『どうする家康』松平信康の闇を描きながら「家康の妻子殺し」の真相に迫る

2023年6月24日(土)6時0分 JBpress

 NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第23回「瀬名、覚醒」では、長篠の戦い以降、徳川家康の嫡男である松平信康が、精神状態のバランスを著しく崩してしまう。一方、瀬名が武田の使者・千代と密会していることを、五徳が父の信長に報告し・・・。緊迫の度合いを増す今回の見所について、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)


「長篠の戦い」敗北後も諦めなかった武田勝

 武田信玄が病死して2年後に起きた「長篠の戦い」において、勝頼は織田信長と徳川家康の連合軍に大敗を喫する。それをきっかけに武田氏は衰退の一途をたどり、滅びてしまった──。

 武田氏の衰退については、そんなふうに大づかみで捉えられることがあるが、正確ではない。「長篠の戦い」で敗れてもなお、勝頼は勢力拡大を諦めず、徳川勢と戦を繰り広げている。

 とはいえ、勢いで勝るのは家康のほうだ。二俣城、光明城、犬居城と落城させ、武田軍に奪われた城を取り返している。さらに、諏訪原城を攻略すると、そのままの勢いで小山城へと攻め込んだ。

 だが、小山城を守備する城将の岡部元信が、思いのほか手ごわかった。武田勝頼が後詰めに現れるまでの間、岡部元信は徳川勢の猛攻を見事に凌いでいる。勝頼は大井川に着陣すると、徳川軍が包囲する小山城へと向かうため川を渡ろうとした。

 勝頼の援護を受けて、家康は退却を指示。いったんは小山城を諦めている。その後、家康は高天神城の奪還に動き出す。

 そうして、いざこざを繰り返しているうちに時は過ぎ、長篠の戦いでの敗北から武田氏の滅亡までには、実に7年の月日を要している。


「武田氏を滅亡させた」勝頼を再評価した意義

『どうする家康』では、武田勝頼がこれまでないほど、かっこよく描かれているだけあって、意外と手ごわかった「長篠の戦い後の勝頼」についても、きちんと描いている。

 第23回の放送では、「しかし、武田との戦はまだまだ続いておりました」というナレーションとともに、まだ戦う気力にあふれる勝頼の姿が描かれている。眞栄田郷敦演じる武田勝頼が、田中美央演じる岡部元信にこう檄を飛ばしている。

「お主がかつて仕えた今川の領地、取り返すがよい!」

 歴史人物の新たな魅力に触れられるのが、大河ドラマの醍醐味の一つだろう。『どうする家康』が、折り返しの時期となる6月になってもなお話題に事欠かないのは、人物描写の巧みさにあると私は考えている。

「武田氏を滅亡させた」というイメージばかりが強い武田勝頼においても、その勇猛さに着目し、再評価した意義は大きいといえるだろう。

 とはいえ、『どうする家康』で武田勝頼は手放しに礼賛されているわけではない。重臣の意見に耳を傾けない頑固さが、武田氏の滅亡へとつながったことも示唆されている。

 それでもなお、勝頼の肩を持ちたくなるのは、「なんとか父を超えなければ」という焦りをひしひしと感じるからだ。なにも自己顕示欲からきているわけではない。父の突然の病死によって、動揺する家臣たちをまとめあげるには、何としてでも結果を出さなければならなかった。

「認められたい」という悲哀があるからこそ、勝頼の間違えた選択にもまた、もの悲しさを覚えて、思わず応援したくなるのである。


数々の文献にも記載されている信康の存在感

 自分だってやれるんだ、と周囲に示さなければ——。そんな思いは何も勝頼に限ったことではない。家康を父に持つ信康もまた、戦功を挙げなければ・・・という思いにとらわれていた。

 実は信康もまた、文献をひもといてみたならば、勝頼と同様に勇猛ぶりが記載されている。江戸時代初期に旗本の大久保忠教が著した『三河物語』によると、先の小山城攻めにおいて、退却の際に信康がこんなことを言ったという。

「これまでは敵に向かっていたので私が先陣を切った。しかし、これからは私が敵を後にして引きあげることにしよう」

 攻めるときは最前列で、退却するときに最後列とは、あまりに危険な役割を信康は買って出たことになる。『三河物語』での信康は、さらにこう続けている。

「まずは父上がお引きあげください。親をあとにおいて引き下がる子がどこにいましょうか」

 しかし、家康からすれば、息子の信康にそんな危険な目に遭わせるわけにはいかない。家康は「せがれはわけのわからぬことをいう。早々引きあげよ」と、早く逃げるように指示している。

