仲が悪かった2人の天才レオナルドとミケランジェロ、幻に終わった世紀の対決

2023年7月10日(月)12時0分 JBpress

ルネサンスを牽引し、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロとともに三巨匠と称されるミケランジェロ。「神のごとき」と呼ばれたその才能は、彫刻を抜きにしては語れません。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)


彫刻を知らないと絵画は理解できない

 美術史に絶大な影響を与えた盛期ルネサンスは、実は30年くらいの短い期間でした。その期間にレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティ、その中庸ともいえるラファエロ・サンティという三巨匠がフィレンツェで遭遇したこと自体、奇跡といえるでしょう。

 3人の関わりはとてもおもしろく、とくにレオナルドとミケランジェロがお互いをライバル視した逸話などは、盛期ルネサンスというカテゴリーだけでは語れない劇的なドラマを生み出しています。

 また、レオナルドの生涯も穏やかではありませんでしたが、ミケランジェロはさらに激しく、複雑な人生を歩みます。乱暴者で喧嘩っ早く、今風にいうなら、とんがった人物でした。しかしそれが、彫刻や絵画にみてとれる壮大さを生み出した原動力だったかもしれません。

 ミケランジェロとレオナルドの仲が悪かったという話は有名です。

 23歳も年上のレオナルドは美男で物静かなタイプ、一方のミケランジェロは無骨で怒りっぽいという、外見も性格も正反対でした。また、ミケランジェロは文学的な教養の面などで、レオナルドにコンプレックスを抱いていたようです。

 ミケランジェロにとっては絵画よりも彫刻が絶対的な存在で、絵画は彫刻のための手段のひとつと考えていました。「絵画は浮彫りのようになればなるほど良いものになり、浮彫りは絵画のようになるほど悪くなる」(1547年、知人への手紙)というのがミケランジェロの考えでした。レオナルドとの対立も、単に才能があるふたりが競ったというだけでなく、根底にはこの芸術観の違いがあったのです。

 ふたりは彫刻と絵画のどちらが優れているかという論争を繰り広げます。美術界ではこのような芸術分野の比較を「パラゴーネ(paragone)」といいますが、この点がまったく相入れなかったのです。

 ですから、ミケランジェロを理解するためには、彫刻について知ることが大切になります。その生涯を辿りながら、代表的な彫刻作品を紹介していきましょう。


初期の傑作《ピエタ》と《ダヴィデ》

 ミケランジェロは1474年、執政官の父親の派遣先だったイタリア中部の小さな村・カプレーゼに次男として生まれました。一家はあまり裕福ではありませんでしたが、貴族の出身でした。

 母親は体が弱かったので、ミケランジェロは乳母の家に預けられるのですが、その家業が石工だったので、後に「乳と一緒に鎚と鑿を吸った」という冗談をよく言ったそうです。

 その後一家はフィレンツェに戻り、ミケランジェロが13歳の時、当時大工房を構えていたドメニコ・ギルランダイオの弟子になります。住み込みで働きながら、才能のある若い芸術家に開放されていたサン・マルコ修道院中庭のメディチ家の彫刻コレクションに出入りすることができるようになったことから、1年ほどで工房を去ります。メディチ家コレクションの古代彫刻や、初期ルネサンスの作品から多くを学び、その後の創作に生かしていきました。

 ミケランジェロの彫刻の出世作となったのは、フランス人のジャン・ビレール・ド・ラグローラ枢機卿からの注文でつくった、サン・ピエトロ大聖堂の《ピエタ》(1499年)です。

 ピエタは聖母マリアが死したキリストを悼んで憐れむという伝統的なテーマで、キリスト教の宗教的な儀礼などで用いられ、人々が像を前にして祈ったりしていました。

 伝統的にサン・ルフィーノ教会の像のようにキリストの体は硬直していて、聖母マリアも美しくは表現されてきませんでしたが、ミケランジェロは美しい聖母マリアと美しい若者のキリストの像を作り上げます。これまでの常識を覆し、伝統的なテーマを革新する表現は、技術的な高さと相まって当時の人々を圧倒します。この時、ミケランジェロは24歳でした。

