ミケランジェロがメディチ家と教皇の無茶振りに耐え、生み出した傑作とは?

2023年7月11日(火)12時0分 JBpress

後世に残る数々の傑作を生み出したミケランジェロ。その影にはメディチ家とローマ教皇の存在がありました。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)


ミケランジェロを見出し翻弄したパトロン

 ミケランジェロが彫刻家として出発するきっかけとなったのが、ギルランダイオの工房にいた時、メディチ家の彫刻コレクション庭園に出入りすることが許されたことでした。ここで豪華な人=イル・マニフィコとよばれる当主ロレンツォ・デ・メディチと出会います。牧神を彫っていたミケランジェロに「老人だったら歯が欠けていなければ」と声をかけると、次に会ったときにはそのように修正されていたという逸話が残っています。

 膨大な図書コレクションもあったメディチ家と縁ができたことで、若きミケランジェロはキリスト教の図像や神話の知識も身につけました。

 1492年、ロレンツォ・デ・メディチが亡くなり息子ピエロが跡を継ぎましたが、フランスの軍隊が進軍したことでフィレンツェは大混乱に陥ります。結果的にピエロは追放され、共和国が誕生します。

 この混乱期、ミケランジェロは友人と一時ボローニャに逃亡し、男性的で筋肉ムキムキの天使《燭台の天使》、コントラポストのポーズを取る《聖プロクルス》《聖ペトロニウス》という3体の彫刻作品(1494-95年)を制作しています。その後、フィレンツェがフランス軍を受け入れて落ち着いた頃、フィレンツェに戻りました。

 戻ってすぐに彫ったのが《眠れるクピド》(消失)という作品で、これを土に埋めて古代彫刻に見せかけました。この像を購入したのがローマの枢機卿ラファエーリ・リアーリオでした。明らかに詐欺ですが、真実を知った枢機卿は、ミケランジェロの才能を評価してローマに呼び寄せます。

 ローマでは後にローマ教皇ユリウス2世となり、ミケランジェロの最大のパトロンとなるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿や、サン・ピエトロ大聖堂の《ピエタ》の注文主ジャン・ビレール・ド・ラグローラ枢機卿らと知り合います。

 その後、前回紹介した《ピエタ》や《ダヴィデ》によって芸術家として名を馳せたミケランジェロに、ローマ教皇ユリウス2世は自分の墓碑を作らせようと、1505年、ミケランジェロをローマに呼びました。

 ルネサンスの時代においては、墓碑彫刻は芸術家の腕を発揮する大きな対象でした。大型で壮大なものが主流で、教皇の墓碑も計画では高さが8メートル、等身大立像は40体という史上最大級のものでした。

 しかし、教皇のわがままに振り回され、計画は縮小されながら、第5案でようやく確定。その間、教皇へ毎日のように資金の提供を訴えたり、教皇が亡くなった後には遺族から訴訟を起こされたりと、長年にわたってミケランジェロを苦しめます。注文を受けてからなんと40年後の1545年、ユリウス2世廟はようやく完成したのでした。

 下段中央のモーセ像には角がありますが、これは聖書に「頭が光に包まれていた」という記述の「光」のヘブライ語を「角」と誤訳したためです、しかしミケランジェロは誤訳と知っていながら、あえて角をつけたとされています。

 ルーヴル美術館にある《瀕死の奴隷》《反抗する奴隷》(1513-15年)もユリウス2世廟第2案のために制作されましたが、計画がうまく進まなかったため、病気の時に世話になった銀行家に上げてしまいます。ここでいう奴隷とは、新プラトン主義における魂が囚われている状態のことです。これを見ると正確な人体表現から離れ、大理石の中から蠢いて出てくるようなセルペンティナータの表現に変わっていることがわかります。

 また、ユリウス2世はシスティーナ礼拝堂天井画(詳しくは次回)を注文し、その完成に満足して除幕式翌年に亡くなります。その跡を継いだレオ10世もメディチ家出身でした。

 レオ10世からメディチ家の菩提寺であるサン・ロレンツォ教会のファサード(建築物の正面)を依頼されますが、模型まで作った段階で財政状態の悪化を理由に1520年、契約を解除されます。ところが同じ年、今度は教皇の従兄弟のジュリオ・デ・メディチ枢機卿から、同じサン・ロレンツォ教会の墓碑を依頼されました。

 計画では4人の墓碑がおさめられる予定でしたが、実現したのはヌムール公とその弟ウルビーノ公のふたりだけでした。正方形の部屋の向かいあう壁面にそれぞれの像は置かれ、ふたりはその間にある壁面にある聖母子へ視線を投げかけています。

 また、ふたりの像の下には祈りを込めたような「時」を表す寓意的な男女が寝そべっています。これらの彫刻でミケランジェロは、魂の救済と永遠の「時」を示しました。彫刻と建築が見事に調和し、部屋全体がひとつのプロジェクトと化したこの墓碑では、男女の体は引き伸ばされ、捻れ、プロポーションも狂っています。これらの表現が、次の時代のマニエリスムへとつながっていくのでした。


捻れた体とムキムキ筋肉の身体表現は絵画にも

 ここからは絵画について紹介していきましょう。自分は彫刻家だといつも主張したミケランジェロでしたが、若い頃、ギルランダイオの工房で絵画の技法や手順は一通り習得しています。

 また、当時の画家たちの学校といわれたサンタ・マリア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂を訪れ、熱心に初期ルネサンスの創始者といわれるマザッチョの壁画を模写しました。《貢の銭》(1426-27年)などの模写が残っています。マザッチョはマッチョな人間を描いた画家で、ミケランジェロに大きな影響を与えています。