 それでも信康が食い下がったため、2人が口論になったという。家臣たちも、さぞ困ったことだろう。『三河物語』では、そのときの様子も描写されている。

「何度も何度も、押し問答をされたけれど、とうとう信康は退却をしなかったので、大殿はおれて引きあげる。信康もそのあとを整然と隊伍を組んで引きあげた」

 勝頼と同様にちょっと力み過ぎているようだが、信康が立派に成長していることが『三河物語』からは伝わってくる。徳川幕府の正史である『徳川実紀』のほうでは、見事に退却を果たした信康のことを、家康は「あっぱれ見事な退却」と絶賛して、さらにこう述べている。

「このようでは勝頼が10万の兵にて攻め来たとしても、我々を打ち破ることはできまい」


信康の勇猛さを「度が過ぎたもの」として描いたシナリオ

 以上の文献での記述を踏まえて、ドラマのほうを見てみると、今回のシナリオの秀逸さが際立つ。信康の勇猛さを「度が過ぎたもの」として描いているのだ。

 ドラマでの信康は、家康の退却命令にも不満を漏らし、「今こそ勝頼を攻めるとき」と意気込む。家康の説得でしぶしぶ退却は受け入れたが、今度は「殿」(しんがり)、つまり、最後尾で敵を斬りまくると息巻き、家康の制止も振り切って最後尾でその勇猛ぶりを見せたのである。

 文献に出てくる「親をあとにおいて引き下がる子がどこにいましょうか」のセリフもドラマで再現されているが、ニュアンスが全く異なっており、「早く逃げよ」という家康への反論として、信康が言い放っている。

 注目すべきところは、信康のやり過ぎな行動が、周囲にいったんは受け入れられているということ。まさに上記の文献にあるように、見事に殿を務めたことを、みなが褒めちぎっている。あれだけ高飛車な信康の妻・五徳も、夫のことをすっかり見直したくらいだ。

 そんななか、心配顔なのが信康の母、瀬名である。瀬名は信康の行動を「暴走ではないか」と考えたらしく、みなのように褒めちぎることはなかった。

 そして、瀬名の危惧したとおりの展開となり、信康の行動はエスカレートしていく。何の罪もない僧をも叩き斬るようになってしまい、あれだけ褒めていた家臣たちもドン引き。妻の五徳も、娘を抱えて怯える始末である。

 床に伏した信康は、絞り出すような声で母の瀬名に胸中を語っている。

「皆が強くなれと言うから、わたくしは強くなりました。しかし、わたくしはわたくしでなくなりました。いつまで戦えばよいのですか。いつまで人を殺せば・・・」

 信康が粗暴だったことは、文献にも残されている。『当代記』(家康の外孫の松平忠明が著したという説がある日記風年代記)には、信康が家臣に対して非道な振る舞いがあったことを記している。「勇猛さ」と「非道なふるまい」という一見すると矛盾したような文献上の記述を、見事にシナリオに取り入れたといえよう。

 思えば「勇ましい行動」と「暴走」は紙一重だ。命のやりとりをする戦場ならば、なおのことである。信康は「勇ましくなければ」と思うあまりに、精神のバランスを崩してしまったらしい。

 勝頼と形は違えど、信康もまた周囲の期待に応えようと必死になり、やや無理をしてしまったようだ。そんな歴史人物への寄り添いが見られる放送回だった。


「どうする瀬名」ドラマ前半最大の見どころが近づく

『どうする家康』が放送されてから、これまでずっと注目されてきた場面が近づいている。ついに、信長の意向を受けて、家康は自分の妻子を死に追いやることになる。

 ドラマでは、家康と瀬名の夫婦仲がよいだけに、一体どんなふうに描かれるのか。また息子の信康は、なぜ死ななければならなかったのか──。

 さまざまな憶測がなされるなかで、今回の放送回では、瀬名が武田の使者である千代と密会。その様子を五徳が手紙にしたため、父の信長に報告している。一方の瀬名は壊れていく息子の姿を見て、一大決心をしたらしい。

 今回は『どうする家康』ならぬ「どうする信康」といっていい放送内容だったが、次回は「どうする瀬名」というべき内容になるだろう。つらい展開になるのは間違いないが、信康の、瀬名の、そして家康の覚悟をしかと見守りたいと思う。


【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉 現代語訳徳川実紀 』(吉川弘文館)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
中村孝也『徳川家康文書の研究』(吉川弘文館)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)

筆者:真山 知幸

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