 公開当時、ミラノ人が自慢げに「ミラノの彫刻家クリストフォロ・ソラーリの作品だ」というのを聞いたミケランジェロは、夜中にこっそりマリアの帯に自分の名を刻んだという逸話が残っています。

 もうひとつの初期の傑作が《ダヴィデ》(1504年)でした。のちにイスラエルを建国した旧約聖書の英雄ダヴィデが、巨人の敵将ゴリアテを倒すという少年時代の物語がテーマです。初期ルネサンスを代表する彫刻家ドナテッロの《ダヴィデ》(1440年頃)のように、これまでは少年ダヴィデが切り取った首を踏んでいるポーズで描かれるのが伝統的でした。しかし、ミケランジェロのダヴィデは全く違いました。

 ルネサンスが目指したのは古代の文化の復興です。そのためドナテッロとミケランジェロのダヴィデ像は古代彫像の特徴のひとつである「コントラポスト」という、一方の足に力を入れ、もう一方の足を緩めたポーズを取っています。ミケランジェロはさらに少年とは思えないような堂々とした肉体と、大きな敵を睨みつけ、エネルギーをぐーっと凝縮させた瞬間を、力強く表現しています。そのためこの作品は「イル・ジカンテ(巨人)」と呼ばれました。

 また、この像に使われた大理石は、1464年から大聖堂の彫刻のために用意されていて、初期ルネサンスの巨匠アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョが少し荒彫りをしたまま放置していたものでした。これを1501年に受け継いだミケランジェロは、さまざまな制約があるにもかかわらず、これから力を育もうとする新興国フィレンツェのシンボルにふさわしい作品に仕上げます。

 このようにミケランジェロは、伝統的なテーマと表現を用いながらも、常に独自の新しい表現をする革新者なのでした。


幻に終わった世紀の対決

《ダヴィデ》像の設置場所に関して、レオナルドとのエピソードが残っています。1504年、ボッティチェリやレオナルドなどの芸術家が集められ、設置場所検討委員会が開かれます。ボッティチェリらは大聖堂前やシニョリーア宮殿の中庭という意見でしたが、レオナルドはシニョリーア宮殿の向かいにある回廊を推します。

 すると委員に入っていないミケランジェロが共和国政庁舎の入り口がふさわしいと言ってヴェッキオ宮殿正面入り口を主張、これを委員長が支持しました。そこにはもともとドナテッロの《ユディト》がありましたが、これを移動させて置かれることになります。この時にもレオナルドとミケランジェロの対抗心があったのかもしれません。

 1503年、ヴェッキオ宮殿の大きなホール「五百人広間」の壁画がレオナルドに依頼されます。馬が得意なレオナルドは《アンギアーリの戦い》を描こうと取り組みます。

 その翌年、別の壁面がミケランジェロに託されます。ミケランジェロはレオナルドと同じ騎馬戦の場面を避け、《カッシーナの戦い》の場面を選びました。しかし、レオナルドの絵は彩色中、雨水が流れ込んで下絵が滲んでしまったことで頓挫、一方のミケランジェロもカルトン(画稿)を完成させたところで、教皇からローマに召喚されたため中断してしまい、世紀の対決は実現しませんでした。


表現が変革したきっかけは《ラオコーン》の発掘

《ピエタ》と《ダヴィデ》の成功によって名を馳せたミケランジェロには、以後、多くの注文が来るようになります。

 ミケランジェロの彫刻制作は、少し変わっていました。多くの彫刻家は四方から彫っていくのですが、ミケランジェロは一方から彫っていきました。あたかもどう彫っていいかわかっているかのように迷いなく彫り進めます。「中に閉じ込められたものを救い出す」とよく言っていたそうです。

 ただし、ミケランジェロの多くの作品は、「アンフィニート」といわれる、未完成のまま終わっています。フィレンツェの大聖堂造営局が注文した十二使徒像の場合、未完成の《聖マタイ》(1503-04年)が一体残っているだけです。

 ただ、これを見ると一方から彫っていることがよくわかります。鑿の跡も残っていて、石にまだ半分体が閉じ込められているようなマタイは、未完成ではありますが活力に満ちていて、とても魅力のある作品だと思います。