 マザッチョより前の画家であるジョットの作品も勉強したことがわかっています。ジョットの人間の感情表現と肉体表現に影響を受けました。古代彫刻だけでなく先人の絵画にも学び、ジョット、マザッチョ、そしてミケランジェロへと繋がる感情表現と肉体表現の系譜があることがわかります。

《トンド・ドーニ(聖家族)》(1504年)はフィレンツェの商人アーニョロ・ドーニの依頼で制作した、名家から迎えた新婦マッダレーナとの結婚記念の円形(トンド)の板絵(1ページ参照)です。

 ミケランジェロ唯一のこの板絵には、キリスト教美術の代表的な図像である、幼児イエスと母マリア、養父ヨセフという「聖家族」が描かれています。

 しかし、マリアは正面を向いて膝を折って座りながら大きく体を捻り、その腕は筋肉モリモリ。このようなありえない体勢をとっている男性のような肉体のマリアは、かつて存在しませんでした。また、後ろに描かれている裸の人々は、旧約聖書を象徴する人物たちだといわれています。意図的な構図と彫刻のような立体感のあるマッチョな身体表現は、後のシスティーナ礼拝堂の絵画にもつながるものです。

《トンド・ドーニ》の2年後、ラファエロがこの夫婦の肖像画を描いています。マッダレーナの肖像は、レオナルドの《モナリザ》の影響を受けていることがわかります。そして、その後に描いた《キリストの遺骸の運搬》(1507年)では、ミケランジェロを参考にしています。

 キリストの遺体を運ぶ場面を描いた本作では、右端で跪く女性が《トンド・ドーニ》のマリアを90度回転させたポーズをしています。この女性が後ろの気絶しているマリアを救おうとしているのですが、手前に足を曲げながら少しだけ体を捻るという、無理な姿勢です。ラファエロはこのようにレオナルドから技法や表現、ミケランジェロからダイナミックな肉体の動きなどの影響を受けました。ラファエロについては回をあらためて、詳しく紹介します。


最初に「神のごとき」と賞賛したのは?

 絵画における偉業であるヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画と壁画については次の回に譲るとして、ミケランジェロが確立した地位について紹介しましょう。ミケランジェロはそれまで一般に職人的存在とみなされていた芸術家の地位の確立し、ルネサンスの芸術家として最も成功しました。

 相当な年金や報酬を得ていましたが、同性愛者だった彼は生涯独身で、質素な生活をしていました。服装や食事も無頓着で、いつも同じ服を着て寝る時も同じ靴を履いていたので、弟子たちが靴を脱がせようとすると、皮膚まではがれたという逸話も残っています。感情的で怒りっぽい性格のわりに人情家で弟子たちからも慕われていました。

 彫刻を中心として、絵画でもシスティーナ礼拝堂の天井画や壁画という偉業を成し、また、建築でもサン・ピエトロ大聖堂のクーポラや、カンピドーリオ広場のプランを考えるなど、それぞれの分野においてすべて成果を上げています。さらに詩人としても、職人のような無骨な外見からはちょっと想像できないような、こんな詩を残しています。

「愛」
教えてくれ、愛よ、私に 渇望していた美しさが本当に現れたのか、
それとも私の中の期待への切望がつかの間の幻影を浮かび上がらせただけなのか?

お前は知っているのだろう? だってお前は、私の眠りを盗んで奪い去った、そうだろう!
私の唇は、どんな溜息もみのがさない、そして私の魂は消すことのできない炎で満ちている。(後略)

 職人肌でいながらロマンチックな詩を作ったりするというギャップも、人間臭く、魅力的だと思います。

 今日においてもよくミケランジェロは、「神のごときミケランジェロ」と賞賛されますが、この言葉を最初に用いたのはヴァザーリでした。ヴァザーリはヴァチカン宮殿の壁画やウフィツィ宮殿の建築を手掛けた画家であり建築家でしたが、国内をくまなく回って、初期ルネサンスの画家や彫刻家、建築家に関する膨大な資料を集めます。

 そして1550年、芸術家たちの伝記的な逸話を交えながら、その生涯と作品についてまとめた『美術家列伝』を出版します。真偽のほどを疑われている箇所もありますが、今日でも美術史研究にとってたいへん貴重な資料になっているため、ヴァザーリは「美術史家の父」と呼ばれています。

 ヴァザーリはフィレンツェでミケランジェロと接する機会もあり、ミケランジェロを芸術家の最高点としてとらえ、『美術家列伝』において「神のごとく」という表現をしました。以後この言葉が、ミケランジェロを賞賛する言葉として定着します。

 レオナルド・ダ・ヴィンチもそうでしたが、ルネサンスの芸術家には多岐にわたって才能を発揮する人が多くいました。ただ、成し得た業績を考えると、ミケランジェロはまさしく「神のごとき」という形容がふさわしいと思います。のちに与えた影響も計り知れないものがあります。

参考文献:『神のごときミケランジェロ』池上英洋/著(新潮社)、アート・ビギナーズ・コレクション『もっと知りたいミケランジェロ 生涯と作品』池上英洋/著(東京美術)『システィーナ礼拝堂を読む』越川倫明・松浦弘明・甲斐教行・深田麻里亜/著、『ルネサンス 天才の素顔 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ 三巨匠の生涯』池上英洋/著(美術出版)、『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』(筑摩書房) 他

筆者:田中 久美子

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