と罠にはまった武市の投獄と尋問の経緯、そして武市の最期を詳解した上で、武市の歴史的意義について、語ってみたい。

筆者:町田 明広

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