 そして1506年、ミケランジェロの彫刻に大きな変化がもたらされます。ローマのネロ帝の宮殿跡で古代ローマ時代の彫像《ラオコーン》(制作年不詳)が発見されたのです。ミケランジェロは発掘現場に行って立ち会い、「芸術の奇跡」と感嘆したといいます。当時の芸術家たちはみな大きな衝撃を受けますが、とくにミケランジェロにとっては、その後の作品に多大な影響を与える強烈な出来事でした。

 ラオコーンはギリシャ神話のトロイア戦争の物語において、城内に木馬を入れることに反対した祭司の名前です。トロイアを滅ぼそうとする神々の反感を買い、ラオコーンは大蛇にふたりの息子ともども絞め殺されてしまいます。彫像はまさにこの場面で、大蛇に巻きつかれたラオコーンの筋肉質の巨体は捻れ、苦悩の表情をしています。

 ヘレニズム美術の最高傑作と謳われるこの彫像の発見以降、ミケランジェロの彫刻にも「セルペンティナータ(蛇のような螺旋状)」と表現される捻れた体や、さらに筋肉隆々の表現への変革がみられます。

《ラオコーン》をお手本に古代の伝統を吸収しながら、次の世代につながっていく動きやゆがみ、そして強いエネルギーを見事に具現化していったのでした。また、《ピエタ》や《ダヴィデ》は大理石のつるつるとした肌感ですが、以降の作品になるほど、表現主義のような傾向がみられます。


3つのピエタにみる変遷

 ミケランジェロの彫刻作品の変遷がよくわかる例が《ピエタ》です。先に紹介した出世作となったサン・ピエトロ大聖堂の《ピエタ》(1499年)は、聖母マリアが美しすぎる、若すぎると批判されますが、マリアはいつも美しき理想の女性に上書きされるので、あえて若くしたのだとミケランジェロは反論しました。マリアとイエス・キリストは、ほんとうに美しい人間の最高の形をしていると思います。

 このほかにミケランジェロは2体のピエタをつくっています。《パレストリーナのピエタ》(制作年不詳)という作品も長年ミケランジェロによるものとされてきましたが、近年は関与があったとしても荒削り段階までだろうとされているので、ここでは触れません。

《ドゥオーモのピエタ》(1550年頃)は、自分が埋葬される教会に献呈するために作り始めたものですが、イエス・キリストの左足と片腕、聖母マリアの手の部分を壊してしまいます。これを愛弟子のウルビーノに与え、その後ティベリオ・カルカーニが修復しました。

 普通キリストは、マリアの膝の上に横になって乗っているのですが、ここではくずおれそうなキリストをマリアが支えています。後ろにいるのはキリストを十字架から下ろすのを手伝ったニコデモで、ミケランジェロの自画像といわれています。伝統的なピエタに、サン・ピエトロ大聖堂のものとはまた違う、新たな解釈と構図の作品です。

《ロンダニーニのピエタ》(1559年頃-64年)はミケランジェロの遺作です。高齢のミケランジェロが最後まで鑿を振るっていたこの作品は、絶筆ではないですけれど絶鑿の跡も残っていて、完成していないように見えます。24歳のときにつくった《ピエタ》のつるつるした美しい若いマリアに比べると、顔の表情も不明瞭でふたりの体が溶け合っているような抽象的なものに変貌しています。これはもうルネサンスの作品ではなくて、あたかも現代彫刻のようです。

《ロンダニーニのピエタ》を見て、死を前にしてミケランジェロが行き着いたのがここなのかと思うと、とても感慨深いものがあります。

参考文献:『神のごときミケランジェロ』池上英洋/著(新潮社)、アート・ビギナーズ・コレクション『もっと知りたいミケランジェロ 生涯と作品』池上英洋/著(東京美術)『システィーナ礼拝堂を読む』越川倫明・松浦弘明・甲斐教行・深田麻里亜/著、『ルネサンス 天才の素顔 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ 三巨匠の生涯』池上英洋/著(美術出版)、『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』(筑摩書房) 他

筆者:田中 久美子

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